壁になれたら
「申し訳ありませんでした……」
「だーかーらー! ごめんなさいは聞き飽きたって言ってるでしょ!」
朝の冷たい空気の中、苛立ち混じりの怒鳴り声が響き渡る。
朝礼の場で、同僚のベアテさんが上司のバルバラ様から叱責を浴びていた。
「いい? 私がさっきから聞いているのは、あなたがどう挽回するつもりかってことなの。おわかり?」
「え、ええ……」
「なら早く答えて」
「は、はい……」
真面目で大人しいベアテさんの顔が真っ青になっている。彼女のミスは、手配したシルクの室内履きの色指定を誤ってしまったというものだ。納品後に気付いたらしい。
王宮指定の特注品のため、再納品には時間がかかる。ただし、日用品でもあり代用可能な常備品はある。いくら手違いとはいえ、人前で激しく叱責されるほど深刻なものではない。
それでもバルバラ様が激昂しているのは、我が国を訪れているフェアリスタの方々から依頼された案件だったためだと思われる。
実はバルバラ様もまた、あのフェアリスタから来た――「妖精騎士」(男たちは「撫で斬り騎士」と呼んでいる)こと、ジュリアス・カルヴィンの大ファンらしい。
かの国に関わるミスとなったため、自分の顔に泥を塗られたと感情を昂らせているのかもしれない。
「ねえ、早く答えて」
「え、ええと……」
「ちっ。使えないわね!」
(……)
口に手を当て嗚咽をこらえているベアテさんの姿に唇を噛む。
この王宮で上司の発言や意向は絶対だ。もし上司の機嫌を少しでも損ねてしまったら昇進の道は遠のいてしまう。ここは静かにしているべきだ。
だが、口が開いていた。
「バルバラ様、よろしいでしょうか?」
「……何? いま私が話してるんだけど?」
「その室内履きは私室でしか使用されません。そして、同じサイズかつ色合いの近い代替品であれば在庫もありましょう。よって、フェアリスタの方々もそこまでお困りにはならないかと存じます」
「……」
「今回届いたものと合わせて一旦納品の上、当初のご要望のものへ後日差し替える予定であることを、先方へお伝えしませんか」
「うるさい。私はいま、上司として指導も兼ねた話をしているの。邪魔しないで」
「……」
「それとも……私に文句でもあるの?」
「いいえ」
「そういえば――」
私を睨んでいたバルバラ様は急にニコッと笑った。
「聞いたわよ。アンタ、あのスミロ・ツアベル様に振られたらしいわね?」
「……」
「しかもスミロ様ったら昨日、ご婚約の発表をされたらしいじゃない? まるでアンタと付き合っていた頃から、そのことを決めていたみたいにね」
「……」
「残念よね? 昔から『石壁女』だの『氷壁女』だの呼ばれてきたアンタにようやく春が来たって、私も嬉しく思っていたのに。ご愁傷さま。あ、もしかしたら、愚痴りたい気分? いいわ、聞いてあげる。上司として」
「……」
バルバラ様の笑みが深まる。同じ年齢の彼女は私のことをよく知っている。
「そういえばスミロ様のお相手、十代の子らしいじゃない?」
「……」
「首席卒業の才女様も、さすがに若さには勝てないようね?」
「……ありがとうございます。お気遣い、痛み入ります」
ゆっくりと頭を下げた。視線を戻すと、上司は意表を突かれた顔をしていた。
「仰る通り、私たちはもはや若くはございません」
「……」
「ですので、若い人たちが力を発揮できるよう、尽力してまいりましょう」
「……」
しんと静まり返った部屋の中、聞こえるのは周囲の呼吸の音だけ。
皆をこれ以上怯えさせるのは本意ではない。笑顔は苦手だが、乏しい表情筋を駆使して口角をわずかに持ち上げてみる。
「……」
「……」
場は和むどころか、かえって温度が下がったような気がした。
渾身の笑顔もむなしく、他の子たちはさらに戦々恐々とした空気を醸し出している。ベアテさんはぽかんと私を見ている。そして、バルバラ様のおでこをふと見ると――。
血管がはち切れんばかりに浮き出ていた。
「……」
木陰の落ちる静かなベンチに一人座り、ため息をついた。
今はお昼休み。手元には先ほどから弄んでいるだけのパンが一つ。もう一度それを口へ寄せる。だが、唇は開いてくれない。
(食べなきゃ、だめよ)
実家を助けるためにはお金が必要で、体はそのための大切な資本である。きちんと食事を摂らなければ仕事に障る。
「……」
バルバラ様からの言葉を思い出す。彼女のことは慣れている。でも、心が傷つかないわけではない。
ちなみに、先ほどの場は私の意見が通り散会となった。だが、バルバラ様の顔には明らかに私への怒りが浮かんでいた。上司の気分を損ねてはいけないというのに。
仕送りを増やすためには、できれば昇進したい。そのためには上司からの引き立てが不可欠だ。
しかし、さっきはベアテさんのことがどうしても見ていられなかった。それに、自分はもう完全に手遅れな気もする。
(そもそも私、どうして侍女になったんだっけ……)
子供の頃の記憶を辿れば――それは、煌びやかな王都や王宮への憧れがきっかけだった。
けれど今は、漠然と生きるためだけに日々をやり過ごしている気がしてならない。王都に一人で暮らしながら年を重ねるにつれ、身体の具合はじわじわと悪化している。運動の甲斐なく睡眠は浅くなり続け、食も細くなる一方。
「氷壁、か……」
本当に、壁になれたらいいのかしら。
もしそうなら、眠らなくても、食べなくても。たとえ人間関係が得意でなくても、きっと平気でいられる。ただ強くいられる。
そんなことを思いながらパンを袋にしまう。バッグから手のひらサイズの一冊の本を取り出す。
ベージュのカバーをかっちりとかけたそれは、恋愛小説。
誰にも打ち明けたことはないが、実は私は恋愛小説マニアである。
男性と接するのは得意ではない。それでも、物語の男女の恋愛模様にのめり込んでしまう理由は自分でもわからない。
本をそっと開いたときだった。
ガサッ!
「――!」
隣の花壇から何かが突然飛び出してくる。反射的に本を背中に隠す。
「にゃー」
「……」
現れたのは、一匹の優雅な白猫だった。
「にゃーお」
「……」
「にゃーお」
「……どうしたの?」
「にゃーお」
「……」
この広い王宮の庭園に迷い込んでしまったのだろうか。誰かのペットではないだろう。我が国では猫は平民が飼う動物とされ、王族や貴族は関心を示さないからだ。
「……」
「……」
まるでお餅のように真っ白でぽっちゃり気味な体つきと、むすっとした顔つき。そのエメラルドグリーンに似た瞳こそ他所を向いているが、耳はぴこぴこと動き、私の気配をうかがっているような気がした。
「……おいで」
普段よりも高めに声を出す。白猫が周りを見ながら徐々に近づいてくる。
ベンチから身を乗り出して手を差し伸べたら、ちょこんと鼻先をくっつけられ、匂いを嗅がれた。
「うにゃ」
猫はベンチの前でごろんと転がった。
「ふふっ」
これはマッサージをご所望ね。
幸せがその中に詰まっているとしか思えない、もちもちのお腹に触れたい誘惑をぐっと堪えながら背中をそっと撫でる。
指先がどこまでも沈み込んでしまうような、極上の毛並みだった。幸いなことに猫様も気持ちよさそうだ。さらに撫で続けると、何かを鳴らすような音が次第に響いてくる。
「ゴロゴロ……」
「……」
「ゴロゴロ……」
目を細めた白猫はむにっと寝返ると、今度はお腹を全開に見せつけてくる。彼女は雌猫だった。
「ご気分はいかがですか、お嬢様?」
「ゴロゴロ……」
「……」
「ゴロゴロ……ゴロゴロ……」
「……あなたはいいわね」
「……」
白猫は首を少し持ち上げ、こちらを見つめてくる。
「だって、同じ無表情でも、私なんかよりずっと可愛らしいのだから」
「……」
彼女は再び目を瞑った。
猫は神が作りし完璧なものだ、などと思いながら――背中やお腹のふわふわの毛並みをしばらく撫で続けた。
「……あ」
手を止める。食事をしなければ。午後も忙しいのだ。
しかし、白猫はパチリと目を開くとじっとこちらを見つめてくる。まるで「あら私、まだ満足しておりませんの」と言わんばかりの不満げな目つきだ。
「しょうがないニャ―」
おっと、猫語(?)になってしまった。
可愛らしい圧にあっさりと敗北し、マッサージを再開した。首筋を指でこしょこしょとなぞれば、彼女はうっとりと目を閉じる。
「……」
白猫に触れながら思い出す。実は実家でも猫を飼っていた。
子供の頃――親猫からはぐれたらしき子猫を偶然見つけたのだ。猫は木の下で震えていた。ガリガリに痩せ細っていた。
連れて帰った私を、両親は手放しなさいと叱った。泣きながらねだると、お母さんが見つかるか、あるいはその子が死ぬまで面倒を見るという約束で、父は許してくれた。
その後、母猫は結局現れず、子猫は家の子となった。今はもうおばあちゃん猫だけれど、母からの手紙によれば元気らしい。
――でも。
まさか父の方が先にこの世からいなくなってしまうなんて、当時は知る由もなかった。
「………………」
降りしきる雨の中を歩いているときのように、視界が滲んでいく。
積もった雪にみぞれが落ちるように、雫が白い毛並みの奥へと吸い込まれていく。
我に返り、指先で頬をすぐに払う。息を整えようと鼻をそっと啜ったその時。
白猫が突如起き上がって駆け出す。
そして花壇の先で立ち止まり、鍵しっぽをピンと立てた。
「にゃーお!」
「――チャーシャ? どうしたんだい?」
異国の響きを帯びた声。
現れたのは、一人の騎士だった。
(え……?)
白猫の前で屈んだ騎士の頭から、絹糸のようなプラチナブロンドの髪がひと房こぼれ落ちる。
木漏れ日を浴びたそれは、雪解けの草原に射す黄金色の光のように輝いた。




