表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

3/3

第3話 帰る線を先に引け

西塔の再調査は、陽が昇り切る前から始まった。


前日に比べて荷は多い。

 いや、正確には“余計な荷”を減らし、“帰るための荷”を増やした。


灰吸着剤三袋。封鎖布六巻。乾燥炭。反応砂。呼吸布の予備。洗浄用の桶は折り畳み式を二つ。さらに、細い色縄を三色。赤は進入禁止、青は帰還路、黄は仮設待機点だ。


西棟の裏庭で荷を点検しながら、ドーマが眉を上げた。


「昨日より増えてないか」


「増やしました」


「軽く入って軽く見るだけじゃなかったのか」


「軽く見た結果、軽く入っていい場所じゃないと分かったので」


俺がそう答えると、ユハが小さく鼻で笑った。


「分かりやすいな」


ミレイアは記録板を抱えたまま、色縄を見ている。


「その三色、全部使うの?」


「使います。今日は入口の仮封鎖じゃなく、第二環帯の“帰る線”を作るので」


「帰る線?」


「行く線は、だいたい誰でも作れます。奥へ進めばいいだけだから。でも帰る線は、具合が悪くなってからじゃ作れない」


ミレイアは小さく頷いた。


「昨日のうちに書き留めておくべきだったわね、その言い方」


「言葉より、守ってくれれば十分です」


「じゃあ守るよう、ちゃんと命令して」


言われて、俺は少しだけ黙った。

 命令する、という言い方にはまだ慣れない。けれど西塔へ入る以上、曖昧な頼み方で済ませるほうが危ない。


「……西塔内では、俺が帰還手順を決めます。勝手に前へ出ないこと。呼吸布を外さないこと。灯りは最低二つ。異臭、耳鳴り、視界の歪み、皮膚の痒みが出たらすぐ申告。隠されるのが一番困る」


ドーマが腕を組む。


「戦闘判断は俺だな?」


「敵が見えたらお願いします。でも、見えないものは俺の領分です」


槍使いは一瞬だけ口元を歪め、それから頷いた。


「いい。分かりやすい」


西塔に着いたのは、朝の風がまだ鋭い時間だった。


昨日引いた封鎖線はそのまま残っていた。標識板にはユハが書いた文字――《第二環帯手前 未確認沈殿逆流 立入厳禁》――が、夜の湿気を吸って少しだけ歪んでいる。


昇降籠で下りながら、ミレイアが図面を開く。


「今日は昨日の地点から胞庭に半歩踏み込んで、風の流れと沈殿の位置を再確認。そのあと“継ぎ目”の候補を探す。これでいい?」


「はい。あとは帰還点を三つ作ります」


「三つも?」


「第二環帯なら必要です。入口、斜路中腹、胞庭手前。戻る途中で一度でも症状が出たら、その場で止まれるように」


「分かった。記録する」


第一環帯は昨日と同じく、大きな変化はなかった。


問題は斜路に入ってからだ。


湿った冷気。

 壁へ吸われる反応砂。

 そして、昨日よりはっきり感じる“甘い匂い”。


俺はすぐに青縄を張った。

 斜路の入口から中腹まで一本。そこから胞庭手前まで一本。途中に黄縄で待機点を作り、足元の石へ白印を打つ。


ミレイアが感心したように言う。


「これだけで、かなり違って見えるわね」


「人間は線があると戻れます。逆に、綺麗な景色ほど線を失いやすい」


胞庭は朝でも青かった。


天井の割れ目、壁の窪み、石柱の根元。菌糸は坑道のあらゆる隙間を縫って光を溜め込んでいる。まるで地下に空があるみたいだった。


綺麗だ。

 だから気を抜く。


昨日見た白い膨らみは、まだ同じ場所にあった。

 だが一晩で、明らかに大きくなっている。人の頭ほどだったものが、今は盾くらいの広さまで広がっていた。表面は乳白色のまま、薄く脈打っている。


「成長してる」


ユハの声が低くなる。


「沈殿って、こんなふうに増えるのか?」


「普通は増えません」


俺は呼吸布の上からでも分かる匂いに顔をしかめた。


「ここに留まってる時点でおかしい。沈殿残渣なら、本来はもっと下で粘るはずなんです」


ドーマが槍の石突で床を軽く叩いた。


昨日と同じ、半拍遅れた鈍い響き。

 空洞の下に、さらに何かを噛ませたような音だ。


「昨日より近いな」


「ええ。たぶん内部の圧が上がってる」


俺は道具箱から細い金属針を取り出し、白膜の端にそっと差し込んだ。

 抵抗はほとんどない。

 だが三寸ほど入ったところで、急に内側から“引っ張られる”感触があった。


すぐに抜く。

 針先には白濁した粘液がわずかに付着し、その表面で極細の銀糸がくねっていた。


ミレイアが息を呑む。


「生きてるの?」


「分からない。でも死んだ泥ではないです」


針先を反応皿に載せ、黒粉を振る。

 瞬時に皿の縁まで銀色が走った。


「反応が速すぎる……」


「深層由来?」


「少なくとも第二環帯のものじゃない」


そのときだった。


胞庭の奥で、青白い明滅が一列に走った。

 昨日見た曖昧な光じゃない。今度は明らかに、菌糸の房が順番に点いていく。まるで誰かが向こう側から通路の灯りをつけているみたいに。


ドーマが半歩前へ出る。


「何か来るぞ」


「待って」


俺は手を上げて止めた。


明滅はこっちへ近づいているわけじゃなかった。

 横へ流れている。

 そして、その進行に合わせて、壁へ吸われる風が一瞬ずつ強くなる。


「……風の脈だ」


ミレイアが目を細める。


「脈?」


「下から圧が来るたび、菌糸が反応してる。光ってるんじゃなく、脈を見せてるんです」


「何のために」


「知りません。でも、施設なら警報か、流量の可視化か……」


言いながら、自分の言葉に引っかかった。

 可視化。


古代の保守路なら、目で見えない流れを“見えるもの”に変える仕組みがあってもおかしくない。

 もし胞庭の菌糸が、ただの自然発生ではなく、元は設備由来の菌床だったら。


ミレイアも同じことを考えたのか、すぐに図面へ目を落とした。


「第二環帯の左壁裏、閉鎖保守路。ここに換気弁の記載がある」


「昨日、反応砂が吸われた位置と近いです」


「つまり、あの壁の向こうで何かが動いてる?」


「ええ。しかも今も」


俺は壁際へ移動し、青白い粉の流れを追った。

 石壁の継ぎ目は一見すると普通だ。だが膝の高さあたりで、一本だけ目地の沈み方が違う箇所がある。しかも、その周囲だけ菌糸が寄りつかず、石肌が妙に滑らかだった。


「ここです」


ドーマが槍の柄で軽く押す。

 ごく小さく、内側で金属が鳴る音がした。


ユハが呟く。


「扉か」


「たぶん点検板です。完全封鎖じゃなく、表面だけ石で塞いでる」


ミレイアが記録板を脇に挟み、手袋をきつく引いた。


「開けられる?」


「今すぐは危険です」


「理由は?」


「向こうの圧が読めない。開けた瞬間に胞子か沈殿が吹くかもしれない」


ミレイアは即座に頷く。


「じゃあ手順を」


こういうところが、本当に助かる。

 理解できないものに出くわしたとき、大抵の人間は二つに分かれる。無理に開けるか、見なかったことにするかだ。手順を訊ける人間は少ない。


「まず、ここを一次封鎖します。ドーマさん、斜路側の灯りを一つこちらへ。ユハさんは黄縄の待機点まで下がって、異変があればすぐ叫んでください。ミレイアさん、図面を見ながら、換気弁の想定位置を教えてください」


三人が動く。


俺は点検板の前に封鎖布を二重に張り、その外側へ乾燥炭の粉を撒いた。吹き返しがあれば、この粉が先に動く。さらに床の目地に吸着灰を詰め、下からの漏れ道を減らす。


準備を終えたところで、ミレイアが図面を差し出した。


「この位置なら、点検板の向こうは短い保守路。その先に“逆洗止め弁”の記号がある」


「逆洗止め」


「本来、下から上へ沈殿が戻らないようにする弁……だと思う」


思う、で十分だった。

 今ほしいのは確証じゃない。仮説だ。


「西塔は、沈むべきものを沈める施設だった」


「ええ」


「なら今起きてるのは、弁の故障か、意図的な開放です」


その言葉に、ユハが待機点から顔を上げた。


「意図的?」


「誰かが開けたってことか」


ドーマも険しい顔になる。


俺は点検板に手を当てた。

 石は冷たい。

 でも、その向こうからごく僅かに、一定間隔の震えが伝わってくる。


まるで巨大な何かが、どこか深い場所で、まだ規則正しく動いているみたいに。


「……ミレイアさん、昨日の西塔事故記録の中で、採集品の種類が急に変わった時期はありますか」


「あるわ。半年前から、二環帯で取れないはずの白鉱片が混じり始めてる」


「やっぱりだ」


「何が?」


「深い層のものを、誰かが上で拾えてる。だから西塔に人が戻ってきた」


商会だ。

 儲からないはずの西塔に、また人を入れた理由はそれしかない。


ミレイアも気づいたらしい。目が鋭くなる。


「灰冠商会……」


「可能性は高いです」


そこまで言ったところで、乾燥炭の粉がふっと舞った。


全員が息を止める。


点検板の縁。

 わずかな隙間から、白い霧のようなものが一筋だけ漏れた。

 だがそれは空中へ広がらず、封鎖布へ触れた瞬間、音もなく吸い込まれた。


「圧が来た」


「周期は?」


ミレイアがすぐ訊く。


「……数えて」


一、二、三、四――


六つ目で、また白い筋が漏れる。


さらに六つ数えて、三度目。


「六拍」


「かなり規則的ね」


「設備由来の可能性が上がりました」


自然現象にしては、整いすぎている。

 しかも脈に合わせて、胞庭の青い光が順番に点いている。


西塔は壊れて放置されているだけじゃない。

 壊れたまま、何かが今も稼働している。


「今日は開けません」


俺ははっきり言った。


「情報は取れた。これ以上やると、戻る線より先に異常が増える」


ドーマが槍を下ろす。


「賛成だ。ここは槍でどうにかする場所じゃない」


ユハも弩を背に戻した。


「久しぶりに“見えないほうが嫌な現場”だな」


ミレイアは点検板をじっと見つめていたが、やがて息を吐いた。


「撤収しましょう。ただし、ここは二重封鎖。今日中に上へ報告、明日までに開放許可の確認……いえ、違うわね」


「?」


「許可を待ってたら先に証拠を消されるかもしれない」


その一言に、場の空気が変わる。


灰冠商会。

 西塔。

 取れないはずの白鉱片。

 そして、逆洗止め弁らしき設備。


偶然で片づけるには、繋がりすぎていた。


ミレイアは記録板を閉じる。


「上には報告する。でも詳細は伏せる。少なくとも“二環帯で深層由来残渣を確認”とは書かない」


「揉めますよ」


「揉める前提で進めるわ」


俺は少しだけ息を吐いた。

 厄介だが、正しい。ここで正直に全部書けば、先に動くのは監督局じゃなく商会のほうだ。


撤収前、俺は点検板の脇に小さな印をつけた。

 目地の端、普通の人間なら見落とす位置に、灰吸着剤を指で擦り込む。もし誰かが夜のうちに開ければ、翌朝には必ず痕が残る。


それを見て、ミレイアが訊く。


「罠?」


「確認です。誰かが触ったら分かる」


「あなた、そういうのもやるのね」


「現場では、触ったか触ってないかで話が変わるので」


地上へ戻る昇降籠の中、誰も疲れた顔はしていたが、目は昨日より冴えていた。

 見えたからだ。西塔の異常は曖昧な噂じゃない。壁の向こうで、確かに動いている。


縦坑の風が上へ吹き抜ける。

 その中に、昨日よりわずかに強い鉄臭さが混じっていた。


「レオン」


ミレイアが外を見たまま言う。


「はい」


「西塔は、どこまで悪いと思う?」


俺は少し考えた。


「第二環帯だけなら、まだ運用で誤魔化せます。でも点検板の先が本当に逆洗止め弁なら……」


「なら?」


「悪いのは西塔じゃない。西塔の“下”です」


ミレイアは何も返さなかった。

 ただ、昇降籠の鎖が軋む音の中で、静かに図面の端を指で押さえていた。


地上の光が見えてくる。


でも俺には、その光が少しだけ遠く感じた。


西塔の中で見つけたのは、白い沈殿でも、青い菌糸でもない。

 もっと厄介なものだ。


下にあるはずのものが、上へ来ている。

 そしてそれを、人が使っているかもしれない。


もしそうなら、西塔の再生は清掃や保全だけで済まない。

 この塔を壊している手順そのものを、止めなければならない。


昇降籠が地上に着いた瞬間、朝の光が差し込んだ。


だが俺の頭の中には、まだ第二環帯の青白い脈動が残っていた。

 六拍。

 六拍ごとに漏れた白い筋。

 設備の呼吸みたいな、規則的な逆流。


西塔は壊れている。

 けれど同時に、誰かに“使われて”もいる。


その確信だけを持って、俺たちは地上へ戻った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ