第3話 帰る線を先に引け
西塔の再調査は、陽が昇り切る前から始まった。
前日に比べて荷は多い。
いや、正確には“余計な荷”を減らし、“帰るための荷”を増やした。
灰吸着剤三袋。封鎖布六巻。乾燥炭。反応砂。呼吸布の予備。洗浄用の桶は折り畳み式を二つ。さらに、細い色縄を三色。赤は進入禁止、青は帰還路、黄は仮設待機点だ。
西棟の裏庭で荷を点検しながら、ドーマが眉を上げた。
「昨日より増えてないか」
「増やしました」
「軽く入って軽く見るだけじゃなかったのか」
「軽く見た結果、軽く入っていい場所じゃないと分かったので」
俺がそう答えると、ユハが小さく鼻で笑った。
「分かりやすいな」
ミレイアは記録板を抱えたまま、色縄を見ている。
「その三色、全部使うの?」
「使います。今日は入口の仮封鎖じゃなく、第二環帯の“帰る線”を作るので」
「帰る線?」
「行く線は、だいたい誰でも作れます。奥へ進めばいいだけだから。でも帰る線は、具合が悪くなってからじゃ作れない」
ミレイアは小さく頷いた。
「昨日のうちに書き留めておくべきだったわね、その言い方」
「言葉より、守ってくれれば十分です」
「じゃあ守るよう、ちゃんと命令して」
言われて、俺は少しだけ黙った。
命令する、という言い方にはまだ慣れない。けれど西塔へ入る以上、曖昧な頼み方で済ませるほうが危ない。
「……西塔内では、俺が帰還手順を決めます。勝手に前へ出ないこと。呼吸布を外さないこと。灯りは最低二つ。異臭、耳鳴り、視界の歪み、皮膚の痒みが出たらすぐ申告。隠されるのが一番困る」
ドーマが腕を組む。
「戦闘判断は俺だな?」
「敵が見えたらお願いします。でも、見えないものは俺の領分です」
槍使いは一瞬だけ口元を歪め、それから頷いた。
「いい。分かりやすい」
西塔に着いたのは、朝の風がまだ鋭い時間だった。
昨日引いた封鎖線はそのまま残っていた。標識板にはユハが書いた文字――《第二環帯手前 未確認沈殿逆流 立入厳禁》――が、夜の湿気を吸って少しだけ歪んでいる。
昇降籠で下りながら、ミレイアが図面を開く。
「今日は昨日の地点から胞庭に半歩踏み込んで、風の流れと沈殿の位置を再確認。そのあと“継ぎ目”の候補を探す。これでいい?」
「はい。あとは帰還点を三つ作ります」
「三つも?」
「第二環帯なら必要です。入口、斜路中腹、胞庭手前。戻る途中で一度でも症状が出たら、その場で止まれるように」
「分かった。記録する」
第一環帯は昨日と同じく、大きな変化はなかった。
問題は斜路に入ってからだ。
湿った冷気。
壁へ吸われる反応砂。
そして、昨日よりはっきり感じる“甘い匂い”。
俺はすぐに青縄を張った。
斜路の入口から中腹まで一本。そこから胞庭手前まで一本。途中に黄縄で待機点を作り、足元の石へ白印を打つ。
ミレイアが感心したように言う。
「これだけで、かなり違って見えるわね」
「人間は線があると戻れます。逆に、綺麗な景色ほど線を失いやすい」
胞庭は朝でも青かった。
天井の割れ目、壁の窪み、石柱の根元。菌糸は坑道のあらゆる隙間を縫って光を溜め込んでいる。まるで地下に空があるみたいだった。
綺麗だ。
だから気を抜く。
昨日見た白い膨らみは、まだ同じ場所にあった。
だが一晩で、明らかに大きくなっている。人の頭ほどだったものが、今は盾くらいの広さまで広がっていた。表面は乳白色のまま、薄く脈打っている。
「成長してる」
ユハの声が低くなる。
「沈殿って、こんなふうに増えるのか?」
「普通は増えません」
俺は呼吸布の上からでも分かる匂いに顔をしかめた。
「ここに留まってる時点でおかしい。沈殿残渣なら、本来はもっと下で粘るはずなんです」
ドーマが槍の石突で床を軽く叩いた。
昨日と同じ、半拍遅れた鈍い響き。
空洞の下に、さらに何かを噛ませたような音だ。
「昨日より近いな」
「ええ。たぶん内部の圧が上がってる」
俺は道具箱から細い金属針を取り出し、白膜の端にそっと差し込んだ。
抵抗はほとんどない。
だが三寸ほど入ったところで、急に内側から“引っ張られる”感触があった。
すぐに抜く。
針先には白濁した粘液がわずかに付着し、その表面で極細の銀糸がくねっていた。
ミレイアが息を呑む。
「生きてるの?」
「分からない。でも死んだ泥ではないです」
針先を反応皿に載せ、黒粉を振る。
瞬時に皿の縁まで銀色が走った。
「反応が速すぎる……」
「深層由来?」
「少なくとも第二環帯のものじゃない」
そのときだった。
胞庭の奥で、青白い明滅が一列に走った。
昨日見た曖昧な光じゃない。今度は明らかに、菌糸の房が順番に点いていく。まるで誰かが向こう側から通路の灯りをつけているみたいに。
ドーマが半歩前へ出る。
「何か来るぞ」
「待って」
俺は手を上げて止めた。
明滅はこっちへ近づいているわけじゃなかった。
横へ流れている。
そして、その進行に合わせて、壁へ吸われる風が一瞬ずつ強くなる。
「……風の脈だ」
ミレイアが目を細める。
「脈?」
「下から圧が来るたび、菌糸が反応してる。光ってるんじゃなく、脈を見せてるんです」
「何のために」
「知りません。でも、施設なら警報か、流量の可視化か……」
言いながら、自分の言葉に引っかかった。
可視化。
古代の保守路なら、目で見えない流れを“見えるもの”に変える仕組みがあってもおかしくない。
もし胞庭の菌糸が、ただの自然発生ではなく、元は設備由来の菌床だったら。
ミレイアも同じことを考えたのか、すぐに図面へ目を落とした。
「第二環帯の左壁裏、閉鎖保守路。ここに換気弁の記載がある」
「昨日、反応砂が吸われた位置と近いです」
「つまり、あの壁の向こうで何かが動いてる?」
「ええ。しかも今も」
俺は壁際へ移動し、青白い粉の流れを追った。
石壁の継ぎ目は一見すると普通だ。だが膝の高さあたりで、一本だけ目地の沈み方が違う箇所がある。しかも、その周囲だけ菌糸が寄りつかず、石肌が妙に滑らかだった。
「ここです」
ドーマが槍の柄で軽く押す。
ごく小さく、内側で金属が鳴る音がした。
ユハが呟く。
「扉か」
「たぶん点検板です。完全封鎖じゃなく、表面だけ石で塞いでる」
ミレイアが記録板を脇に挟み、手袋をきつく引いた。
「開けられる?」
「今すぐは危険です」
「理由は?」
「向こうの圧が読めない。開けた瞬間に胞子か沈殿が吹くかもしれない」
ミレイアは即座に頷く。
「じゃあ手順を」
こういうところが、本当に助かる。
理解できないものに出くわしたとき、大抵の人間は二つに分かれる。無理に開けるか、見なかったことにするかだ。手順を訊ける人間は少ない。
「まず、ここを一次封鎖します。ドーマさん、斜路側の灯りを一つこちらへ。ユハさんは黄縄の待機点まで下がって、異変があればすぐ叫んでください。ミレイアさん、図面を見ながら、換気弁の想定位置を教えてください」
三人が動く。
俺は点検板の前に封鎖布を二重に張り、その外側へ乾燥炭の粉を撒いた。吹き返しがあれば、この粉が先に動く。さらに床の目地に吸着灰を詰め、下からの漏れ道を減らす。
準備を終えたところで、ミレイアが図面を差し出した。
「この位置なら、点検板の向こうは短い保守路。その先に“逆洗止め弁”の記号がある」
「逆洗止め」
「本来、下から上へ沈殿が戻らないようにする弁……だと思う」
思う、で十分だった。
今ほしいのは確証じゃない。仮説だ。
「西塔は、沈むべきものを沈める施設だった」
「ええ」
「なら今起きてるのは、弁の故障か、意図的な開放です」
その言葉に、ユハが待機点から顔を上げた。
「意図的?」
「誰かが開けたってことか」
ドーマも険しい顔になる。
俺は点検板に手を当てた。
石は冷たい。
でも、その向こうからごく僅かに、一定間隔の震えが伝わってくる。
まるで巨大な何かが、どこか深い場所で、まだ規則正しく動いているみたいに。
「……ミレイアさん、昨日の西塔事故記録の中で、採集品の種類が急に変わった時期はありますか」
「あるわ。半年前から、二環帯で取れないはずの白鉱片が混じり始めてる」
「やっぱりだ」
「何が?」
「深い層のものを、誰かが上で拾えてる。だから西塔に人が戻ってきた」
商会だ。
儲からないはずの西塔に、また人を入れた理由はそれしかない。
ミレイアも気づいたらしい。目が鋭くなる。
「灰冠商会……」
「可能性は高いです」
そこまで言ったところで、乾燥炭の粉がふっと舞った。
全員が息を止める。
点検板の縁。
わずかな隙間から、白い霧のようなものが一筋だけ漏れた。
だがそれは空中へ広がらず、封鎖布へ触れた瞬間、音もなく吸い込まれた。
「圧が来た」
「周期は?」
ミレイアがすぐ訊く。
「……数えて」
一、二、三、四――
六つ目で、また白い筋が漏れる。
さらに六つ数えて、三度目。
「六拍」
「かなり規則的ね」
「設備由来の可能性が上がりました」
自然現象にしては、整いすぎている。
しかも脈に合わせて、胞庭の青い光が順番に点いている。
西塔は壊れて放置されているだけじゃない。
壊れたまま、何かが今も稼働している。
「今日は開けません」
俺ははっきり言った。
「情報は取れた。これ以上やると、戻る線より先に異常が増える」
ドーマが槍を下ろす。
「賛成だ。ここは槍でどうにかする場所じゃない」
ユハも弩を背に戻した。
「久しぶりに“見えないほうが嫌な現場”だな」
ミレイアは点検板をじっと見つめていたが、やがて息を吐いた。
「撤収しましょう。ただし、ここは二重封鎖。今日中に上へ報告、明日までに開放許可の確認……いえ、違うわね」
「?」
「許可を待ってたら先に証拠を消されるかもしれない」
その一言に、場の空気が変わる。
灰冠商会。
西塔。
取れないはずの白鉱片。
そして、逆洗止め弁らしき設備。
偶然で片づけるには、繋がりすぎていた。
ミレイアは記録板を閉じる。
「上には報告する。でも詳細は伏せる。少なくとも“二環帯で深層由来残渣を確認”とは書かない」
「揉めますよ」
「揉める前提で進めるわ」
俺は少しだけ息を吐いた。
厄介だが、正しい。ここで正直に全部書けば、先に動くのは監督局じゃなく商会のほうだ。
撤収前、俺は点検板の脇に小さな印をつけた。
目地の端、普通の人間なら見落とす位置に、灰吸着剤を指で擦り込む。もし誰かが夜のうちに開ければ、翌朝には必ず痕が残る。
それを見て、ミレイアが訊く。
「罠?」
「確認です。誰かが触ったら分かる」
「あなた、そういうのもやるのね」
「現場では、触ったか触ってないかで話が変わるので」
地上へ戻る昇降籠の中、誰も疲れた顔はしていたが、目は昨日より冴えていた。
見えたからだ。西塔の異常は曖昧な噂じゃない。壁の向こうで、確かに動いている。
縦坑の風が上へ吹き抜ける。
その中に、昨日よりわずかに強い鉄臭さが混じっていた。
「レオン」
ミレイアが外を見たまま言う。
「はい」
「西塔は、どこまで悪いと思う?」
俺は少し考えた。
「第二環帯だけなら、まだ運用で誤魔化せます。でも点検板の先が本当に逆洗止め弁なら……」
「なら?」
「悪いのは西塔じゃない。西塔の“下”です」
ミレイアは何も返さなかった。
ただ、昇降籠の鎖が軋む音の中で、静かに図面の端を指で押さえていた。
地上の光が見えてくる。
でも俺には、その光が少しだけ遠く感じた。
西塔の中で見つけたのは、白い沈殿でも、青い菌糸でもない。
もっと厄介なものだ。
下にあるはずのものが、上へ来ている。
そしてそれを、人が使っているかもしれない。
もしそうなら、西塔の再生は清掃や保全だけで済まない。
この塔を壊している手順そのものを、止めなければならない。
昇降籠が地上に着いた瞬間、朝の光が差し込んだ。
だが俺の頭の中には、まだ第二環帯の青白い脈動が残っていた。
六拍。
六拍ごとに漏れた白い筋。
設備の呼吸みたいな、規則的な逆流。
西塔は壊れている。
けれど同時に、誰かに“使われて”もいる。
その確信だけを持って、俺たちは地上へ戻った。




