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第一話 『戦えない清掃士は要らない』

はじめまして、あるいはいつもありがとうございます。

 本作は、剣や魔法で敵を倒す話というより、汚染・帰還・保全といった「見えない危険」と向き合う物語になります。

 少しでも楽しんでいただけたら嬉しいです。



第三環帯《鏡渡》からの帰還路は、いつもより静かだった。


いや、違う。

 静かなのではない。全員が、何かを聞かないようにしている。


水路の両側に張りついた鏡膜が、ランタンの光を歪めて返していた。足音が一歩遅れて背後からついてくる。誰も喋らないのに、濡れた石壁の向こうで、誰かがひそひそと囁いている気がした。


俺は歩きながら、前を行く剣士ロドの靴裏を見た。

 黒革の縁に、銀色の膜がうっすらこびりついている。


「止まってください」


先頭を行く隊長ガイルが、露骨に舌打ちした。


「またか、レオン」


「ロドさんの靴裏と、後衛三人の裾に残響臭の沈着があります。このまま昇降籠に乗せるのは危険です。ここで封鎖洗浄を」


「そんなもので足を止めろと言うのか?」


ガイルが振り返る。白銀の胸当てに、深層風で曇った細かな斑点が浮いていた。あれも本当はよくない。だが今は靴裏のほうが先だ。


「ここでやらないと、帰還中に逆流します。鏡渡の汚染は上へ持ち帰るほど反応が強くなる。宿舎に入ってからでは遅いです」


「……聞いたか、お前たち」


ガイルは肩をすくめ、隊員たちを見回した。


「魔物は一匹残らず斬った。戦果は上々。なのにこいつは、靴の泥がどうの、臭いがどうのと怯えている」


後ろで誰かが笑った。

 疲労混じりの、乾いた笑いだった。


「泥じゃありません。ここは第三環帯です。ただの汚れと一緒にしないでください」


「同じだろうが。落とせば済むんだろ?」


「順番があります。まず靴裏、次に裾、最後に――」


「もういい」


ガイルの声が坑道に響いた。

 鏡膜がそれを拾い、少し遅れて、もういい、もういい、と囁き返す。


「レオン。お前はここで隊を外れる」


言葉の意味が、すぐには入ってこなかった。


「……は?」


「戦えない清掃士は要らない。進軍を遅らせ、士気を下げる。お前は雑用係としても過保護すぎる」


隊員たちの視線が集まる。

 同情はない。面倒ごとが減った、という安堵が半分。何か起きる前に責任の押しつけ先ができた、という打算が半分。


ガイルは俺の背の道具箱を顎で示した。


「昇降籠で先に上がれ。報告は俺がする」


「待ってください。今ここで除染しないと、本当にまずい。少なくともロドさんと荷袋三つは隔離を――」


「命令だ」


その一言で、すべてが終わった。


俺は口を閉じた。

 言い返したところで、この男はもう聞かない。聞けないのだ。自分たちが生きて帰ってきた理由を、剣でも魔法でもなく、帰還前の地味な手順に求めることができない。


だから切り捨てる。

 ずっとそうだった。


俺は肩紐を締め直し、道具箱を持ち直した。


「分かりました。では、先に戻ります」


「最初からそうしていればいい」


俺は列を外れ、昇降籠のほうへ歩き出した。

 すれ違いざま、ロドの靴裏から、銀色の膜が糸みたいに揺れるのが見えた。


――もう遅い。


そう思ったが、口には出さなかった。


昇降籠が軋みながら上昇を始める。

 見下ろした帰還路で、第三探索隊の灯りがゆっくり遠ざかる。鏡膜の壁に反射した光が、まるで坑道そのものが笑っているみたいに瞬いていた。


地上に着く頃には、一人目が異臭を訴え始めるはずだ。

 宿舎に入る前に止められなければ、二人。

 倉庫に荷を運び込めば、三人では済まない。


俺は唇を噛んだ。


第三環帯の汚染は、人をすぐには殺さない。

 ただ、帰ってきた者から順番に、壊していく。


昇降籠が地上の揚場に着いたとき、空はもう夕暮れに沈みかけていた。


断崖都市ヘルムラードの風は冷たく、縦坑の底から吹き上がる湿気を薄く引きのばして、石造りの桟橋へ流していく。灰鐘坑の縁に沿って組まれた揚場では、荷揚げ人夫たちが次の籠の準備をしていたが、俺が一人で戻ったのを見ると、何人かが怪訝そうに眉をひそめた。


「おや、今日は早いな、清掃士」


番頭のバルグが声をかけてくる。

 煤けた髭に油染みの残る上着。揚場一筋三十年の男だ。


「第三探索隊は?」


「まだ下です」


「また先に追い返されたのか?」


笑い混じりの言葉だったが、俺は頷かなかった。


「バルグさん、第三探索隊が戻ったら、荷をそのまま倉庫へ入れないでください。揚場の脇を使って仮封鎖を。靴裏も裾も、全部確認が必要です」


バルグの顔から、少しだけ笑いが消えた。


「……何を拾った?」


「《鏡渡》の残響臭です。沈着は軽く見えても、帰還途中に逆流します。特に荷袋三つ。あれは危ない」


「隊長の許可は?」


「ありません」


そこでバルグはため息をついた。

 こういうとき、現場の人間は困る。俺の言っていることが間違っていないのを知っていても、花形探索隊の面子を潰す判断を自分からはできないからだ。


「お前の口から出る“危ない”は、だいたい本当に危ないんだがな」


「だったら」


「だが、俺が勝手に隊の荷を止めりゃ揉める。監督局の札が要る」


そうだろうと思っていた。

 俺は舌の裏に苦味を感じながら、揚場脇の洗い場へ向かった。桶に水を張り、灰吸着剤の袋を開き、封鎖布を広げる。許可がなくても、自分の準備だけはしておくしかない。


やがて、縦坑の下から二度、短く鐘が鳴った。

 帰還籠の接近を知らせる合図だ。


揚場の空気がわずかに浮つく。人夫、荷運び、見物の子ども、酒場帰りの半端者まで、花形の第三探索隊が戻るとなれば誰でも見に来る。今日もガイルは戦果を見せびらかすつもりなのだろう。


だが、俺は籠が上がってくる音を聞いた瞬間に、胸の奥が冷えた。


早い。


帰還の足取りとしては、少し早すぎる。

 誰かが、もう耐えられていない。


鎖の軋みとともに籠が姿を現した。

 最初に見えたのは、前衛のロドが縁に手をついて俯いている姿だった。肩が小刻みに震えている。次いで、後衛の女魔術師が口元を押さえ、顔面を青ざめさせているのが見えた。


ガイルはまだ立っていた。

 だが顔色が悪い。胸当ての斑点も、下では薄かったはずなのに、今は濡れた灰みたいな色に広がっている。


「おい、止めろ!」


俺は籠が完全に着く前に叫んだ。


「誰も降りるな! そのまま待機! 荷には触るな!」


揚場が一瞬、静まり返る。


次の瞬間、ガイルが顔を上げた。


「何を仕切っている、レオン!」


「ロドさん、吐き気が出てるでしょう。鼻の奥、鉄臭くないですか。耳鳴りもあるはずです。残響臭の逆流です、まだ間に合う。ここで封鎖を――」


「うるさい!」


怒鳴ったのはガイルだったが、ロドのほうは返事をしなかった。

 代わりに、籠の床へどろりと胃液を吐いた。


その臭いに混じって、別の匂いがした。

 甘い。

 甘くて、冷たい。

 第三環帯《鏡渡》の、あの“誰かの恐怖を磨いて伸ばした”ような臭いだ。


見物人の一人が顔をしかめる。


「なんだ……この匂い」


「下がって!」


俺は洗い場から封鎖布を掴み、駆け寄った。


「揚場を空けろ! 荷役も見物も全部下がれ! 吸うな、近寄るな!」


バルグがようやく怒鳴り返してくれた。


「聞こえなかったのか、野次馬ども! 散れ!」


人々がざわつきながら後退する。

 そのとき、籠の奥で女魔術師が細い悲鳴をあげた。


「やめて……っ、やめて、もう聞こえないで……!」


彼女は何もない空間を振り払うように両手を振り回し、その勢いで荷袋のひとつを蹴り倒した。口が緩み、中から銀糸のような膜をまとった鉱片がこぼれ落ちる。


「触るな!」


俺の声と同時に、近くの荷運びが思わず一歩踏み出し――その足を止めた。

 俺が睨んだからではない。鉱片の落ちた石床の上で、夕陽を受けた薄い膜がふっと揺れ、まるで濡れた呼気みたいに広がったからだ。


その場にいた全員が、ようやく直感した。


これは、普通の帰還じゃない。


ガイルが剣の柄に手をかけた。

 完全に見当違いだ。


「魔物の気配はない!」


「あるわけないでしょう。持ち帰ったのは生き物じゃない、汚染です!」


俺は籠へ飛び乗り、ロドの膝元に封鎖布を投げる。


「それを靴に巻いてください。すぐに」


「れ、レオン……」


ロドは顔を上げた。目の焦点が少しずれている。

 まずい。まだ話せる。今なら処置が間に合う。


「ゆっくり息を吸って、口じゃなく鼻で吐くな。布越しに短く。荷を見るな、壁を見るな、足元だけ見ろ」


「……壁の向こうで、誰か、泣いてる」


「聞こえません。あれは残響です。無視してください」


言いながら、俺はガイルの胸当てに触れた。

 冷たい。金属じゃないみたいに冷えている。


「あなたは籠から降りないでください。胸当てを外します」


「ふざけるな」


「もう始まってる。今外さないと、帰って寝たあと内側から腐食します」


ガイルは俺の手を払いのけた。

 強かったが、ほんの少しだけ遅い。もう反応に鈍りが出ている。


「俺に命令するな、雑用係」


その言葉の直後、後ろで鈍い音がした。


振り返ると、女魔術師が籠の中で崩れ落ちていた。

 鼻血が一筋、唇を伝っている。


揚場の空気が、完全に変わった。


さっきまでの野次馬のざわめきは消えていた。

 代わりにあるのは、誰もが声を潜めて呼吸する、冷えた恐怖だけだ。


バルグが低い声で言う。


「……監督局を呼べ。今すぐだ」


人夫が一人、青ざめたまま駆けていく。


俺はその背を見送らず、倒れた女魔術師の脈を取り、荷袋の位置を確認し、封鎖布をさらに広げた。

 やることは山ほどある。

 だが人手が足りない。許可も足りない。何より、ここにいる連中の大半は、まだ“何が起きているか”を理解していない。


それでも、もう誤魔化しは利かなかった。


第三探索隊は強かった。

 そのはずだった。


なのに、地上へ戻ってきた途端に壊れ始めた。


その現実だけが、灰鐘坑の縁で、夕暮れの風よりも冷たく広がっていく。


最初に聞こえたのは、硬い踵が石段を打つ音だった。


揚場の裏手、監督局へ続く通路から、薄灰色の外套を翻した女が姿を現す。まだ若い。だが足取りに迷いがなく、目だけが妙に冷えている。肩口には辺境監督局の青銅章。胸元には、現場立ち入り権限を示す札。


「誰が封鎖を指示したの」


声は高くないのに、揚場のざわめきがすっと割れた。


バルグが片手を上げる。


「正式な指示はまだだ、ミレイア技官。だが、こいつが――」


「レオン・クラフトです」


俺が言うと、ミレイアは一瞬だけこちらを見た。

 それから籠の中へ視線を滑らせ、倒れた女魔術師、吐瀉物の跡、床に転がった鉱片、そしてガイルの胸当ての斑点を順番に確認した。


観察にかかった時間は、たぶん三秒もない。


「第三環帯帰りね」


彼女はそう言って籠へ近づくと、躊躇なく鼻と口を布で覆った。


「揚場全体を第二封鎖。見物人は百歩以上下がらせて。荷揚げ作業は停止。記録係を呼んで、帰還時刻と接触者を全部控えて」


バルグが目を剥く。


「お、おい、本気か? それをやれば今日の揚場は全部止まるぞ」


「止めないと明日の宿舎が止まるわ」


ぴしゃりと言い切ってから、彼女は俺へ向き直った。


「あなた、処置の手順は組める?」


「はい。まず荷袋三つを隔離。次にロドさんと女魔術師を籠内で一次封鎖。ガイル隊長は胸当てを外してもらわないと――」


「聞いたわね、隊長」


ミレイアの視線がガイルへ向く。


だがガイルは顔を歪めたまま、なおも柄に手をかけていた。


「監督局風情が、探索隊に口を出すな。これは俺の隊の問題だ」


「違う。もう街の問題よ」


「大げさだ」


「大げさなら、あなたの後衛はどうして鼻血を出して倒れているの?」


ガイルが言葉を詰まらせる。


ミレイアはそこで畳みかけた。


「第三環帯《鏡渡》の帰還者が、封鎖洗浄なしで揚場に上がってきた時点で、これは探索隊内部の裁量を超えている。辺境監督局規定第二十七条、逆流症疑い発生時における現場一時接収。今この場の指揮権は私にあるわ」


その言葉で、空気が変わった。


ガイルはなお不満そうだったが、完全に怒鳴り返すだけの勢いを失っている。逆流が始まっているのだろう。目の動きが少しだけ遅い。


俺はその隙に、封鎖布を籠の縁へ固定した。


「バルグさん、灰吸着剤を追加で二袋。洗い水は桶ごと替えてください。さっきのはもう使えません」


「……ああ、分かった!」


さっきまで逡巡していたバルグが、今度は怒鳴る側に回る。

 現場は、一人でも明確に責任を取る人間が立つと動く。


ミレイアはしゃがみ込み、倒れた女魔術師の瞼を開いた。


「瞳孔反応、まだ保ってる。レオン、この人は?」


「後衛のフィーネさんです。鏡渡で反響魔術を使っていました」


「最悪ね。感覚器が開いたまま帰ってきた」


彼女は舌打ちこそしなかったが、目だけでそう言った。


「ロドさんから先にやります」


俺はロドの靴へ封鎖布を巻きつけ、灰吸着剤を振る。銀色の膜がじわりと黒ずみ、布へ移っていく。


「う、ぁ……っ」


「見ないでください。足元だけ。呼吸は短く」


ロドは汗だくの顔で頷いた。


横でミレイアが小さく言う。


「手際がいいわね」


「これが仕事なので」


「第三探索隊は、これをいつもあなた一人に?」


「はい」


「……そう」


その短い返事に、感心とも呆れともつかない色が混じった。


ガイルが一歩、こちらへ踏み出した。


「ミレイア技官。いい加減にしろ。大したことではない。少し休めば――」


言い終える前に、乾いた音が響いた。


胸当ての中央に走っていた灰色の斑が、蜘蛛の巣のようにひび割れたのだ。


誰かが息を呑む。


ひびの隙間から、白い粉のようなものがぱらぱらとこぼれた。金属の削れ滓ではない。内側から腐食した繊維と、汗に混じった塩の結晶が一緒に押し出されている。


「……外してください」


今度の俺の声に、ガイルは反論しなかった。


というより、できなかった。


顔色が土みたいに悪い。自分でも分かったのだろう。このまま意地を張っていれば、本当に壊れると。


俺とバルグで留め具を外す。胸当てを持ち上げた瞬間、内側に貼っていた革布がぼろりと崩れた。

 周囲にざわめきが走る。


「内張りまで……」


「腐食露が入ってる。やっぱりだ」


俺は胸当てをそのまま隔離桶へ沈めた。


ミレイアは倒れたフィーネの首元に触れ、次いで俺の手元の動きを見ていた。

 観察する目だ。しかも、ただ見ているだけじゃない。頭の中で、今の処置の意味を追っている。


「レオン、あなたの記録はある?」


「……あります」


「あとで見せて」


「はい」


そのとき、揚場の外から慌ただしい足音がいくつも近づいてきた。監督局の補助員と医務係だ。担架、封印箱、記録板。ようやく最低限の人手が揃う。


だが、ミレイアはそこでもまず俺に聞いた。


「優先順位を言って」


「一番はフィーネさん。次がロドさん。ガイル隊長は歩けるうちに隔離室へ。荷袋三つは封印箱行き。揚場の石床も洗浄が必要です」


「了解。全員、その通りに」


補助員たちが一斉に動く。


ガイルは担架に乗せられるフィーネを見て、ようやく現実を理解した顔になった。自分の隊が、地上に着いた途端に壊れたことを。


俺はその顔を見ても、何も感じなかった。

 怒りも、ざまあみろもない。


ただ、遅かったと思うだけだ。


最初から分かっていた。

 第三環帯の汚染を、あのまま持ち帰ればこうなると。


すべての初期処置が終わった頃には、空はすっかり藍色に変わっていた。揚場は封鎖され、見物人は追い払われ、石床には洗浄水の白い筋が残っている。昼の喧噪が嘘みたいに静かだった。


俺は道具箱を閉じ、ようやく息を吐いた。


「終わった?」


背後からミレイアの声がした。


「応急処置は」


「そう」


彼女は封鎖線の外に立って、薄い板帳をめくっていた。

 揚場灯の光が横顔を照らす。細い指が、記録の空白をとんとんと叩く。


「第三探索隊、帰還後十分で症状発現。装備腐食、嗅覚錯乱、出血、精神撹乱。……これだけ揃っていて、あなたを“雑用係”で切ったわけね」


言い方は淡々としていたが、さっきより少し棘があった。


「そういう扱いには慣れてます」


「慣れなくていいものに慣れないで」


即答だった。


俺は少しだけ黙った。


こういう返しをする人間は珍しい。

 清掃士の仕事を擁護する者はいても、そこに込められた軽視まで切って捨てる者は少ない。


ミレイアは板帳を閉じる。


「さっき、記録があると言ったわね」


俺は腰の小袋から、防水布で巻いた手帳を取り出した。

 汚染の種類、発生層、帰還者の症状、除染の手順、失敗例。誰に見せるでもなく、ずっと書き溜めていたものだ。


彼女はそれを受け取り、最初の数頁をめくった。

 次の瞬間、目の色が変わった。


「……これは、あなたが全部?」


「現場で見たものをまとめただけです」


「まとめた、で済む量じゃないわ」


頁を繰る手が速くなる。

 第二環帯の胞子付着例。第三環帯の残響臭発現時間。第四環帯帰還者の鎧内腐食。階層をまたいだ症状の重なり。どれも断片的な噂話ではなく、日付と場所と人数付きで書かれている。


「監督局にも、ここまで揃った記録はない」


「提出しても読まれないことが多いので」


「でしょうね。読む頭がないもの」


さらっと言って、彼女は手帳を閉じた。


「レオン・クラフト。あなた、明日から暇?」


唐突すぎて、意味が分からなかった。


「……は?」


「第三探索隊には戻らないでしょうし、向こうも戻す気はないでしょう。だったら監督局が借りる」


「借りる?」


「正式には臨時雇用。任地は旧縦坑区画《灰鐘坑西塔》」


その名に、思わず眉が動いた。


西塔。

 閉鎖寸前の放棄区画。第二環帯以深で帰還事故が相次ぎ、採掘商会すら手を引き始めた“赤字坑”だ。


「……あそこは、監督局でも半分見捨てた場所じゃ」


「半分ね。もう半分は私がまだ見捨ててない」


ミレイアは薄く息を吐いた。


「西塔はおかしいの。事故率が層の深さに対して高すぎる。除染手順が噛み合っていないのか、そもそも構造が歪んでいるのか、現場で見られる人間が必要だった」


「だから俺を?」


「ええ。今日見た限り、少なくともあなたは“戦えるかどうか”で現場を見ていない」


彼女はそこで一度、灰鐘坑の闇へ目を向けた。

 巨大な縦穴の底から吹き上がる風が、外套の裾を揺らす。


「それに――戻ってきた者が壊れる迷宮なら、生きて帰る手順を知っている人間が必要よ」


揚場灯の明かりの中で、手帳が俺へ返される。


「来る?」


西塔は危険だ。

 第三探索隊みたいな花形の連中が嫌がるのも分かる。

 だが同時に、俺の手帳に書き足せていない空白が、あそこには山ほどある。


何が起きているのか。

 なぜ事故率が跳ねているのか。

 どこまでなら帰れて、どこから先が壊れるのか。


知りたい、と思った。


その感情に気づいた瞬間、俺は少しだけ自嘲した。

 俺も結局、灰鐘坑に取り憑かれている側なのだ。


「行きます」


ミレイアは頷いた。

 それだけで契約は成立したみたいに。


「じゃあ夜明け前、監督局西棟。遅れないで」


「……はい」


彼女は補助員へ二、三の指示を飛ばすと、そのまま封鎖線の向こうへ歩いていった。

 後ろ姿は細いのに、不思議と揚場全体が彼女の判断で動いているように見える。


俺は一人、封鎖された石床の脇に立ち尽くした。


背後では、第三探索隊の隔離搬送がまだ続いている。

 前では、灰鐘坑が夜の底へと口を開けている。


戦えない清掃士は要らない。

 そう言われて追放された、その日のうちに。


俺はもう、別の迷宮へ潜ることになっていた。


しかも今度は、誰かの戦果の後始末じゃない。


生きて帰るための手順そのものを、最初から組み直す仕事だ。


縦坑の底から吹き上がる風は冷たかった。

 けれど、その冷たさの奥に、微かに鉄と湿土の匂いが混じっていた。


西塔の匂いだ。


まだ見ていないはずの坑道が、まるで先にこちらを見ているみたいに、喉の奥へその気配を残していく。


――明日から、もっと深いところで働く。


そう思ったときだけ、胸の奥が少しだけ熱くなった。

第1話を読んでいただき、ありがとうございました。


面白そう、続きが気になる、と思っていただけたら、ブックマークや評価で応援してもらえると励みになります。


よろしくお願いします。

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