その言葉
──お前、レシピを間違えたね?
ごらん、ここは「おざなりに混ぜる」とあるんだ。
材料どもは小賢しいからね、気取られちゃあうまくいかない。
なんでもないみたいに、鼻歌でも歌いながらよそ見してりゃいいのさ。
お前の鼻歌は下手だから、ついでに練習するがいいよ。
「毎夜毎夜ご熱心に……首長様もお好きですね」
書庫の重い扉の前で暗闇から不意の囁きを受け、仮面のオークはびくりと震えた。
代理の首長は公務を終えると遅い夕食をとり、主が不在となった書庫で寝る間を惜しみ読書に耽るのが日課となっていた。
入れ替わりを承知していない城の人間は、読書をさして好まない首長の奇行と捉えていたが、男にとって忙しさから逃れ静かな空間で学問や物語に浸る時間は心の癒しとなっていたのだ。
数日のうちに首長補佐官として堂々と政務をこなすまでになった少女ミアネイラは、しかし彼を妨げることはせず書庫へと付き従った。
「明日もお仕事なのですから、お身体に障りますよ」
やがて夜も更けたころ、男に声がかかる。
オークは植物学の分厚い本を閉じ、小さく唸った。実のところ、男は公務に少々嫌気がさしていたのだ。
仮面の首長が執務室に籠るようになった巡りで、交易都市は静かに機能不全を来たしつつあった。
横領や贈収賄の汚職を指摘された官僚は城の会計官に責任を擦り付け、金庫番は帳簿の修正に夜を徹し、街の外壁の修繕をしていた職人への手当は遅れることとなった。
首長夫人を名乗る様子のおかしい親衛隊長は怠惰を許さず、また兵士に過剰な戦闘訓練を求め負傷者を増やし、城の内外に立つ衛兵が激減してしまう。そもそれまで存在すらしなかったたった一人の“親衛隊”の横暴に、組織の規律は大いに乱れた。
通商門の監査が厳密になるとともに人手不足が重なり、隊商の入出を滞らせた。
食卓に上る異国の食物が減りつつあることを市民は未だ実感してはいなかったが、食卓といえば新任の首長補佐官と親衛隊長は常軌を逸した健啖家であり、兵士にも訓練の一環と称して大食を強要するため、城の料理人達は体力が尽きた後も、ただ料理人としての矜持のみで厨房に立ち続けていた。
厨房の疲弊と材料不足は兵士以外の食事に差し響き、執務に当たる一般の役人や給仕たちに行き渡る膳立ては彩りを減らしていた。
それぞれの軋轢と不満は小さな波のさざめきのように散り散りで、それらが一連の原因に基づくことを察した者はいなかったが、諸処の混乱の渦中で奔走した老齢の侍従長が急病で寝込んだのは、わずか四日後のことであった。
古い寓話で頑迷と伝えられるオークの一族と言えど、これを委細構わず看過するほど蒙昧ではない。追って対処を講じてはいるが、ともかく事態は暗雲低迷である。
それが何事にも真摯な男には居たたまれない不条理であった。
「言われた通りに為しているのですから、堂々としていればいいのです。もとより“首長の振りをしろ”と仰せつかったのであって、“首長になりきれ”なんて言われてはいません」
言ってミアネイラはオークの岩肌のような手に、小さな手のひらを重ねた。柔らかい熱は、手の甲を伝って身体全体をほぐすかのようだった。
「傷を治すためには、一度傷口を開かねばならないこともあります。痛みは一時。あとは良くなっていきますよ」
それは至言にも、楽観的な甘言にも聞こえた。
理屈は解せども、長い目で物事を見ることが、この若いオークにはひどく難しく思えた。
「だけどあなたが望むなら」と少女は深い緑の瞳を覗き、微笑む。
「……ズラかりますか。取り分はいただきましたし、もう約束の“数日”は経ったのですから、文句はないはずです!」
オークは少女を捉えたままの目を見開いた。眼中の微笑みを崩さぬままに、あまりに身も蓋もない逃亡の誘いだった。
男の戸惑いを気にも留めずに立ち上がり、ミアネイラは読んでいた本を手際よく書架へ戻す。
「ファーさんは衛兵隊の皆さんを鍛えることに生き甲斐を見出したようですから、残念ですがここでお別れですね。荷物はまとめてあります。夜陰に乗じて抜け出しましょう。裏門は警備が手薄ですよ」
オークは慌てて立ち上がり、少女の目にも入るよう、努めて大きく首を振った。
仮初めの首長とはいえ、自らの不徳が招いた現状である。せめて出来得る限りを尽くし、戻った首長にその座を返すまではここを離れるわけにはいかぬと静かに、確と説いた。
「そのお言葉を待っておりました」
しわがれながらも古樹のような厳格さを帯びた声が、男と少女に投げかけられる。
振り返った二人が目にしたのは、臥しているはずの侍従長の姿であった。
ファーこと首長親衛隊長ファランドルデニカが、侍従長を軽々と胸の前で抱えながら、重い扉を片足で押し開き立っていた。
「どっちでもいいが、妻は夫と共に行くものだ」
舌打ちを隠そうともしないミアを余所に、ファーは誇らしげに胸を張った。
長が去っても、里が廃れることはない。
若いオーク達は、常に次の長たらんと研鑽している。
戒めを軽んじる者がのさばれば、一族は潰える。
故、長にその資質なきと断ずれば、オークが躊躇うことは決してない。




