仮面
──ああ、帰ったのかい?
顔は晒さなかっただろうね……よし。
どれ、騙されて余計に支払っちゃいないか……んん? お釣りが多いじゃないか。
ハッ、金勘定が得意なオークか。まるでお笑い種だねえ。
そんなもん人間に任せときゃあいいってのに。
オークの男が城の執務室に据えられたのは、魔女の書庫を訪れたさらに翌日のことであった。
背もたれの高い首長の椅子は、なるほど人間にはいささか大きすぎた。
机の上に山と積まれた獣の皮を薄く伸ばして鞣した重厚な巻物と、交易都市ならではの粗悪な植物紙の束を前にし、オークの男は仮面の下で嘆息した。
◇
示し合わせた目通りは、まだ側用人でさえも眠る未明に持たれた。
それはオークの想像よりもずいぶん唐突なものだった。
魔女カムララに引き連れられて私室に現れた男を見るや、首長と思しき仮面の大男は弾かれたように立ち上がり、男の周りをぐるぐると周りながら巨体を動揺させ何事かを切迫した様子で捲し立てたのである。
人間に育てられたという首長の早口は男には聞き取れず、ただ眼差しのみ交わして同族に心中で心を鎮めるよう語りかけていた最中、《キミに会えて嬉しいそうだよ》と魔女が通事した。
続けて首長は口元を覆っていた銀縁の装飾輝く仮面を外し、男の手に押し付けた。
手振りで促され男が仮面を着けると、さらに首長はローブを脱いで仮面の上から被せ、胸元を金の大仰なボタンで留めた。
《似合うじゃない》と魔女が笑う。
呆気にとられた一行の前には、都市の首長とは思えぬ壮年のオークが喜色満面に立っていた。
戦に生きる種族にしてはほとんど傷のない身体を、今度は男の着ていた外套を纏って覆う。
質素な布切れひとつで〈首長〉からただの旅のオークへと姿を変えたその者は、長年の拘束から解き放たれたかのように、大きな肩を揺らして晴れやかに息を吐き出した。
仮面の下に隠されていたその貌は一都市を治める権力者のそれでは最早なかったが、しかしどこか強い意志が見て取れ、何も旅人になりたかったわけでないことがうかがえた。
「カムララ様、これは……?」
困惑は少女も同様であった。ミアネイラは訝しんで二人のオークを見比べる。
「なんだ、戦わないのか……」と落胆している者もいる。
《彼に数日間首長の代わりをしてほしい、というのが本題だよ》
異形の魔法使いは森を出てから己が耳を疑い通しであったが、こればかりは言葉の意味が解りこそすれ、欠片も道理が汲み取れなかった。
見ず知らずの旅のオークに責任ある都市の為政を委ねるなど乱心でなくて何であろう。しかし男の不承知など誰の問題でもなかった。交渉の相手はもとより少女ミアであったのだ。
首長と魔女、そして少女の間で瞬く間に白熱する報酬の折衝に戸惑い、先ほどから後ろに控えていたファランドルデニカを見やるも、「首長夫人か……悪くない!」と満足げに、艶めく燭台をナイフのように指先でくるくると弄んでいる始末だった。
《侍従長にだけは秘密を明かしてある。なるべく早く戻るから、形だけでも頼むよ》
「仕事がある」と言い残して速やかに立ち去る魔女と一人のオークを見送り、一行は用途も判らぬ異国の調度品とともに取り残された。
老魔女の館を訪れたカムララもまた、嵐のように去っていくのが常であったことを思い出し、男は静かに腕を組んだ。
かくして慌しい謁見を終え、“首長”は朝方に侍従の老人に促されて執務室へと通されたのであった。
◇
読み書きは得意ながら、世間話も覚束ないオークの男に人間社会の政治の機微など為し得るはずもない。
だから男の振る舞いは、かつて老魔女が文机に向かった様子を真似て、形ばかり行政書類の不備を指摘することに終始した。
分厚い皮紙を一枚手に取り、ペン先が削ったインクの跡を静かな眼光で撫でるように追うと、次の一枚へと移る。
わずかな音すら立てず、無言で、しかし迅速に裁かれていく膨大な紙片。
隣に立つ少女だけが、男の指が数字の上で止まる瞬間を見逃さなかった。
「首長はお怒りです! この不自然な帳尻合わせ! 差額は一体どこへ流れたのですか!」
補佐官として侍るミアネイラが、小さな指先で皮紙の記載を激しく突く。
「隠し立てすると為にならんぞ!」
近衛兵の軽装鎧を纏ったファランドルデニカが、腰の鞘を誇示するように鳴らして一歩踏み出す。
申し合わせるでもなく三者の呼吸は恐ろしいまでに噛み合っていた。
役人たちは突如書類仕事に精を出し始めた仮面の首長を前に、狼狽えて冷や汗を流すほかなかった。
オークが人間の政治の場にあったのは、歴史を紐解けばはるか昔に限られる。
石の如き実直さは時に政争の種にもなったが、それがもとで追われたわけではない。
長命を誇るエルフが長く在位したことで、多種族による政府は均衡を欠き、やがて瓦解したと伝えられている。




