堂に入る
──お前、牙の剝き方がなってないね。
せっかくオークに生まれたんだから、思い切り相手を脅かさなきゃあ損だよ。
もっと奥歯を食いしばって、ム! ってやるんだ。ほら、やってみな。
……アッハハハハ! なんともまあ、情けのない顔だ。
まあいい、どうせその時になりゃあ、自然と様になっちまうもんさ。
「赤錆びし山脈の主、赫灼戦鬼クラトドイの血脈、〈十駄〉のボルドルが末娘! ファランドルデニカ!」
オークを自称する女の名乗りが意外にも堂に入ったものであったので、男は少し感心して、形ばかりの構えをとった。
祖先の名を誇るのは男が知る常套句ではないまでも、いずこかでオークの文化に触れ、理解を深める機会があったことがうかがえた。
女が店中に響く声で「私が勝ったらお前はこの場にいる全員の酒代を払う」と宣言した途端、野次馬からは落雷のような声援が沸き起こる。
実に板についた賭けの胴元としての振る舞いを続けていた少女ミアネイラは、狂乱の陰で取り分の銀貨を布にくるんで懐へ収め、男に目配せをした。
《くれぐれも本気で殴ったりしませんように。あの方はあなたの同族ではありませんから、戦う道理はありませんよね? 怪我をさせては遺恨が残ります。あのピカッとするやつで目眩ししたら、ちょっと転ばせてください。私が勝敗を宣言するので、ササッとずらかりましょう》
勝負を有耶無耶にしても遺恨は残るものだと男は思ったが、少女の言う通り、道理はなかった。
オークが酒場で殴り合う作法など、まして賭けの対象としての物腰など、男の記憶にはない。今すぐにでもこの騒ぎの中心から離れたい一心だった。
とはいえ、ファランドルデニカ。
その名乗りを聞いた今、こちらも返礼すべきと男が重い口を開きかけたところで、女の二の句が覆いかぶさった。
「お前が勝ったら! 私が妻となり、お前を長として、新たなオークの里を拓かせてやろう!」
杖を握りしめた男は一瞬、ほう、と息をつき動きを止めた。
長として女を娶り、里を拓く──。
単なる男女の契りではない。凡そのオークの生において、それは勇猛に戦って死ぬことと並んで最も崇高な行いに他ならなかった。
たとえそれが人間の女の、酒気に狂った戯言であったとしても、自らをオークと称する者が言うのだ。誇り高き伝統の重みを知る男の胸には、一抹の戦慄を伴って響いた。
《炎です、賢者様。今すぐ最大の力で焼き払ってください。店ごと燃やすつもりで》
突如翻意した少女の物騒な言葉に、思わずそちらを見る。
そんな暴挙に出れば間違いなく再びの投獄は避けられないであろうと、人間社会に疎いオークにもすぐ思い当たった。
ミアネイラが俄かに正気を失った理由を考える余裕はなかった。
異論を唱えようとしたオークの視界の端に、褐色の塊が滑り込んだのだ。
ファランドルデニカの膝が、長身を誇る男の、それでも顎をめがけて飛んできていた。
杖で受け止めると、金属の束は大きくしなる。
やはりその体躯からは想像の難い衝撃に、オークは奥歯を食いしばった。
オークを名乗る女は、実に苛烈に歯を剥いていた。男が同族と錯覚するほどに。
《今です! 消し炭にしてください!》
常に聡明で冷静だった少女の怒声への戸惑いが、かえって彼に背後の扉を意識させた。
聞こえぬふりのオークは、手筈通りに──しかし心持ち、少女のただならぬ剣幕に圧されるようにして手早く──杖の先端に閃光を走らせた。
その戦士についての記録は、人間の歴史においては発見が困難である。
ただ何物にも縛られず、ただ最も苛烈なる戦火の中のみを駆け抜けたゆえに。
自他の血を浴びてただ一騎、戦場の泥濘の中で赤々と燃え盛る炎の如く命を躍らせた。
正史に名なき孤高の戦士クラトドイを知る者達だけが、彼を『赫灼戦鬼』と呼んだのである。




