サルバズ「悪いがその髭を引っ張らせてもらう」セリム「な、何をするんです、やめて、痛い」
明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします!
ザナドゥの思わぬ独白を聞かされてしまったサリーム爺さん。ユッタは貴族どころか、道端で暮らす孤児だったという。
サリームはザナドゥの居室から堂々と外に出た。入口を警備していた兵士はどこかへ行ったまま、戻って来てはいなかった。
翁はクーフィーヤともこもこの付け眉毛の奥で眉間に皺を寄せ、腕組みをしていた。
こんな展開は予想していなかった。サン=モストロ城の奥に構える、奴隷貿易の元締めで悪の帝王であるザナドゥ、サリームは何とかその男に会って、直談判で和平交渉をまとめようとしていたはずなのだが。
「……そもそも何故ザナドゥ閣下の警備を続けなくていいと思った!?」
そこへ。廊下の向こうからそんな怒鳴り声と、いくつかの駆け足の足音が聞こえて来た。サリームはすぐに反対側の角を曲がって隠れる。
ばたばた足音を立て、複数の男達がザナドゥの居室の門前に駆けつけて来た。サリームはそれを角の向こうで聞いていた。男達は階下から駆け通して来たらしく、荒い息を漏らしていた。
「申し訳ありません、しかし閣下は大変な豪傑であらせられますので」
「お前達の仕事は何だッ! いいか、魔女は神出鬼没で、異常に狡猾なのだ、俺も仲間も散々愚弄された、あの魔女と戦う者は! いついかなる時も隙を見せてはいけない!」
一人の男が激昂し、他の者達に説教をしている。角に隠れて聞き耳を立てているサリームには、そう聞こえた。そしてその男の声にはどこかで聞き覚えがあった。あれはカリーニング中に襲撃して来た、フォルコン号と同型のスループ艦の船長ではなかったか。
「俺はイスマエルの所に戻るがお前達、絶対に気を抜くなよ!? 気を抜いた瞬間、魔女はお前の尻に火をつけるぞ」
「あの、貴方は幹部の方とお見受けしますが、警備に何か問題があったのですか」
「城内の通風孔の格子戸が何か所も壊されていたのだ! 魔女は今城内に居てもおかしくない!」
「ええっ……そんな」
そう言って、あの船長らしき男は、廊下を走り階段を駆け下りて行く。
サリームは思う。間違いない、あれはナーディルが危険だと言っていた剣豪だ、名前はなんだったろう……いやそんな事を考えている場合ではない、自分が通風孔を利用していたのが警備側に知られたらしい。まあ、その事を事前に教えてくれたのは助かったのだが。
サリームは城内の吹き抜けを上下に行き来している、水汲みバケツに目をつける。それは船の動索のように長い輪になっていて、それで地階の井戸から人力で水を揚げているらしい。
老人はそこに現れ、揚水装置から貯水槽へ水を移す作業をしている奴隷頭の男に、平然と手を振る。
「やあ。下で働いてる仲間に楽をさせる方法を思いついた」
男がポカンとしている前で、老人はそう言ってヒョイと手摺りを乗り越え、天井の梁から滑車で釣られたフック付きのロープにしがみつく。
老人は下りのロープに捕まったまま、ゆっくりと下降して行く。
男は思う。確かに、それをやれば下でロープを引いている男達はだいぶ楽になるだろう。しかしこの老人は、その役をやるのが怖くないのだろうか。
「大丈夫か? 俺はそんな事やりたくないなあ」
「大丈夫、大丈夫」
手摺りから顔を出して呟く男に、老人は片手を離して手を振る。
◇◇◇
サルバズは城の最上階まで駆け上がったが、ザナドゥには会わずに途中階まで降りて来た。彼は小型艦の船長に過ぎなかったが、上に居るのは影武者だという事は知っていた。
「通風孔のチェックは終わったか? 誰が中心になってやっている」
サルバズはそこに待機していた兵士の一隊に鋭く尋ねる。兵士の一人が答える。
「は、施設管理人のセリムが」
その場には、サルバズが連れて来た水夫達も待機していた。非常事態だと考えたイスマエルが入城を許可していたのだ。その水夫の一人が、サルバズに囁く。
「あの……ヴァファ号の舵輪を盗んだターミガンのじじいもサリームと名乗っていましたが、それは関係ないですかね?」
セリムとサリームは少々発音が違うだけの同じ名だと考えたサルバズは、目を丸くして兵士を見渡す。
「待て! セリムはどんな奴だった!?」
「はあ、少し前に船長殿が話されていた、髭もじゃの初老の男ですが」
「もう一度そいつに会わせろ、今どこに居る!」
「は、はいこちらです!」
兵士の一人が階段を降り出すと、サルバズもすぐに後を追う。サルバズの為に待機していた兵士の一団と水夫達も、全員がその後を追う。
そして誰も居なくなった階段ホールの前の吹き抜けを、ロープに捕まったサリームが降下して行く。
◇◇◇
各所の通風孔の格子戸の周りには兵士や召使いが数人ずつ居て、ああだこうだと言いながら工作をしていた。
その為、城内各所の警備は一時的に手薄になっているようである。途中階でロープを降りたサリームは、警戒しながらも難なく明り取りの窓によじ登り、建物の外の様子を覗き込む。
城の外では何組かの歩哨が行き来し、周囲を見回している。
しかし彼らが見ているのは周辺の森林との境界線などであり、城の外壁の地面から10mの高さにある、小さな窓ではない。窓から這い出したサリームは、フナムシのように素早く外壁を地面まで這い降りる。
地面に着いたサリームはクーフィーヤとガラベーヤを、宙に翻すように一瞬で脱いだ。かつてレブナンで見たジゼル・シュゼットの早変わりの技だ。
そして付け眉毛と付け髭を剥がせば、そこに居るのはもう銃士姿のマリー・パスファインダーである。
元の姿に戻ったマリーの選択肢はシンプルだった。マリーはただ、素早く丸めた変装道具を小脇に抱え真っすぐに森へ突進する。
「……なんだ、そいつは!?」
「……待てぇいそこの小僧!」
たちまち気付いた歩哨が追い掛けて来るが、森の中に飛び込んだマリーを見つけられるのは犬か狼くらいである。実際、マリーを追って森の中に踏み込んだ兵士達は誰も木の上に居るマリーに気付かず、その下を通過して行く。
マリーは密かに、チョロいものだとほくそ笑む……しかし、そんな能天気な気持ちは長続きしなかった。
ザナドゥがユッタを遠ざけたのは、自分のせいだという。自分は実際一度ザナドゥを襲撃してしまった。入浴中に見知らぬ人間が現れるという事は、どんなに恐ろしい事なのだろう。
とは言え、それで親子の縁まで切り離すというのは飛躍し過ぎではないのか? そこは何とも言えない。ザナドゥとユッタは本当の親子ではないし、彼女を魔女との戦いに巻き込みたくないという、ザナドゥの気持ちも解らないではない。
木の上のマリーは眉間に皺を寄せ、腕組みをして俯き、溜息をつく。
自分は方々で魔女だと呼ばれている。ゲスピノッサもそう呼んでいたし、海戦の最中にも散々言われた。自分の正体は、ただの田舎のお針子なのに。だがこのお針子は今回は大事な密命を帯びている。
ザナドゥには温厚で愛情深い一面もあるようだが、彼が奴隷貿易の元締めであり、ラランジェ攻撃を指示しカーターやクラークの船団を派遣し、ヘルムセンに大艦隊を用意させていた事も事実なのだと思う。
自分はそんなザナドゥと交渉し、成功しなくてはならない。そしてどうしても交渉が上手く行かない場合には、魔女にだってならなくてはならない。これ以上の戦争を止める為に。
それでもマリーには、ザナドゥを父と慕う少女、ユッタを利用するような事、増してや傷つけるような事など出来ない。
ところがザナドゥの視点から見ると、ユッタは既に魔女の手で避難先のヨットの上から誘拐されてしまっているのだ。少なくともユッタが消えた事は、時間の問題でザナドゥの耳に入るだろう。
高い枝の上にごろりと寝転んだマリーは、目を閉じて葛藤する。
ザナドゥと交渉する為の最強レベルの駒が、何もしていない自分の手の中に向こうから転がり込んで来た。ザナドゥは何も疑う事なく、自分に心の内を明かしてしまった。
―― サリームさん。貴方は義侠心のある誠実な人とお見受けします
自分はこの駒をザナドゥに突きつける事が出来るのか。ラランジェの為という大義名分の元、本物の魔女になる覚悟があるのか。





