六 集中治療室
この病院は救急指定という事もあり、一階に大体の機能が納まっていた。
手術室に手術後に麻酔が切れるまで留め置かれる術後室に、レントゲン室や放射線室などもろもろあって、そして、目指すべき集中治療室があるのだ。
今のところは化け物の姿もいないのですぐに向かうのかと思ったら、宇津木は待合室だった場所に長椅子を運んでくると、そこに一緒に座ろうと私を誘った。
椅子の前には画面にヒビは入っているが、大きな液晶テレビがある。
何も映ってはいないが、私が一人だけで椅子に座っている影は映していた。
画面に映らないとは、彼は本当に幽霊であったようだ。
そして、彼が先に行く事をやめたのは、私と同じように別れがたいと感じているのかもしれないと勝手に思い込みながら、私こそ彼と離れたくないからと彼に質問をしていた。
「どうしてラスボスがそこなの?」
「うん?電車の被害者がまず救急車で運ばれたでしょう。まず、救急治療室が汚染。次に、手術室も汚染。そして、意識不明の重体者が療養している筈の集中治療室をね、そこまでで起きた全部の死体を運び入れて密封しちゃったの。これ以上のバイオハザードが起きないようにね。そして、街のお偉いさん達は患者達を別の病院へ移送するか、彼らをこのまま完全隔離でここに留めるか決めなければならなくなった。」
「完全隔離を選んだのね。そして、逃げ場を失った職員も患者も飲み込まれている、と。」
「そう。エントランスのバリケードの向こうも地獄が起きているけれどね。」
「うそ。」
「本当。それで脅えた病院の人達が作ったバリケードだよ。あれは。それでも院内パニックで汚染されていない人間同士で殺し合いが始まった。あちらこちらで化け物が生まれていて街中もパニックなんだ。病院は薬も食料もあるんだ。上手くやればここがセーフティハウスになったかもしれないのにね。」
彼は右手を上げるとテレビの前にさっと翳した。
ぶつっと音がして、画面には今や砂嵐が起きている。
「え。」
「言ったでしょう。俺は幽霊だって。微弱電流を持っている幽霊は、ポルターガイスト現象もお手の物って奴です。さぁ、画面を見ていて。君が知らない事情を知ることができる。」
ぶつっとテレビは大きく切り替わる音を出し、砂嵐だった画面には見慣れたニュース映像が映っている。
ニュース放送の時刻は朝の八時半。
本当だったら私が学校で机に突っ伏している時間だ。
眠いからではなく、今日も彼に会えなかったと嘆いて。
私は自分の黒子が気になった頃、黒子が癌でもどうでも良いとも思っていたのは、文学青年、宇津木が電車に乗らなくなっていたからである。
「ほら、せっかくの魔法なんだからさ、集中してよ。すごーい、とおるくん、でしょう。」
モニターからはアナウンサーの淀みない声が流れている。
「――通勤電車で起きた惨劇により、死者は十五名、重軽傷者は三十人以上にも見られています。亡くなられたのは――。」
その先は私は聞き取れなかった。
聞きたくなかったのである。
聞けなくてもかまわない状態だったが。
車内が遠目でも血塗れだと分かるほどに車両の窓ガラスも開いたドアの内側も真っ赤であり、倒れてる人々は真っ赤なペンキを被せられたように濡れぼそっているのである。
そんな映像にテロップで死亡者の字幕が流れ、そこに私の名前が連なっているのだ。
三好美梨、かっこ十七かっこ閉じる。
「ははは。死んでいたんだ。そうか、ここはもう地獄なんだ。だから、幽霊の亨君だって物理攻撃が可能で……。」
「うん、そう。ここは地獄だね。俺が先に言った通りに、半分現実で、半分化け物によって作られたアトラクション劇場。そして、足掻かなければ梨っちゃん、君は完全に化け物と同化してしまう。」
「どうして。もう死んでいるじゃない。取り込まれているのと一緒でしょう。」
「違う。まだ、梨っちゃんは梨っちゃんのままでしょう。これからね、君の記憶も心も化け物に取り込まれてしまうの。あの部屋の人達は取り込まれてしまった。君は見たからそこから逃げてきたのでしょう。」
「知っていたら、どうして!」
どうして宇津木はあの部屋の中に入って来なかったのだろう。
あの部屋にこそ彼が愛する少女がいた筈だろうに。
「俺は部外者だから。」
「え?」
「俺はさ、普通に死んだの。普通に体調がおかしくなって、普通に病院に行って、普通に手の施しようが無いよねって入院して、そして、とうとう昨日、この世とはさようなら。それでも大好きな子に一目会いたくてね、それでその子に呼ばれるようにしてここにいる。ラスボスを倒せば彼女は化け物から解放されて、彼女は天国に行ける。俺はね、そのためだけにここにいるんだ。」
「そっか。」
私は続きが言えなかった。
彼に私こそそれだけ愛されたかったのだ。
「はぁ、女子高生のスカートってさ、短すぎない方が良いものだよね。」
「あなたは急に何を言い出すのよ。」
「だってさぁ、ちょっと捲れて膝小僧が出たことがあってね。俺はもうそれで立っちゃいそうでね。あの黒子がさぁ、逆に知らなかった事を教えてくれたようで、最高だよね。うん、入院前に良いものを見せてくれたなって感じ。」
私は当たり前だが宇津木の頭をばしんと強く叩いた。
そして、左足が痛みで響いたが、その痛みに踏ん張って長椅子から立ち上がった。
「行くよ。終わりにしよう。終わりになったら、死んだ者同士で天国に行けるんだろ。」
「はははは。行けない。一緒に行けない。俺は嘘つきだから。」
頭をがっくりと下げてつむじを見せる宇津木は、そういえば私に彼が何者なのかの真実を教えていなかったとぼんやりと思い出した。
二か月闘病して昨日の朝に亡くなった人。
でも、生きていた時はどんな人だったのかは何一つ。
「行くよ。立って。行こうよ、ラスボスを倒そう。亨君は嫌かもしれないけどさ、私も死んでいるんだったら、亨君とこの先も一緒にいるから。」
「……一緒にいられないって言っているだろ。」
「そうだね。でもさ、私は一緒にいたいんだ。ずっと亨君の横顔を見ていたいんだ。だって、だってさ、亨君の顔見るだけの為に、私はあんな早い電車に乗っていたんだよ。亨君には迷惑だろうけどさ、気持ちが悪いかもしれないけどさ、ずっとずっと、亨君を毎日見ていたんだよ!」
「やめてくれ!」
私は男の本気の怒号の声にびくりとした。
そして、すぐに彼が私にへらへらと謝るかと思ったが、顔をあげた彼は見た事も無い怖い顔つきで、そして、長椅子から立ち上がると集中治療室のある方へと歩きだした。
「とおる、つ。」
左足の痛みに私が一歩踏み出せなくとも、彼は私を置いて先に歩いていく。
「亨君!待ってよ!」
彼は私に背を向けたまま歩みを止めた。
だが、振り返らずに、もういい、とだけ呟いた。
「もういいって?」
「いいよ、ごめん。物理攻撃できる俺が一人で何とかする。君は安全なそこにいなさい。」
「亨君!」
「いいの。俺は退職する前はお巡りさんだったの。お巡りさんは正義の人でしょう。一人で頑張らせてよ。それから、君に出会った時は既に休職中という無職で、はは、通院中の病人。嘘ばっかりだ、俺は。」
「え。」
彼は私の前からすっと消えた。
掻き消すように。
あいつは何を言った?
私と出会ったころだと?
私は病衣をまくり上げて、右足の黒子を見つめ直した。
どうして私は黒子に気が付いた。
そうだ、宇津木が私を見た様な気がしたからだ。
何を見た。
何を見たと、私の視線は自分の右足の黒子へと移ったのだ。
「ちくしょう!あのすけべえ!片思いが両想いなんだったらさ、行くよ、あたしは地獄に落ちるよ!一緒にいるよ!」
私は走り出し、一歩で左足のせいですっころんだが、畜生と立ち上がり、宇津木の向かった集中治療室へと歩きだした。
「一緒にラスボスを倒す。ちくしょう。いいよ、呼びたいならミリミリでもかまわないよ。」
私はボロボロと泣いていたが、その涙が怒りなのか、置いて行かれた悲しさなのか、彼が自分を愛していたという事実への喜びなのか、わからないけれどとにかく泣きながら宇津木を追いかけていた。