七 ラスボス
集中治療室への道は電気が消えていて暗いものであったが、私が怪我していなければとても単調で安全な病院の廊下でしかなかっただろう。
苦難など、本当に私の足の痛みだけだったのだ。
私は怪我をして上手く歩けないので、壁にある手すりにしがみ付きながら、一歩一歩と歩くしかなく、それで目的地に辿り着くまでにかなり時間がかかったというだけである。
化け物はいたが、私には何の興味も示さなかった。
そうだろう。
私は既に死んでいるのだから、化け物が同じ化け物に興味を示すはずが無いのだ。
では、どうして、宇津木と一緒の時には襲ってきたのだろうか。
あぁ、痛い。痛い。
こんな足。
ボトリ。
「ははははは。落ちたよ、足が落ちたよ、はは。腐って落ちやがったよ。」
左足はナースステーションでバラバラになった死体のように、皮膚一枚の下は黒くて細長いミミズの様な虫でいっぱいで蠢いていた。
「化け物の私を連れていたら、奴こそ危険ってことか?」
自分の頭に浮かんだまま口にしたそれが真実に思えたが、幽霊の自分はこの世界が関係ないというようなことを口にしていたと考え直すと、彼が私を見捨てれるのならば、彼が集中治療室のラスボスに一人で対峙する必要性さえなくなる。
「そうだよな、逃げれば終わりだな。ほんとうにあいつはわけわからん。」
頭をあげればあと数メートルだ。
私は左足を失ったが痛みも無くなったぞと、手すりにつかまりながらぴょこぴょこと前へと進んだ。
そして、ドアの前では当たり前だが四つん這いで進み、四つん這いのままドアを開けて中へと進んだ。
化け物どころか血の跡も一つも無い清潔な空間に、宇津木とラスボスはいた。
宇津木の本体は生命維持装置に繋がれて、死んでいるのに生かされていたのである。
「これが、ラスボス?」
「そういうことにして。」
死体となった自分を見下ろしている嘘つきは、私に振り返らずにそう呟いた。
「この世界はあんたが作り出したの?」
「違う。言ったでしょう、化け物が作り出したって。被害者を取り込もうとしているって。」
「だって、あなたがラスボスなんでしょう。」
「仕方が無いじゃない。取り込まれている君をこの世界から引っ張り上げるには、俺が本当にご臨終したその時じゃないとできないもの。だから、俺を殺すのが君の悪夢を終わらせる条件て奴でしょう。」
彼は生命維持装置のオンオフスイッチを指さした。
「これを切れば俺は本当に死ぬ。そうしたら、君を本当に助けられる。」
「どうして私にやらせたいの?」
「好きな女の子に殺されるのって本望かなって。俺の事を全く知らない子が、この先も俺を覚えてくれるかなって、悪霊だね、俺は。でもさ、あともう少しで予備電源も切れるし、君が君を保ち続ければ大丈夫かもね。待ってて、もう少ししたら化け物の世界から君を引っ張り出してあげるから。」
私は情けなくアハハと笑うしかない。
彼の死という絶望と彼を失う失恋を、何度この男に私は味あわされなければならないのだろう。
「ひどいよ。それならさ、予備電源が切れるその時まで、最初から最後まで語り合うって奴でいいじゃん。亨君とこの先一緒じゃないなら、化け物に取り込まれたってかまわないもの。あなたこそ残酷だよ。」
「う、ふぅ。」
宇津木の苦悶の声はベット脇に立つ宇津木ではなく、ベッドの中の痩せこけて頭髪も無くなった宇津木から起きたものだった。
骨と皮しかない体から唸るような声が漏れているのである。
「あなたは生きているじゃないの。」
「空気が漏れただけ。生命活動をしている事でガスやら何やら体に溜まるの。」
「もしかして、辛い、の?」
彼は答えずに、ただただ優しい笑顔を私に向けただけだった。
「ばかやろう。」
私は四つん這いのままのそのそと動いてベッド脇まで行くと、ベッドに手を伸ばして宇津木の左手を両手に取り、そして自分の頬に彼の手を押し付けた。
ぐんにゃりとした大きいだけの弾力のない男の手でしかないが、私は初恋の男性の手を生まれて初めて掴むことが出来たのだ。
「ごめん、とおる君が辛いのに私はそのスイッチをオフにできない。もっと早くここに来れたら良かった。あなたが好きだと、あなたに恋した日に言えればよかった。」
私は宇津木の左手を両手で握り、そして宇津木に後ろから抱き締められているという不可思議な状況だ。
私の背中には宇津木の顔が押し付けられ、幽霊のくせに彼は私の背中をびしょぬれにするぐらいな勢いで泣いている。
「とおる君は泣きすぎだよ。」
「はは。ありがとう。梨っちゃん。俺の願いが叶った。君はこんなに優しいのに、君の名前を呼べなかった分、君を沢山呼びたいからって、君の嫌いな呼び方をしてごめんね。」
「いいよ。ミリミリで。この先もミリミリと私を呼べるのは亨君だけだよ。」
「最高。」
宇津木は自分で自分の生命維持装置のスイッチを切った。




