第3話 吹き荒ぶ想いの剣と慟哭する毒の涙 ⑥
病院というものの様相が数世紀を経ても変わらないのは、すでに考えつくされて完成されたものだからだ。変わったのは本当に細かい部分、技術や都合に強制されるところだ。人口も減り、長期入院する人間も少ないから部屋は広くさっぱりしている。新しい主を受け入れたばかりのこの病室は、その印象がより強く出ていた。
ま白い部屋には来客用の椅子もない。ベッドのほかには点滴台、小さなテーブル、クローゼットがあるのみだ。計器の類もない。窓からは黒みの強い雲が覆う空しか見えない。
シャーリィが膝立ちでベッドに両手をついて、眠る慧恋の顔を覗いていた。アルトはその様子を、少し離れたところから眺めていた。
「地下通路が過疎ってるのが幸いして、人的被害は出ていないわ。ま、だからこそ対応が遅れすぎなのは機士たちの職務怠慢かしら。除水作業はもうすぐ終わるらしいけれど、その水の処理が問題。足が浸かるくらいだったけど、かなり広域だったじゃない」
「昔のように垂れ流すわけにもいきませんからね」
アルトは、自分がどこを見ているかも分からなかった。ただ受け答えをしていた。この程度なら疲れない。事務的な報告なのだからこれくらいでいい。
「海からしたら少ないけどね。とはいえ流出したら結構な量は死ぬんじゃないかしら。でも人間相手なら、すぐにどうということでもないわ。楽観視しろってんじゃなくて、悲観視しすぎなくてもいいかも、ってこと」
「シャーリィさまは大丈夫なのですか」
人的被害はないといったが、彼女と、慧恋はその場にいたのだ。慧恋ほど喰らってはいないにしても、“蠍”が逃げるときに撒いた霧を吸っているはずだった。
「ま、大丈夫じゃない? 慧恋がこんなにひどいのは、口から大量に飲んだのと、傷口から入ったものによるし。私が大丈夫じゃないってんなら慧恋はもっと大丈夫じゃないし、だったら私は大丈夫である必要はないもの」
シャーリィの瞳が、まっすぐ自分を見ていた。そこにうつる自分の姿がはっきり見える気がした。アルトは目を逸らした。窓の外は暗かったから、白い扉側に。
「……慧恋さまは……その……」
本当は一番最初に知りたいことだ。だが聞きたくない内容である場合かもしれなかった。それでもアルトは言葉を絞りだしていた。
「さっきも言ったけど、そうシリアスなもんじゃない。安静にしてれば死ぬことはないわ。毒を盛られたとはいうけど、状態としてはひどい風邪みたいなものよ。とはいえ治る見込みがないから、お薬――解毒薬が欲しいところだけど。毒の解析には時間がかかりそうでね。せめて毒を調合した本人に聞ければいいんだけど」
シャーリィは姿勢を起こして慧恋の布団をめくって体をさらけ出す。細い体は質素な入院服に包まれていた。毒に濡れた制服などは処分される。
ひどい風邪という表現は的確なようで、慧恋は熱にうなされているようだった。全身に汗が滲んでいる。部屋の温度は適温だ。少なくともアルトはこれが普段なら慧恋が快適だと感じる温度なのは分かった。
シャーリィは慧恋の汗を拭こうとしているのだ。枕元には簡易吸水シートが置かれ、シャーリィの手は慧恋の服の前をはだけさせようとしている。
「どうしてこんな自動化できることを私がやるか分かる?」
アルトはそう言われて初めて気付いた。高機能繊維の衣服を使えば、手間は省けたのだ。ひとの手間を極限まで削減して殺風景になりすぎた病室。ひとがロボットを作ろうとした目的は楽をするためだった。シャーリィはここで手間を獲得している。
「今のあなたなら分かるかしら。慧恋が心配すぎて、そんな機械的なことにも気付かなかったアルトなら。……その気になれば何でも、人の発展や思考すらもアウトソースできる時代で、やっぱり人が手放せず、手放しちゃ駄目なものよ。人の温かさや誠意、直接の体感とか――心が何処にあるか理解する心」
「僕には、そんなこと分かりませんよ」
「そうかもね。でもね、想うからこそ我は在る」
手を止めていたシャーリィが立ち直って慧恋の白磁のような肌を露わにした。
アルトは思わず顔を逸らしていた。風呂場でその裸体を見ようと画策したこともあったが、今ここで慧恋の肌を見るのははばかられたのだ。慧恋に意識がないのに、という不義かもしれない。
――視界の端に映ったそれに目を奪われ、それまでの思考は吹き飛んだ。
傷。
それは鎖骨の下あたりから控えめな胸の膨らみをこえて下腹部に広がるくらいの大きな傷だった。
あんな大怪我をしていたのか。
――あれは新しい傷じゃない。傷痕だ。ただれてしまって滑らかな肌と対照的に歪んでしまっているそれは、火傷の跡に見えた。
シャーリィは驚く素振りも見せず淡々と汗を拭き取る。彼女は慧恋の体には大きな傷があると、当たり前に知っているのだ。
目の前に突き付けられたことに声も出なかった。そんなアルトの様子を背中で察したシャーリィは作業を続けながら言った。
「聞いてないの、本人に。あなたならバスタイムに突入でもすると思ったのだけど」
「……え、いや、突入というか……侵入はしましたが」
今思えば、慧恋はこれを隠していたのかもしれない。露出の高い服を好む彼女ではあったが、それは下半身に限ったはなしだった。
「そうね、この子はこの傷を見られること……というか知られることを怖がっているわ。……で、だから何かしら。知りたくないの、気にならないの?」
シャーリィは強制はしないまでもアルトが傷を知るに至ると予見していた。慧恋にとって、それは不快であるという。そういうことをアルトにさせようとしたのだ。
「……気には、なりますよ。なりますけど……」
あの程度は、簡単に消せる傷痕のはずだ。それを、慧恋はわざわざ残したということだ。
「けど、何なのアルト」
汗を拭くだけでかくも艶めかしくうつるものなのか。手は愛でるように滑って動いていく。シャーリィはまるで慧恋と話をしているように視線を動かさず、しかし言葉は鋭利だった。慧恋の眉がぴくりと動いた。
「オーナーの大事な話を本人から聞かないってことでいいの。私が喋るって思ってるんでしょう」
シャーリィは世話を終えて再び慧恋に服を着せる。向き直った表情は思いの外いつも通りの余裕たっぷりさを感じた。
シャーリィの言葉は正しい。傷のことは気になる。知りたい欲求があるということだ。それは役割とイコールだろうか。オーナーの事情をなるべく把握すべきという点ではそうだろう。しかしアルトには、ただ好奇心を超えて彼女のことを知りたいという気持ちがある。それは傲慢だ。
「さて。この通り私って口数が多いわけだけど。聞きたい?」
アルトは言葉を処理しきるのにしばしの時間を要した。
「……え? 結局話してくれるんですか。さっきの厳しめな問答は何ですか、いつもの気まぐれですか」
言っていてはっとした。シャーリィはそういう人だ。てきとうな発言に由来するものだとしても、さっき頭をよぎった考えは否定できなかった。
「しかしですね、僕は慧恋さまの了承がなければ聞きませんよ。嫌だといっても、本意でなくても、いずれは問い質すつもりではありますが、が――」
シャーリィはアルトの台詞に耳も傾けず慧恋の肩に手を乗せて抱き締めるような姿勢で顔を近付ける。その淫靡な光景にアルトは言葉ごと飲み込んだ。
「いいかしら、慧恋。“あのこと”、あなたの騎士に話しても?」
囁きは髪も揺らさないほどだった。
しかしそれでも慧恋の目がゆっくりと開いた。至近距離の顔にわずかに鬱陶しそうに顔を動かして、それでも体を使った抵抗はなかった。
「……ふ、抵抗するつもりもないさ……。あなたが話してやってくれ。…………私も、いつか、自分で話しなおすから」
その言葉はところどころ苦しさに呻きが混じるところはあったものの、今覚醒した人間のそれではなかった。
「慧恋さま、いつから意識が」
「ずっとだ」
薄くはあったもののすべて聞こえていたという。薄目を開けて周りを見ることもできていたのだ。アルトはまったく気づかなかった。
慧恋の顔が赤らんでいた。なかなか目を合わせてくれなかった。
「これは――昏倒するタイプのものではないらしい。当人だから分かる。死ぬようなもんじゃないよ。久しぶりに風邪をひいたみたいな感じだ」
「それでも安静にしていないとね。何が理由でも人間は死ねるのよ」
「分かっているさ」
慧恋は身じろいで、寝返りをしてなるべく体を布団で隠そうとした。アルトにとってそれに動作以上の意味を見いだせず、いろいろな気持ちが混線した。シャーリィがそれを引っ張った。
「じゃ、話は外でしましょう。アルトは興奮したら風で機器をダメにしちゃいそうだものね」
「助かるよ」
消え入りそうな慧恋の声を聴いて、アルトは誘導された。腕をつかんだシャーリィの目は、どこか遠くを見ていた。




