第3話 吹き荒ぶ想いの剣と慟哭する毒の涙 ③
シロンは階段をのぼっていた。この先は、数日前にフェイルノートを放った屋上だ。“彼女”が、より高さのあるここに足しげく通うようになったと知ったのは最近のことになる。
屋上に出る重厚な扉は厳重にロックがされているはずだが、シロンはなんの抵抗もなく押し開けた。
「ごきげんよう慧恋さん」
いつか人にとっての場所の重要性を語っていたヒュームが、平気な顔で足を踏み入れた。
西の空に立体感のある灰色の雲が浮いている。風が強かった。
「シロンか。どうしたんだ」
慧恋は柵にもたれて座っていた。そばには弁当箱が置いてあるが、別段なにかをしていた形跡はない。普通に突然あらわれたシロンに驚いていた。
「んー、おれに相談役が充てられた気がしてね」
「相談? 私はべつに悩みなんてないと思うが」
慧恋の横に立つ。向き合うでもなく、二人で同じ空を眺めた。
「二人で話すのって久しぶりじゃない?」
「え、ああ、そうだなー、何でだっけか」
理由は簡単で、一人増えていたからだ。シロンはただにやにやして、それに気づいた慧恋が顔を赤くしてそっぽを向く。
「か、からかうなら帰れ」
「あ そういえばおれ、“友達”にはもう帰るって伝えてたなー。別に嘘言うつもりはなかったんだけど。慧恋さんはない? なんか会話の流れで、不本意な台詞を言っちゃったり。合いの手みたいなノリでさー」
慧恋は黙り込む。
顔を隠すように、体育座りのまま膝にうずめる。
「……た、例えばなんだが」
「うん」
慧恋が静かに言葉を紡ぎはじめた。相談はないと言った慧恋の言葉に、シロンは静かに耳を傾けた。
「AくんとBちゃんがいたとする」
「Eちゃんじゃなくて大丈夫?」
「え、なんでだ?」
「Aくんのことかと」
「か、頭文字じゃない! ただの例え、代名詞だ。友達から聞いた話だ」
今日は少し冷えるというのに、慧恋の顔はどんどん赤みを増していた。
「……AくんとBちゃんは全く違う立場なんだ。ある日BちゃんがAは私とは違うって、軽い気持ちで言った。そうしたらAくんは悲しい顔をして、でも口では認めて。そんなときBは、なんて言えばよかったんだろう。お前はそうじゃなくて私と同じだって、それは事実じゃないんだから言ってももっと傷つけてしまいそうだし……」
シロンは顎に手をあてて目をつぶって考える仕草をした。わざとらしすぎるそれに、慧恋はすがるような視線を送る。
「…………すごいなぁ、おれ今、恋愛相談に乗っているよ」
「だ、だ、だ、だっ、……っ」
酸欠の魚のように、茹でられてしまったように、慧恋は否定の意思を示そうとしていたようだが失敗していた。
「慧恋さんのお友達、だっけ」
「! そ、そうそう!」
助かったとばかりに安堵し、にじんでいた汗を拭う。シロンが極上のバラエティを観ているように楽しそうなことに気づかない。
「そうだなぁ……。おれの個人的な意見になるけどいいかな、Eちゃん」
「Eちゃん言うなぁーっ!」
「無遠慮だったEさんも悪いけど、Aも悪いよ。そんな中途半端な意思ではね、自分もその子も傷つけちゃうだけだ。いや、中途半端なのはEさんもじゃないのかな。もしくはもう意思はあるんだけど、認めてしまわないように、言葉に出した」
本意ではない言葉は、自身に楔となって刺さる。それは多く後悔というかたちをとるが、逆手にとる場合がある。こう発言する自分はそれに見合った存在だという思い込み。明るい例をとると目標や抱負といったものだ。
「……シロンはヒュームだ」
「そうだよ。いまどきのヒュームを謳歌している。人間並みに曖昧な存在として、ね」
それは自己紹介だった。製品紹介ではない、的を射ないものだ。
「おれには今の慧恋さんはもう迷いはないように見えるよ」
慧恋は目をつむってうなだれて、しばらく強風が場を支配した。
「……私は最高の誕生日プレゼントを貰ったんだよ。だからお返しがしたい」
「そうか。それは忙しいわけだ」
慧恋は立ち上がり、スカートの埃を払う。
「そろそろ行くよ。もう完成しそうなんだ、プレゼント」
「そうかい、邪魔したね」
なるほど、そもそもすっきりした表情なはずだ。とても強い乙女だ。
扉へ向かっていく慧恋が途中でくるりと振り返る。
「いい相談役だったぞ、シロン」
「ははは、それは本懐だ」
少し後押しが欲しかっただけなのだ、彼女は。だからわざわざ出向く必要もなかったかもしれない。彼女にはもう相談することなんてなかった。売り言葉に買い言葉。恋愛相談の押し売りだった。
慧恋の足取りは一歩一歩が頼もしい。背中からは楽しい場所へ赴くような明るさが眩しい。
慧恋の姿が扉の向こうに消え、だだっ広い屋上には誰もいなくなった。シロンは柵にもたれて空を見渡す。雲は黒く、今にも辺りを覆わんとしていた。風は乱れ、まとわりつくようにじめっとしている。
慧恋は途中のエレベーターから直通で地下の機士団棟へ入った。アルトは、校舎をさっきよりは明るい雰囲気でぶらぶらしながら、もうすぐ外へ出ようというところだ。
二人が鉢合わせなかったのは不運で幸いだった。
「さて、急ごう。おれの神話の邪魔はさせない」
嬉々として、彼は、向こうはすぐ地面であるかのような躊躇なさで、柵を飛び越えた。




