EP 9
「公共事業」の真価
夜明け前の冷たい空気が、焼け焦げた魔蟲の甲殻の匂いと、微かな酸の臭いを運んでいた。
ポポロ村の広場は、嵐の後のような静けさに包まれていた。毛布にくるまり、トオルの処方した風邪薬の作用で安らかな寝息を立てるキャルル。その傍らで、マンミアは自らの溶け落ちた盾『アグニ』の残骸を見つめ、石像のように固まっていた。
「私の盾が……もっと強固であれば」
マンミアの呟きには、深い自責の念が滲んでいた。
「村長に命を削らせることもなかった。自警団長でありながら、己の無力が呪わしい……」
「自分を責めないでください、マンミアさん」
トオルは、焚き火用の薪を足しながら言った。
「あの酸の直撃を受けていれば、俺は確実に死んでいました。あなたが盾になってくれたから、俺もキャルルさんも生きてるんです」
「しかし、敵はまだ森に潜んでいる。次の波が来れば、この村は……」
「ええ。だからこそ、丸太を並べただけの壁や、個人の武力に頼る『防衛』は、ここで終わりにしなきゃいけないんです」
トオルは力強く宣言し、虚空を睨んでステータス画面を展開した。
【ユニークスキル:公共事業】
(貢献度を消費し、公共の利益となる物品を具現化します)
先ほどの戦闘中、トオルはこの説明文の真意にようやく思い至っていた。
「公共事業」とは、トイレットペーパーや薬を配ることだけではない。前世の日本において、国家や自治体が莫大な予算を投じて行う公共事業の最たるものは――『防災』と『インフラ整備』だ。
氾濫する河川を抑え込む護岸工事。土砂崩れを防ぐ擁壁。津波を食い止める防潮堤。
自然災害という名の圧倒的な暴力から市民の命を守るための土木技術。それこそが、人類が磨き上げてきた「公共の利益」の究極形である。
「俺は、自分の能力を勘違いしていた。これは単なる便利アイテムの引き出しなんかじゃない。市民を守るための『国家の盾』を作る能力なんだ」
トオルがそう口にした瞬間だった。
ピロンッ♪
脳内に、今までで一番澄んだ電子音が響き渡った。
空中のウィンドウが眩く発光し、グレーアウトしていたリストの一部が、カシャカシャと音を立ててアンロックされていく。
【条件達成:『公僕の理念』が一定値に達しました】
【第3段階:『知識』カテゴリが解放されました】
(……知識、カテゴリ!)
トオルは息を呑んだ。
リストの中には、以前は存在しなかった数々の書籍やマニュアルの名前が並んでいた。
『土木工学入門書』『近代法規集』『公衆衛生学入門』……。
「これだ……! 今の俺のポイントじゃ、コンクリートの防壁や重機を直接出すことはできない。だけど、村にある木や土や石を使って、最強の陣地を作るための『設計図』なら引き出せる!」
現在の残高は270pt。
トオルは迷わず、二つのアイテムを選択した。
【『都市計画マニュアル・防災防衛編』(50pt)を具現化しますか?】
【『防水メモ帳』(10pt)を具現化しますか?】
――YES!
残高210pt。
ズシッ、と重たい感触と共に、トオルの両手に分厚いバインダー型の専門書と、野外測量用の頑丈なメモ帳が現れた。前世で、彼がデスクの横に常に置いていた愛読書と全く同じものだ。
「トオル、それは魔導書か……?」
マンミアが目を丸くして尋ねる。
「魔導書より確実な、人類の叡智です」
トオルはマニュアルのページをパラパラと捲り、地形防衛の項目を開いた。そして、あらかじめ出しておいたボールペンで、防水メモ帳にスラスラと図面を引き始める。
「マンミアさん、自警団の動ける男たちを集めてください。夜明けと共に、村の東側に『迎撃用の土木陣地』を構築します」
「ど、土木陣地だと? しかし、敵の酸を防ぐ盾がもう……」
「盾で防ぐから溶かされるんです。敵の進軍ルートを物理的に制限し、酸を吐く前に一箇所に集めて叩き潰す『キルゾーン』を作ります」
トオルが描いた図面。それは、ただ丸太を立てただけの壁ではない。
V字型に深く掘り下げた塹壕と、掘り出した土を突き固めた土塁。さらに、削り出した丸太の先端を鋭く尖らせ、敵の進行方向に向けて斜めに打ち込む「逆茂木」の構造だった。
魔獣の群れを「鉄砲水」と仮定し、水流を意図した方向へ誘導して威力を削ぐ、治水工学の応用である。
「な、なんだこの精密で幾何学的な図形は……」
集まってきた自警団の男たちが、トオルのメモ帳を見て息を呑んだ。
「魔法陣か!? これを描けば、大地の精霊が壁を作ってくれるのか!」
「違います。皆さんの鍬とスコップで作るんです。土と木は、酸を浴びてもすぐには溶け落ちません。敵の物量をこの狭いV字の底に誘導し、身動きが取れなくなったところを、上から丸太や石で物理的に圧殺するんです」
トオルの言葉には、公務員として長年インフラ整備に携わってきた確かな説得力があった。
「俺一人じゃ何も作れません。でも、皆さんの力と、この設計図があれば、必ず村を守り抜けます。どうか、力を貸してください!」
トオルが深く頭を下げると、男たちは顔を見合わせた後、力強く頷いた。
「へっ、ただのヒョロガリじゃねえとは思ってたが……インテリの軍師様だったとはな!」
「鍬を振るうのなら俺たちの本業だ! やってやろうじゃねえか、副村長!」
村人たちが、活気を取り戻して各々の農具を手に走り出す。
トオルの『公共事業』は、ただ日用品を恵むだけのハズレ能力ではない。彼の前世の経験と合わさることで、異世界の常識を根底から覆す「文明の設計図」へと昇華した瞬間だった。
***
その頃。
ポポロ村から遠く離れた、大陸最深部の深淵ダンジョン『天魔窟』。
最下層に位置する中枢母巣の一角に設けられた、不気味なほど近代的なモニタールーム。
「あぁぁあああっ! なんで! なんでそこで右翼のネクロアントが燃えてんのよ!」
白塗りのピエロマスクをモニターの上に放り投げ、ヨレヨレのTシャツ姿の男――魔人ギアンが、頭を掻きむしりながら絶叫していた。
床には『タローソン』のピザの空き箱と、空になった『イモッカ』の缶が散乱している。
モニターの画面には、真っ赤な文字で『DEFEAT(作戦失敗)』の文字が点滅していた。
「クソッ、クソエイム! だからAI任せの突撃は駄目なんだよ! しかもなんだあの緑色の光は! あんなの事前のデータにないバグキャラじゃねえか! 僕の美しい不条理劇が、安っぽい農民の火遊びで台無しだ!」
ドゴォォォンッ!!
ギアンが渾身の力で操作デスクを殴りつける。台パンの衝撃で、飲みかけのコーラが床にぶち撒けられた。
「……ギアン。騒々しいですね」
モニタールームの奥、巨大な生体魔導炉の中から、地響きのような低い声が響いた。
深淵の群体知性、死蟲王サルバロスの魂である。
「ママぁあああっ!!」
ギアンは涙目で魔導炉にすがりついた。
「あの村、絶対におかしいよ! ゴミみたいな農村のくせに、僕の可愛いネクロアントが焼かれたんだ! お願いママ、銅貨1枚ちょうだい! 次は絶対に、あの村の人間たちを絶望させて、極上の魂を持って帰ってくるからぁっ!」
「……はぁ」
魔導炉の奥から、心底呆れたような、しかしどこか甘やかすようなオカンの溜め息が漏れた。
チャリン、と。
魔導炉の排出口から、純度の高い生体マナが凝縮された『銅貨』が1枚、ギアンの足元に転がり落ちる。
「……今回だけですよ、ギアン。次こそは必ず、絶望の悲鳴を聞かせなさい。私の復活には、上質な魂が必要なのですから」
「やったぁ! ありがとうママ! 愛してる!」
ギアンは銅貨を拾い上げると、血走った目でモニターに向き直った。
「見てろよ、生意気な村人ども。次は斥候なんかじゃない。僕の最高傑作、あの嫌味なエルフだろうが獣人だろうが噛み砕く、本隊を送り込んでやる……!」
カタカタと、ギアンがキーボードを叩く。
天魔窟の孵化室で、通常のネクロアントとは比較にならない巨体と重装甲を持つ魔蟲たちが、次々と産声を上げていた。
***
夜が明け、ポポロ村の東側に朝日が差し込む。
一晩の突貫工事を終えたトオルたちは、完成した防衛陣地の前に立っていた。
ただの農村とは思えない、V字型の深い塹壕と、鋭い逆茂木がハリネズミのように突き出した堅牢な要塞線。
「……完璧だ。これなら、何百匹来ようが足止めできる」
トオルが土に汚れた顔を拭った時、背後から足音がした。
「トオル君……」
青白い顔をしたキャルルが、マンミアに肩を貸してもらいながら立っていた。
完全ではないが、トオルの風邪薬で熱が下がり、意識を取り戻したのだ。彼女のルビー色の瞳が、トオルが作り上げた陣地を見て驚愕に見開かれている。
「これ、トオル君が……? たった一晩で……?」
「おはようございます、キャルルさん。ええ、皆さんが頑張ってくれました。これで、あなたに無理な治癒をさせる必要はありません」
トオルは優しく微笑んだ。
森の奥から、再びカサカサという無数の足音が、地鳴りのように近づいてくる。昨日とは比べ物にならない、本隊の気配だ。
だが、ポポロ村の住人の顔に、昨夜のような絶望はなかった。彼らの前には、異世界の常識を覆す『近代土木防衛線』がそびえ立っているのだから。
読んでいただきありがとうございます。
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