EP 8
限界の治癒
トオルの胸元から溢れ出した緑色の光は、夜の闇を真昼のように照らし出した。
それはただの光ではない。メルちゃん――変異ベビーメロロンが放つ、純度百パーセントの強烈な生命エネルギー(マナ)の奔流だった。
「ギチッ……!? ギィイイイイッ!!」
死の瘴気を動力源とする死蟲機たちにとって、その純粋すぎる生命の光は猛毒に等しかった。先頭にいた大型個体が苦悶の叫びを上げ、酸を吐き出す器官を押さえるようにしてのたうち回る。
それに連鎖するように、押し寄せていた魔蟲の群れ全体が、光から逃れるようにジリジリと後退し始めたのだ。
「……メルちゃんが、魔獣を退けている?」
トオルは胸元の小さな相棒を見下ろした。メルちゃんは蔓の手足をぐったりと垂らし、持てる限りの力を振り絞っているようだった。
「今だよ、トオル君! 今のうちにマンミアを広場へ!」
キャルルの切羽詰まった声で、トオルは我に返った。
「お、おうっ! みんな、手を貸してくれ!」
トオルは自警団の男たちと共に、倒れ伏したマンミアの巨体をなんとか引きずり起こした。ケンタウロスの馬の胴体は恐ろしく重かったが、火事場の馬鹿力と村人たちの協力で、なんとか村の中心にある広場まで後退することに成功した。
前線では、キャルルが殿を務め、光を嫌って動きの鈍ったネクロアントの残党をトンファーで牽制しながら、バリケードを再構築している。
「マンミアさん、しっかりしてください!」
広場に敷いた毛布の上にマンミアを寝かせると、トオルは絶句した。
彼女の肩から胴体にかけて、酸による深刻な火傷が広がっていた。装甲はドロドロに溶け、皮膚は黒く変色している。意識は混濁し、荒い息を吐くたびに口の端から血の混じった泡が漏れていた。
「酷い……ただの酸じゃない、壊死毒が混ざっているんだ」
トオルは唇を噛んだ。第3話で出した『抗生物質』は死蟲機の毒に有効だったが、それはあくまで初期症状や軽傷の場合だ。ここまで広範囲に細胞が破壊され、全身に毒が回ってしまっては、小さな錠剤一つではどうにもならない。
「道を開けて!」
前線から駆け戻ってきたキャルルが、マンミアのそばに滑り込むように跪いた。
その顔には、今まで見たことのないような悲痛な焦燥が浮かんでいた。
「マンミア……っ、私を庇って……ごめん、ごめんね……!」
「村長、駄目です! キャルルさんの治癒は、満月じゃないと大怪我には効かないんじゃ……!」
トオルが制止しようとするが、キャルルは首を横に振った。
「満月じゃなくても、私の命を削れば……足りない分のマナは補える! マンミアは私の一番の親友なの。絶対に死なせはしない!」
キャルルが両手をマンミアの胸に押し当てた。
ルビー色の瞳が強く発光し、頭上の兎耳がピンと逆立つ。彼女の全身から、銀白色のオーラが立ち昇り始めた。
月兎族の治癒権能。本来なら月の光を変換して行う奇跡の力を、彼女は自身の生命力(闘気)を無理やり変換することで代用しようとしていた。
「ハァアアアアッ……!!」
キャルルの両手から、眩い光がマンミアの傷口へと注がれ始める。
ジュウジュウと音を立てていた酸の浸食が止まり、黒く壊死していた皮膚が少しずつ赤みを取り戻していく。目に見えるほどの肉芽再生。
しかし、その代償はあまりにも残酷だった。
「がはっ……!」
キャルルの口から、鮮血がどっと吐き出された。
透き通るような白い肌が土気色に染まり、全身から滝のような冷や汗が噴き出す。オーバーサイズのパーカーが、彼女自身の血と汗でべったりと張り付いていた。
「キャルルさん! もうやめてください、これ以上はあなたが死んでしまう!」
「だ、め……! まだ、毒が抜けきって……ない……っ!」
トオルが肩を掴んでも、キャルルは絶対に手を離そうとしなかった。「目の前で苦しむ人を助けたい」。その純粋で強烈な善性が、彼女自身を滅ぼそうとしている。
トオルは自分の無力さに歯を食い縛った。
前世で、窓口で泣き崩れる市民に頭を下げるしかなかった自分。
そして今、目の前で命を削る少女を止めることすらできない自分。
(俺は、また見ているだけなのか……! 何か、何かないのか!)
トオルは空中のステータス画面を乱暴に展開した。
現在の残高は275pt。
医療カテゴリを血眼になってスクロールする。ポーションやエリクサーのような魔法のアイテムはない。そこにあるのは、現実世界のドラッグストアに並んでいるような日用品だけだ。
「……くそっ。それでも、やれることをやるしかない!」
【体温計(予測式電子タイプ/2pt)を具現化しますか?】
【総合感冒薬(粉末タイプ・12包/3pt)を具現化しますか?】
――YES!
残高270pt。
トオルは現れた体温計のスイッチを入れ、キャルルの脇に素早く挟み込んだ。
「ピー、ピー」と数秒で鳴った電子音。液晶に表示された数字は『40.5度』。極度の魔力消費による重度の知恵熱と炎症反応だ。このままでは脳に深刻なダメージが残る。
「キャルルさん、少しだけ口を開けて!」
トオルは総合感冒薬の粉末を封から開け、水と一緒にキャルルの口へ流し込んだ。
風邪薬の主な成分であるアセトアミノフェンやイブプロフェンは、魔法の解熱剤ではない。しかし、神経に作用して一時的に熱を下げ、痛みを和らげる効果は確実にある。
「こほっ……。トオル、くん……これ、にがい……」
「我慢してください。少しは熱が引くはずだ。俺が体を支えますから、無理だけはしないで」
トオルはキャルルの背中に回り、その華奢な体をしっかりと抱きとめた。彼女の体は、火の玉のように熱かった。
「……ありがとう、トオル君。あったかい、や……」
キャルルは微かに微笑むと、再び気力を振り絞ってマンミアへの治癒を続けた。
薬の効果で少し呼吸が落ち着いたのか、それともトオルが支えていることによる安心感か、キャルルの放つ銀白色の光が再び力強さを増した。
数分後。
マンミアの体を覆っていた黒い壊死毒が完全に消え去り、火傷の跡が塞がって新しい皮膚が形成された。
「う、うーん……」
マンミアが低く呻き声を上げ、ゆっくりと目を開けた。
「……村長? 私は、一体……。それにトオル、無事だったか……」
「マンミアさん! 良かった……!」
トオルが安堵の声を上げる。
だが、限界まで命を削り切ったキャルルの体は、糸が切れた操り人形のように崩れ落ち、トオルの胸の中で完全に気を失っていた。
「キャルルさん! キャルルさん!」
トオルは彼女の青ざめた顔を抱き寄せた。息はしているが、脈が弱々しい。体力の限界を超えたことによる深刻な魔力欠乏症だ。
「……村長が、私を……」
身を起こしたマンミアが、自らの綺麗な皮膚と、血を吐いて倒れているキャルルを交互に見つめ、すべてを悟ったように唇を噛み締めた。
「私の盾が未熟なばかりに……村長に命を削らせてしまった……!」
マンミアの悲痛な声が、広場に重く響いた。
村人たちも言葉を失い、ただ俯いている。前線のバリケードはどうにか持ちこたえているようだが、ネクロアントの群れが完全に退いたわけではない。森の奥には、まだ無数の気配が蠢いている。
トオルは、気を失ったキャルルをそっと毛布に寝かせた。
右手のひらには、空になったスプレーボトルとライター、そして体温計が握られていた。
(俺の出した道具は、確かに役には立った。だけど……)
トオルは拳を強く握りしめた。
(こんな小手先の日用品じゃ駄目だ。絆創膏や解熱剤で傷を癒やせても、そもそも傷つかないための『防衛力』がない。防壁が木組みの丸太なんて、近代兵器を持つ軍隊やあの大群の前には、ただの紙切れと同じじゃないか)
この村には、絶対的な防御力が足りない。
力技で敵を粉砕するマンミアやキャルルに、すべてを背負わせているだけだ。彼女たちが倒れれば、この村は一晩で壊滅する。
「誰もが安心して駆け込める場所……。それを口にするなら、俺が、この村を『要塞』にしなきゃいけないんだ」
トオルは再び、空中にステータス画面を呼び出した。
【ユニークスキル:公共事業】
(貢献度を消費し、公共の利益となる物品を具現化します)
その曖昧な説明文。
今まで、彼は「公共の利益」という言葉を、「トイレットペーパー」や「薬」「浄水器」といった、生活を豊かにするための日用品だとばかり思い込んでいた。
しかし、本当にそれだけなのだろうか?
「公共事業……。前世で俺が担当していたインフラ整備。道路を舗装し、水道管を敷き……そして、土砂崩れや災害から市民の命を守るための『護岸工事』や『防潮堤』の建設」
トオルの脳内に、一つの閃きが走った。
市民の命を脅かす脅威を物理的に遮断するための土木工事。それこそが、国家や自治体が行う最大の『公共事業』ではないのか。
「……試してみる価値はある」
トオルは画面をスクロールさせ、今まで見落としていたカテゴリへと指を伸ばした。
未解放のグレーアウトされたリストが並ぶ中、彼の視線はある一つの項目に釘付けになった。
「これなら……俺の知識で、この村の防衛線を根本から作り変えられるかもしれない」
夜明け前の冷たい風の中、過労死公務員の目に、かつてない決意の光が宿っていた。
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