EP 7
死蟲機の襲撃
穏やかな焚き火の温もりと、キャルルの少し重たい告白の余韻。
それを引き裂いたのは、村の物見櫓から狂ったように打ち鳴らされる、真鍮の鐘の音だった。
「カン、カン、カン、カンッ!!」
ただ事ではない乱打。
キャルルの兎耳がピンと張り詰め、トオルも即座に立ち上がった。
間髪入れず、庭の木戸を蹴破るような勢いでマンミアが駆け込んでくる。彼女の額には脂汗が浮かび、巨大なシールド『アグニ』を既に構えていた。
「村長! トオル! ただちに広場の奥へ避難を!」
「マンミア、何があったの!?」
「森の奥から、正体不明の魔蟲の大群が防壁に押し寄せてきている! あの数は尋常ではない。しかも奴ら、木材を溶かす『強酸』を吐きやがるのだ!」
「強酸……っ、昼間に上流から流れてきた汚染水の原因か!」
トオルは血の気が引くのを感じた。
もし防壁が突破されれば、戦闘力を持たない老人や子供たちが一方的に屠られることになる。
「私も戦う! マンミア、前線の指揮は任せて!」
キャルルがパーカーのジッパーを首元まで上げ、両手に木製のダブルトンファーを握りしめた。
「トオル君は危ないから、ここで待ってて!」
キャルルとマンミアが旋風のように防壁の方向へ駆け出していく。
トオルはその背中を見送り……強く拳を握りしめると、メルちゃんを懐に押し込み、二人の後を追って走り出した。
安全な場所で震えているだけなら、市役所のデスクにしがみついていた前世と何も変わらない。彼が目指すのは「誰もが安心して駆け込める場所」だ。村人が戦っているのに、副村長が隠れているわけにはいかなかった。
***
村の東側防壁。
そこに広がっていたのは、まさに地獄絵図だった。
月明かりの下、黒光りする硬質な甲殻を持った巨大な蟻――『死蟲機』が、文字通り黒い波となって防壁に群がっていた。
「ギチチチチチッ……!」
不快な大顎の擦過音が響き渡り、奴らの口から緑色に濁った酸液が次々と吐き出される。
「ジュゥウウウッ!」という不気味な音と共に、頑丈なはずの丸太の防壁がボロボロと溶け崩れていく。
「押し返せ! 村には一匹たりとも入れるな!」
マンミアが号令を飛ばし、防壁の隙間から侵入しようとするネクロアントに向かって、シールドに内蔵されたパイルバンカーをゼロ距離で撃ち込む。
「メビウス・インパクトッ!」
ミスリル分銅の鎖が唸りを上げ、数匹の魔蟲をまとめて粉砕した。
「ハァアアアッ!」
キャルルもまた、超人的な跳躍力で宙を舞い、『月影流 乱れ鐘打ち』で魔蟲の頭部を的確に蹴り砕いていた。
しかし、いかに二人が達人級の戦闘力を持っていようとも、多勢に無勢だった。
「だ、駄目だ! 酸で槍の柄が溶かされた!」
「ひぃぃっ! こっちの壁も保たねぇ!」
自警団の村人たちが次々と酸液の飛沫を浴びて後退を余儀なくされる。防壁にぽっかりと巨大な穴が空き、そこからネクロアントの群れが雪崩れ込もうとしていた。
「このままじゃ突破される……!」
防壁の後方に辿り着いたトオルは、戦況の絶望的な傾きを瞬時に理解した。
魔獣には、火と光が効く。それは昨夜、単体の狼型魔獣で証明済みだ。
だが、この圧倒的な物量に対して、百円ライターの小さな火では全く意味がない。
「もっと広範囲を、一瞬で炎上させる手段……!」
トオルは空中のステータス画面を叩くように展開した。
現在の残高は279pt。衛生・医療カテゴリ、そして文具カテゴリから、アイテムを即座に選択する。
【消毒用アルコールスプレー・ポンプ式(3pt)を具現化しますか?】
【単色ボールペン・10本セット(1pt)を具現化しますか?】
――YES!
残高275pt。トオルの足元に、大容量のアルコールスプレーのボトルと、透明なプラスチック製のボールペンの束が現れた。
前職で、避難所の備品を工夫した経験が活きる。
トオルはボールペンを素早く分解し、インク芯を抜き取って「空洞のプラスチック管」を作る。それをアルコールスプレーの噴射口に当て、昨日使ったガムテープの余りでぐるぐると頑丈に巻き付けて固定した。
これで、霧状に拡散してしまうスプレーが、水鉄砲のように「直進性の高いアルコール噴射機」へと早変わりする。
トオルは左手にスプレーボトルを抱え、右手に百円ライターを構えた。
狙うは、防壁の穴からなだれ込んでくるネクロアントの密集地帯。
「お前ら、下がれぇえええッ!!」
トオルは自警団の男たちを突き飛ばすように前へ出ると、右手のライターで火をつけ、同時に左手でスプレーのポンプを全力で押し込んだ。
シュバァアアアアアッ!!
圧縮された高濃度の消毒用アルコールが、ボールペンの管を通って直線的に射出され、ライターの火を通過した瞬間に『猛烈な火柱』へと変貌した。
即席の簡易火炎放射器である。
「ギギィイイイイッ!?」
引火性の高いアルコールを直接浴びた先頭のネクロアントたちが、爆発的に燃え上がった。
甲殻が熱で弾け飛び、火だるまになった魔蟲がパニックを起こして後続の群れにぶつかり、次々と炎が延焼していく。防壁の決壊口が、一瞬にして灼熱の炎の壁で塞がれた。
「な、なんだあれは! トオルの兄ちゃんが、手から業火の魔法を放ったぞ!」
「神官じゃなかったのか!? 宮廷魔導士級の火力じゃねえか!」
驚愕する村人たちをよそに、トオルは必死でスプレーのポンプを押し続けた。
「魔法じゃない、ただの化学反応だ! 引火してるうちに、土を被せて穴を塞ぐんだ!」
トオルの機転による時間稼ぎは、完璧に機能したかに見えた。
炎を恐れたネクロアントの群れが、ジリジリと後退し始める。
「よくやった、トオル! 素晴らしい制圧射撃だ!」
マンミアが感嘆の声を上げ、キャルルも「トオル君、かっこいい!」と歓声を上げた。
だが、相手は本能で動くただの獣ではない。
深淵の群体知性によって統率された、冷酷な生体兵器だったのだ。
「――ッ! トオル、上だ!!」
マンミアの絶叫が夜空を劈いた。
防壁の上。炎の壁を迂回し、木々の枝を伝って村の内部へと侵入していた個体がいたのだ。それも、通常のネクロアントの二倍はあろうかという、異様に腹の膨れた大型個体だった。
「ギチチチッ!」
大型個体の口から、大量の濃縮された酸液が、ホースから撒き散らされる水のようにトオルめがけて発射された。
「しまっ……」
トオルには避けるだけの身体能力がない。炎の壁を作っていた彼こそが、敵の群体知性から『最大の脅威』としてターゲットにされたのだ。
酸がトオルの顔面に迫る。
ズガンッ!!
凄まじい衝撃音と共に、トオルの視界が暗転した。
いや、トオルの目の前に、巨大な金属の壁が割り込んだのだ。
「……ぐ、ぅあああああっ!!」
マンミアだった。
彼女はケンタウロスの脚力を限界まで爆発させてトオルの前に滑り込み、シールド『アグニ』で強酸の直撃を全て受け止めたのだ。
だが、大型個体の吐き出した酸は桁違いの威力だった。
「ジュゥウウウウッ!!」
という凄まじい沸騰音を立てて、分厚いミスリル混じりの鋼の盾がアメ細工のように溶け落ちていく。そして、防ぎきれなかった酸の飛沫が、マンミアの肩と腕、そして馬の胴体部分を無残に灼き焦がした。
「マンミアさん!!」
トオルが絶叫する。
限界を超えた痛みに、マンミアの巨体が支えを失い、ドスッと重い音を立てて崩れ落ちた。
「マンミアーッ!!」
キャルルが悲鳴を上げ、大型個体めがけてトンファーを振り下ろすが、敵の硬い甲殻に弾かれ、逆に吹き飛ばされてしまう。
「あ、あぁ……」
トオルの手から、空になったスプレーボトルが滑り落ちた。
目の前で、村最強の盾であるマンミアが血と酸に塗れて倒れている。防壁の炎はアルコールが尽きて弱まり、怒り狂ったネクロアントの群れが、再び決壊口から濁流のように押し寄せてこようとしていた。
手持ちの道具は尽きた。
戦闘力はゼロ。
これ以上、何を具現化してもこの圧倒的な物量と暴力の前では間に合わない。
(ここまでなのか……。また俺は、誰も救えずに……!)
トオルが絶望に歯を食い縛った、まさにその時だった。
『……パパ。だいじょうぶ』
トオルの胸元、ワイシャツのポケットに押し込んでいたメルちゃんが、突如として眩いほどの緑色の光を放ち始めた。
その光は、焚き火の時のような儚いものではない。夜の闇を完全に払拭するほどの、圧倒的な生命の輝き。
押し寄せる死蟲機の群れが、その光を浴びて一瞬ピタリと動きを止める。
絶体絶命の窮地。
限界集落ポポロ村の防衛線で、トオルの相棒が起こした未知の現象が、新たな因果の扉をこじ開けようとしていた。




