EP 6
焚き火と公僕の夢
ポポロ山の頂に沈む太陽が、空を深い藍色へと染め上げていく。
急激に冷え込み始めた夜の空気を和らげるように、村長邸の庭ではパチパチと音を立てて焚き火が燃えていた。
透は丸太の椅子に腰掛け、赤く爆ぜる火の粉をぼんやりと見つめていた。
物流を止められたことによる防寒対策、上流からの汚染水への対応。怒涛のように押し寄せた異世界のトラブルを『公共事業』の力で乗り切ったものの、精神的な疲労はピークに達していた。
「ふぅ……」
深く息を吐き出しながら、手元に置いていたLED懐中電灯を点灯させる。
チカ、チカチカッ。
数回瞬いた後、強烈だった白色光が弱々しく霞み、やがて完全に消えてしまった。
「あー、さすがに電池切れか。初日から使いっぱなしだったからな」
トオルは空中のステータス画面を呼び出した。現在の残高は281pt。
日用品カテゴリの中からアイテムを選択する。
【乾電池(単三型4本セット/2pt)を具現化しますか?】
――YES。
手の中に、見慣れたパッケージに入った乾電池が現れた。残高は279pt。
懐中電灯の底を回して開け、古い電池を抜き取って新しいものを装填する。スイッチを入れると、再び闇を切り裂くような強い光が復活した。
魔力に依存しない物理的なエネルギー。この絶対的な信頼感こそが、彼にとっての安心材料だった。
「まだ起きてたの、トオル君?」
背後から、足音もなくキャルルが近づいてきた。
オーバーサイズのパーカーを羽織り、両手には湯気の立つ木組みのカップを持っている。
「キャルルさん。ええ、少し頭の中を整理したくて」
「はい、これ。陽薬草を少しだけブレンドしたお茶だよ。体が温まるから」
トオルはありがたくカップを受け取った。ハーブの香りがふわりと鼻をくすぐる。
「ありがとうございます。……そうだ、これもちょうど良かった」
トオルは再びスキル画面を開き、医療カテゴリから【経口補水液(粉末パック/2pt)】を具現化した。小さなアルミの袋を破り、白い粉末をキャルルが淹れてくれたお茶にサッと溶かす。
「それもトオル君のお薬? なんだかお茶の色が少し変わったけど……」
「薬というよりは、疲労回復のための塩分とミネラルの補給材です。汗をかいたり、疲れたりした時に飲むと、体にスッと吸収されるんですよ。一口飲んでみますか?」
キャルルは不思議そうにカップを受け取り、こくりと一口飲んだ。
「んっ……少ししょっぱい? でも、不思議。口の中に入れた瞬間、体がスゥッと乾きを潤していくみたい……」
「でしょう? 本当は冷たい水に溶かすんですが、温かいお茶でも悪くないですね」
トオルも自分のカップに粉末を溶かし、ゆっくりと喉に流し込んだ。細胞の隅々にまで水分が行き渡るような感覚があり、強張っていた肩の力がフッと抜けた。
足元では、ベビーメロロンのメルちゃんが、焚き火の温もりを求めてコロンと転がっている。
火の爆ぜる音が、夜の静寂を満たしていた。
「ねぇ、トオル君」
膝を抱えるようにして座ったキャルルが、揺れる炎を見つめながら口を開いた。
「トオル君って、本当に不思議だよね。見返りも求めずに、みんなのために動いてくれる。トオル君の出す道具も凄いけど、何より、トオル君のその優しさは、どこから来てるの?」
その問いに、トオルは少しだけ目を伏せた。
「……俺のいた世界は、ここみたいに魔法も魔獣もなかったんです。でも、生きるのは決して簡単じゃなかった」
脳裏に浮かぶのは、山積みの書類、鳴り止まない電話、そして市役所の窓口で見た人々の顔だ。
「俺の仕事は、街のインフラを整えたり、困っている人を助けるための窓口でした。でも、予算の壁があったり、法律の制限があったりして……目の前で助けを求めている人を、たらい回しにしなきゃいけないこともあったんです」
生活に困窮する老人。明日の食事に悩む家族。
制度の隙間に落ちていく彼らに、「規定ですので」と頭を下げるしかなかった無力感。
過労死するまで働いても、誰もが幸せになれる社会は作れなかった。
「だから……この世界でこの『公共事業』っていう能力をもらった時、思ったんです。今度こそ、手の届く範囲だけでもいいから、誰もが安心して駆け込める場所を作りたいって」
トオルは、手の中のLED懐中電灯を軽く握りしめた。
「蛇口をひねれば綺麗な水が出て、夜になっても明かりがあって、寒さに震える人がいない。そんな当たり前の『日常』を作るのが、俺の夢なのかもしれません」
英雄になって魔王を倒すわけでも、莫大な富を築くわけでもない。
ただの地方公務員が抱く、あまりにもささやかで、しかし確固たる理念。
キャルルは、ルビー色の瞳を見開いてトオルの横顔を見つめていた。
「……そっか。トオル君の優しさは、その夢から来てるんだね」
キャルルはふわりと微笑むと、パーカーの袖をギュッと握りしめた。
「私ね、実はレオンハート獣人王国の姫だったの」
「えっ……姫!?」
「うん。でも、月兎族の治癒力と希少性のせいで、ずっとお城の中で籠の鳥だった。政略結婚の道具にされるのが嫌で、自由になりたくて逃げ出してきたんだ。……それで、このポポロ村の村長になって、みんなの笑顔を見た時、ここが私の本当の居場所だって思ったの」
キャルルはそっと、トオルの手に自分の手を重ねた。
その体温は熱を帯びていて、驚くほど柔らかかった。
「トオル君の夢は、私の夢と同じだよ。誰もが安心して駆け込める場所……私、トオル君と一緒にその夢を叶えたい」
「キャルルさん……」
「だからね、トオル君」
キャルルの瞳の奥で、炎の光とは違う、どこか重たくて昏い光が揺らいだ。
「トオル君の居場所は、私が絶対に守るから。……もう、私のそばから離れられないように、ずっとずっと、一緒にいようね♡」
(……ん? 今、なんかちょっと重ための言葉が混ざってなかったか?)
トオルが背筋に一抹の悪寒を感じた、その瞬間だった。
『パパ……ママ……あったかい……』
足元で丸くなっていたメルちゃんが、突如として淡い緑色の光を放ち始めたのだ。
それはホタルのような儚い光だったが、次第に強さを増し、周囲の草木がそれに呼応するように僅かに揺らめいている。
「わっ、メルちゃんが光ってる!?」
「怪我の治癒が完了して、魔力が安定したのか……? いや、ただの発光現象じゃないな」
トオルの知識では測りきれない、異世界の神秘。
メルちゃんの光は、まるでトオルとキャルルの絆を祝福するかのように、穏やかで温かい波長を帯びていた。
――しかし。
その穏やかな光景の裏側で、確実に『死の足音』は近づいていた。
ポポロ村の外。
マンミアが警戒していた森の奥深く。
月明かりの届かない漆黒の闇の中を、無数の硬質な足音が埋め尽くしていた。
カサ、カサカサカサッ……!
草木を溶かす酸の臭いと、腐敗した瘴気。
黒光りする強靭な甲殻と、大顎を鳴らす不気味な音。
深淵の群体知性・死蟲王サルバロスが放った生体兵器『死蟲機』の斥候部隊が、ポポロ村の木造防壁の目と鼻の先まで到達していた。
平和な村を地獄へと変える殺戮の嵐が、いよいよその牙を剥こうとしていることに、トオルたちはまだ気づいていなかった。
読んでいただきありがとうございます。
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