EP 31
水洗トイレ革命
ポポロ村は、今や限界集落という汚名を完全に返上し、活気に満ちた新興都市へと変貌しつつあった。
ルナミス帝国から押し付けられた『辺境領』としての権限と、難民の積極的な受け入れ。さらには、ゲル伯爵の暴政と下水臭に耐えかねてムーンキャピタルから亡命してきた中産階級の職人や商人たち。
村の人口は、あっという間に三千人を突破しようとしていた。
だが、人口の爆発的な増加は、ある深刻なインフラの限界を露呈させていた。
「うっ……! ト、トオル君、最近村の風下にいくと、ちょっと匂いが……」
役場の執務室で、キャルルが兎耳をペタンと伏せて鼻をつまんだ。
「ええ。分かっています」
トオルも顔をしかめ、防水メモ帳に書き込んだ『村内環境調査報告』に目を落とした。
難民が急増した当初は、トオルが出した『携帯トイレ(凝固剤入り)』でしのいでいた。しかし、数千人が毎日排泄をするとなれば、凝固剤の供給もゴミ袋の処理も限界を迎える。
現在は暫定的に、防壁の外に巨大な穴を掘って共同の汲み取り式トイレとしているが、風向きによっては村に強烈な悪臭が漂い始めていたのだ。
「カッカッカ。どんなに強固な城壁を作っても、人間の『生理現象』だけは止められへんからな」
窓枠に腰掛けたニャングルが、キセルを吹かしながら笑う。
「笑い事じゃありませんよ。排泄物の適切な処理ができなければ、ハエが湧き、地下水が汚染され、また伝染病が蔓延します。村の死活問題だ」
トオルが深刻な顔で立ち上がった時、役場の外から騒がしい声が聞こえてきた。
「はっはっは! ポポロ村の皆様! ご不便をおかけしているようですね!」
広場に出ると、けばけばしい馬車から降り立った一人の男が、香水瓶を並べた屋台を広げていた。
豪奢な服を着ているが、どこか薄汚れた印象の男。かつてムーンキャピタルでゲル伯爵の庇護下にあった、没落しかけの香水商人だった。
「聞けば、この村では悪臭が問題になっているとか! やはり、野蛮な農村には我々ムーンキャピタルの『特級マナ香水』が必要不可欠なのです! さあ、今ならこの香水を、特別に銀貨三枚で売って差し上げましょう! これを振り撒けば、どんな悪臭も芳醇な香りに上書きされますよ!」
商人は勝ち誇ったように香水を空中にスプレーした。
キツすぎる甘い匂いと、村の風下から漂う排泄物の臭いが混ざり合い、凄まじい『スメルハザード』を引き起こす。
「おえぇっ……!」
周囲の村人たちが、たまらず咳き込んで逃げ出した。
「おい、三流商人」
ニャングルが眉間に皺を寄せて進み出る。
「ゲル伯爵の香水利権は、前の公開審査でワシらが完全に論破したはずやぞ。なんでまたシャシャリ出てきたんや」
「ふんっ! あの時は屁理屈で負けましたがね、結局、人が増えれば悪臭は防げない! 物理的な『臭い消し』が必要になるのは自明の理! さあ副村長、村を臭いから救いたければ、私の香水を村の予算で定期購入する契約を結びなさい!」
商人の言葉に、トオルは冷ややかに首を横に振った。
「臭いを上書きするだけの香水に、予算を割くつもりはありません」
「負け惜しみを! では、この村は永遠に糞尿の臭いに包まれたまま……」
「臭いの『元』を、水で流し去ればいいだけです」
トオルはそう宣言し、空中のステータス画面を勢いよく展開した。
現在の残高は11,069pt。第5段階『設備』のリストから、二つの大型インフラ設備を選択する。
【公衆水洗トイレユニット(男女別・各10個室・手洗い場完備/150pt)を具現化しますか?】
【浄化槽ユニット(大型バクテリア分解式/200pt)を具現化しますか?】
――YES!!
残高10,719pt。
ズドォォォォォンッ!!!
広場の隅、あらかじめ整地しておいた区画に、プレハブ診療所と同じような清潔な白亜の建物が出現した。さらにその建物の地下には、巨大な黒いタンク(浄化槽)が埋設される。
「な、なんだあの建物は……!?」
香水商人が腰を抜かす。
「『公衆水洗トイレ』です。中を見てください」
トオルが扉を開けると、そこにはピカピカに磨き上げられた白い陶器の便器が並ぶ、清潔な個室がずらりと連なっていた。壁にはトイレットペーパー(※以前具現化した衛生紙の技術を応用し、ドンガン地下帝国との取引で大量生産した水溶性の紙)が備え付けられている。
「……ただの便器ではないか! 穴がないぞ、これでは溢れてしまう!」
「溢れませんよ」
トオルは個室の壁にある銀色のレバーを押し下げた。
ジャァアアアアアアッ!!!
凄まじい勢いで水が流れ出し、便器の中を渦を巻きながら一瞬で洗い流した。便器の底の水溜まり(封水)が、下水からの悪臭を完全に遮断している。
「こ、これは……!! 汚物が、一瞬にして水と共に消え去った!?」
「そして流された汚物は、そのまま川に垂れ流されるわけではありません」
トオルは建物の裏手、浄化槽のマンホールを指差した。
「地下に埋めた『浄化槽』の中で、特殊なバクテリアが汚物を水と炭酸ガスに完全に分解します。そして、透き通るほど綺麗に浄化された水だけが、川へと排出される。……この世界の絶対ルール『第2法:環境破壊の禁止』にも完全に適合した、究極の衛生システムです」
「バ、バクテリア……? 汚物を綺麗な水に変えるだと……?」
香水商人はワナワナと震え、信じられないというようにトイレの中を嗅ぎ回った。
「無臭だ……! こんなに大量の人間がいる村のトイレが、全く、これっぽっちも臭わないだと!?」
香水という「臭いの上塗り」で商売をしてきた男にとって、悪臭そのものを根絶するインフラ技術は、自らの存在意義を完全否定する魔法に等しかった。
ピリリリリリッ!
その時、トオルの脳内に電子音が響いた。ルチアナからの通信だ。
『ヤッホー、トオル! なんか凄いトイレ作ったじゃん! 前回のラーメンの飯テロの恨みはあるけど、私も神様として、ポポロ村の衛生革命にちょっとだけ協賛してあげる! えいっ!』
「協賛……? お前、勝手に何を……」
プツン、と通信が切れた瞬間。
水洗トイレの個室の天井に、見慣れない小さなディフューザー(芳香器)が出現し、そこからシュワァ……と微かなミストが噴射された。
フワァ……。
トイレ内に、新緑の森の奥深くにいるような、信じられないほど清浄で心安らぐ香りが広がった。
「なんだ、この香りは……?」
トオルが驚いていると、個室に入っていた獣人の自警団員が、とろんとした目で出てきた。
「はぁ〜……極楽だぁ……。個室に入った瞬間、心が洗われるような香りに包まれて……危なくトイレの中で熟睡するところだったぜ……」
「なになに!? 私も入ってみる!」
キャルルが女子トイレに駆け込み、数分後、ハイライトの戻ったキラキラの笑顔で出てきた。
「すごいよトオル君! なんだか、イライラしてたこととか、全部どうでもよくなっちゃうくらいリラックスできるの! これがトオル君の作った究極の癒やし空間なんだね!」
それは、ルチアナが適当に送りつけてきた神界のアイテム『ハッピードリーム(超強力リラックス芳香剤)』だった。
ただでさえ清潔な水洗トイレが、神界の芳香剤と組み合わさったことで、「世界で一番リラックスできる究極の個室」へとクラスチェンジしてしまったのだ。
「……勝負あったな」
ニャングルが、床にへたり込んだ香水商人を見下ろした。
「臭いを消すどころか、排泄の時間を極上のリラクゼーションに変えてしもうた。お前らの小賢しい香水なんぞ、もはや誰も一滴も買わんわ。さっさとそのガラクタまとめて、帝都のドブ川にでも捨ててこい!」
「あ、あああ……ゲル伯爵様の、数百年の香水利権が……ただの白い便器に……敗北した……」
商人は絶望に顔を歪め、香水の小瓶をポロポロと落としながら、逃げるようにポポロ村から走り去っていった。
これにて、ゲル伯爵を後ろ盾とするムーンキャピタルの『香水・汚物利権』は、市場から完全に駆逐されたのである。
ピロンッ♪
【公衆水洗トイレおよび浄化槽を設置し、村の悪臭問題を根本から解決しました。】
【既存の香水利権の完全崩壊と、環境衛生の極致の達成により、貢献度ポイント +600pt を獲得しました。】
【現在の残高:11,319pt】
「やったね、トオル君!」
キャルルがトオルの腕にギュッと抱きつく。
「これでポポロ村は、どこよりも綺麗で、いい匂いのする村になったよ! 私、トオル君の作ってくれたこの村が、世界で一番好きっ♡」
「ええ、これでまた一つ、安心できる場所になりました」
トオルは抱きつくキャルルの頭を優しく撫でながら、白亜の公衆トイレを見上げた。
プレハブ診療所、LED街灯、そして水洗トイレ。
人間の生活に不可欠な「医療・光・衛生」という三大インフラが完全に整ったことで、ポポロ村はもはや、周辺のどの都市よりも高度な文明を持つ『独立国家』の様相を呈し始めていた。
しかし、その完璧すぎる独立性が、帝国の中枢――特に皇帝マルクスや、裏で暗躍するリアク侯爵の警戒を、引き返せないレベルへと引き上げていることに、トオルはまだ気づいていなかった。




