EP 28
辺境の全責任
帝国内務省の特別査察官による不当な監査を、完璧な『複式簿記』と『法務』の盾で退けてから数日後。
ポポロ村の役場は、かつてないほどスムーズに機能していた。
「副村長、南の農地の開拓許可、決裁をお願いします」
「はい、承認します。ネギオさんの法務チェックは済んでいますね? よし、これで今日の俺の業務は終了です!」
午後五時。広場の半鐘が鳴ると同時に、トオルは手元のボールペンを置き、勢いよく伸びをした。
「お疲れ様でした! 皆さんも定時で上がってくださいね!」
役場の窓口スタッフたちが笑顔で帰路につくのを見送りながら、トオルは深い感動に包まれていた。
(素晴らしい……。権限を委譲し、システムで村を回す。これこそが、俺が前世で夢見た『完全なるホワイト職場』だ!)
定時退社という至高の権利を噛み締め、スアイのサウナへ向かおうと役場の出口に足を向けた、その時だった。
「カン、カン、カンッ!!」
またしても、広場の見張り櫓からけたたましい鐘の音が鳴り響いた。
「……嘘だろ。まさかまた残業か?」
トオルの顔から血の気が引く。
広場に現れたのは、数日前の銀甲冑の騎士団よりもさらに豪奢な、帝国の『双頭の鷲』の紋章を掲げた馬車だった。
降りてきたのは、煌びやかな礼服を纏った王都の使者と、その後ろをフラフラと幽鬼のような足取りで歩く、分厚い眼鏡をかけた痩せ型の青年だった。青年の目の下には、絵に描いたような真っ黒なクマができている。
「ルナミス帝国第2代皇帝、マルクス陛下からの勅命である!」
使者が仰々しく羊皮紙の巻物を広げた。
広場に集まった村人たち、そしてキャルルやマンミアが息を呑む。
「『先日、ポポロ村において内務省査察官の不正を暴いた功績を高く評価する。よって、ポポロ村を正式な帝国辺境領として認定し、副村長トオルに、ポポロ村を中心とする半径百キロ圏内の【辺境全域の統治権および管理責任】を委任する』――以上だ!」
広場が静まり返った。
「……は?」
トオルは間の抜けた声を漏らした。
「半径、百キロ? それって、隣のムーンキャピタルの領地ギリギリから、魔獣がうようよいるポポロ山脈の裏側まで全部ってことですか!?」
「左様。皇帝陛下からの栄えある『恩賞』である。この広大な領地の治安維持、難民保護、および魔獣討伐の全責任は、今後一切貴様が負うことになる。……ああ、帝国からの予算や軍の支援は一切ない。自力で励むことだな。では!」
使者は嘲笑うように言い捨てると、痩せ型の青年を一人その場に残し、馬車に乗って嵐のように去っていった。
「な、なんやてぇええッ!?」
遅れて広場に駆けつけてきたニャングルが、事態を把握して頭を抱えた。
「予算も軍もなしで、半径百キロの荒野の管理責任を丸投げやと!? アホか! そんなもん、恩賞の皮を被ったただの『厄介払い(スケープゴート)』やないか!」
その通りだった。
黒幕リアク侯爵の罠。監査で潰せなかったトオルに対し、今度は「広大すぎる領地の全責任」という合法的な重圧を背負わせ、過労と資金難で村ごと自滅させるという、極めて悪辣な『ブラック企業的報復』であった。
「終わりました……。もう、何もかもおしまいです……」
広場に取り残された眼鏡の青年が、ボソボソと呟きながらその場にへたり込んだ。
「あ、あなたは?」
トオルが声をかけると、青年は生気のない目でトオルを見上げた。
「私はシルヴァン。帝国内務省の事務官です……。上層部の派閥争いに負け、あなたの『補佐官』という名目で、この辺境への左遷を命じられました」
シルヴァンは自嘲気味に笑った。
「半径百キロの管理など、一地方の農村にできるはずがない。数日後には、周辺の難民が『帝国の保護領になった』と聞きつけて万単位で押し寄せてきます。食糧は枯渇し、暴動が起き、魔獣が防壁を越える……。私たちは全員、責任を取らされて処刑されるか、過労で死ぬ運命なのです……ハハハ……」
完全に精神が壊れかけている。
帝国の激務に揉まれ、さらに死地に追いやられたエリート官僚の末路だった。
「うおおおおっ!! トオル副村長! 西の街道から、何千人もの難民と流浪の民がこっちに向かって歩いてきてるぞ!!」
見張り櫓からの絶叫が、シルヴァンの予言を即座に証明した。
帝国の勅命は、風の噂となって周辺地域の貧民たちに瞬時に伝わっていた。「ポポロ村に行けば保護してもらえる」という希望にすがり、周辺の荒野から怒涛のように人が押し寄せてきたのだ。
「ひぃぃっ! ほら見ろ、始まった! やらなきゃ、書類を作らなきゃ! 難民の受け入れリスト、食糧の配給計算、仮設住宅の割り当て……!」
シルヴァンが錯乱したように鞄から大量の羊皮紙と羽ペンを取り出し、コンクリートの地面に這いつくばって猛烈な勢いで計算を始めた。
「シルヴァンさん、落ち着いて!」
「落ち着けるわけがない! 徹夜だ! 今日から一睡もせずにこの書類を処理し続ければ、三日くらいは村の崩壊を先延ばしにできる……! 私が死ぬ気でやりますから、副村長も徹夜で……!」
その言葉を聞いた瞬間。
トオルの脳内で、何かがブチッと千切れる音がした。
「……徹夜?」
トオルの声が、地を這うように低くなった。
「俺から……定時退社を奪う気か?」
「えっ?」
シルヴァンが羽ペンを止めた。
トオルの背後から、前世の『過労死』という凄惨なトラウマから生み出された、どす黒い怨念のようなオーラが立ち昇っていた。
それは魔獣の殺気よりも恐ろしく、横にいたマンミアやキャルルですら思わず一歩後退るほどの圧迫感だった。
「ふざけるな。俺は二度と、ブラックな環境で命を削るような真似はしない。そして、俺の部下にも絶対にそんな働き方はさせない!」
トオルは虚空を睨み、ステータス画面を怒りのままに展開した。
現在の残高は10,649pt。事務・知識カテゴリの奥底に眠る、一冊の『禁断の書』を選択する。
【『労働基準法解説書』(30pt)を具現化しますか?】
――YES!!
残高10,619pt。
ズドォォンッ!!
トオルの手の中に、近代国家における労働者の血と涙の結晶、絶対不可侵の労働ルールが記された分厚い専門書が具現化した。
「シルヴァン! ペンを置け!」
トオルは『労働基準法解説書』を、シルヴァンの目の前の地面に叩きつけた。
「な、なんですかこれは……『ろーどう、きじゅんほう』?」
「労働者の命を守る、絶対のルールだ! 第32条、労働時間は一日八時間、週四十時間を超えてはならない! 第34条、労働時間が六時間を超える場合は四十五分以上の休憩を与えなければならない! 徹夜で書類仕事など、このポポロ村では明確な『違法行為』だ!」
「い、違法!? しかし、難民の対応を誰かがやらなければ……!」
「一人で抱え込むから破綻するんだ! 難民が数千人来る? 上等じゃないか。それは『守るべき弱者』であると同時に、強固なインフラを構築するための『莫大な労働力』だ!」
トオルの公僕としての真骨頂が爆発した。
「ニャングルさん! ゴルド商会の備蓄食糧を全放出してください! 支払いは村の特別予算で必ず精算します! ダストンさん、炊き出しの準備を!」
「お、おう! ワシの算盤に狂いはないと信じるで!」
「ガッテン承知ドス! おばちゃん連中、大鍋の準備ドス!」
トオルはシルヴァンの腕を掴んで強引に立たせ、役場の中へと引き入れた。
「シルヴァン、君の優秀な事務能力は認める。だが、君の仕事は『自分で書類を書くこと』じゃない。読み書きができる難民を百人ピックアップして、彼らに業務を教え込む『マネジメント』だ!」
「なっ……難民に、役所の仕事をさせるのですか!?」
「そうだ。彼らにまともな食事と安全な寝床を保障し、一日八時間のシフト制で働かせる。これが『公共事業』だ!」
トオルの指示は迅速かつ的確だった。
押し寄せる数千人の難民に対し、トオルはまず温かいちゃんこスープ(炊き出し)と、以前配った『エマージェンシーシート』や『簡易テント』を提供し、パニックを完全に沈静化させた。
そして、体力のある者にはコンクリート防壁の増築工事や農地開拓の仕事を、読み書きができる者には役場での事務作業を割り振り、『適切な対価(労働基準法に則った賃金と休息)』を約束したのだ。
結果として。
シルヴァンが「村が崩壊する」と絶望していた難民の流入は、ポポロ村の労働力不足を一気に解消する『巨大なエネルギー』へと変換された。
「……信じられない」
三日後。
役場の執務室で、シルヴァンは整然と処理されていく書類の山を見て、呆然と呟いた。
かつて彼が帝都で一人で抱え込み、血を吐きながら処理していた業務量の十倍以上の仕事が、百人の難民スタッフたちによる「八時間シフト」によって、誰一人倒れることなく完璧に回っていたのだ。
「これが……人が人として生きながら、社会を回すための『システム』……」
シルヴァンの目の下にあった真っ黒なクマは、すっかり薄くなっていた。彼自身も、トオルの強制的な命令により、毎日きっちり八時間睡眠を取らされていたからだ。
「お疲れ様、シルヴァン」
定時の鐘が鳴り、トオルが温かいお茶を差し出した。
「君の指導のおかげで、新人たちもすぐに仕事を覚えてくれた。これで君も、今日から定時退社だ」
「副村長……っ!」
シルヴァンの目から、大粒の涙が溢れ出した。
帝国の歯車として使い潰されるだけの人生だった彼が、初めて「一人の人間」として扱われ、仕事の真の達成感を知った瞬間だった。
「私は……私は一生、あなたについていきます! たとえ帝国があなたを反逆者と呼ぼうとも、私の心はこのポポロ村の労働基準法と共にあります!」
シルヴァンがその場に泣き崩れてトオルの足にすがりつく。
ピロンッ♪
【労働基準法を施行し、莫大な難民を適正な労働力として組織化しました。】
【辺境全域の統治能力(実質的な領主権限)の獲得により、貢献度ポイント +300pt を獲得しました。】
【現在の残高:10,919pt】
「ふふっ、トオル君ってば、また熱烈なファンを増やしちゃって」
窓辺でその様子を見ていたキャルルが、少しだけ嫉妬を交えた声で笑う。
「でも、これでトオル君は本当に『半径百キロの王様』になっちゃったね」
「王様じゃありません。俺はあくまで副村長です」
トオルは苦笑しながら窓の外を見た。
黒幕の罠によって押し付けられた「辺境の全責任」。
しかしそれは結果として、トオルに数千人規模の領民と、広大な領地を合法的に与えることになり、ポポロ村を名実ともに『独立国家』へと押し上げる最大の起爆剤となってしまったのだ。
「さあ、定時だ。サウナに行きましょうか」
トオルの背中は、かつてないほどの頼もしさと、公僕としての揺るぎない自信に満ち溢れていた。
読んでいただきありがとうございます。
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