EP 24
皇帝のお忍び視察
ポポロ村の広場に新設された『役場』の総合窓口。
木製の長机が並べられ、難民から抜擢された女性スタッフたちが、村人からの相談や農具の貸し出し手続きをテキパキとこなしている。
「はい、防壁外の農地開拓の申請ですね。こちらの用紙に住所と氏名を……」
「トオル副村長! 浄水フィルターの清掃スケジュール、確認お願いします!」
活気はあるが、混乱はない。
明確なルールと分担によって回る行政システム。トオルはその窓口の一角で、持ち込まれるイレギュラーな相談の対応(スーパーバイザー業務)に当たっていた。
定時退社という至高の権利を手に入れた彼の顔は、過労死寸前だった数日前と比べ、見違えるほど血色が良かった。
「ふむ……。これが『ヤクバ』という名の統治機構か」
役場の入り口で、漆黒の外套を目深に被った初老の男が、興味深そうにその光景を観察していた。ルナミス帝国の第2代皇帝、マルクスである。
「平民が列を作り、暴力も賄賂もなく、紙切れ一枚で秩序立って動いている。我が帝都の役人ですら、ここまでの規律は持っておらんぞ」
「いかがいたしますか、陛下。あの窓口に座っている黒髪の男が、噂の『副村長トオル』のようですが」
護衛の騎士が小声で尋ねる。
「接触してみよう。私は旅の学者『マルク』だ。よいな」
マルクスは鷹のような鋭い眼光を外套の奥に隠し、静かにトオルの窓口へと歩み寄った。
「すまないが、少し尋ねたい」
「はい、いらっしゃいませ。どのようなご用件でしょうか?」
トオルは手元の書類から顔を上げ、営業用の――いや、市民対応用の完璧な公僕スマイルを浮かべた。
「私はマルク。諸国を巡る学者だ」
マルクスはトオルの目を真っ直ぐに見据えた。
「この村の噂を聞き、視察に来た。鉄と石の城壁、平らな街道。素晴らしい技術だ。……だが、どれほど強固な壁を作ろうと、所詮は点に過ぎない。もし一万の軍勢に村を完全に包囲され、兵糧攻めに遭えば、この村はいずれ飢えて自滅するのではないかな?」
それは、為政者としての純粋な軍事的指摘だった。
護衛の騎士が息を呑む。初対面の相手に、村の致命的な弱点を突きつけるような真似をすれば、警戒されるか怒りを買うのが当然だ。
だが、トオルは少しも嫌な顔をせず、むしろ「良い質問ですね」とばかりに頷いた。
「おっしゃる通りです。物理的な壁だけでは、包囲戦には勝てません。一番の敵は『飢え』と、それに伴う『パニック』です。だからこそ、村の防衛には『備蓄』が不可欠なんです」
「備蓄だと? だが、これだけ人口が急増しているのだ。穀倉地帯でもないこの村に、何ヶ月も籠城できるほどの食糧を保管する場所も、長期間腐らせない技術もあるまい」
マルクスの鋭い追及に、トオルは空中のステータス画面を密かに操作した。
現在の残高は10,160pt。第2段階のリストから、ある食品を選択する。
【高カロリー栄養バー(非常用圧縮食・30食分/5pt)を具現化しますか?】
――YES。
残高10,155pt。
トオルの手の中に、銀色のアルミフィルムで個包装された、手のひらサイズのブロック状の固形物が現れた。
「これを食べてみてください」
トオルは袋を開け、マルクスに差し出した。
「なんだ、この茶色い菓子は……?」
マルクスは警戒しつつも、学者という設定上、無碍にはできず一口かじった。
「……むっ!?」
マルクスの目が驚愕に見開かれた。
サクサクとしたクッキーのような食感。だが、噛み締めた瞬間に、チーズとチョコレートを混ぜ合わせたような暴力的なほどの濃厚な風味が口いっぱいに広がり、胃袋にズシンと重たい満足感が落ちたのだ。
「美味しいでしょう? 一本で約五百キロカロリー。ビタミンやミネラルも完璧に計算されて配合されています。これを一日三本食べるだけで、成人の一日に必要なエネルギーを完全に補給できるんです」
トオルは銀色のパッケージを指で弾いた。
「さらに、この特殊な包装のおかげで、常温で数年間は絶対に腐りません。かさばらないので、地下室の一角にダンボールを積んでおくだけで、村人全員が数ヶ月間生き延びるだけの『兵糧』を備蓄できる。兵糧攻めは、この村には通用しませんよ」
「……ッ!!」
マルクスの背筋に、氷を当てられたような戦慄が走った。
数年間腐らず、調理も不要で、たった数本で一日の活力を維持できる完全食。
これがもし、帝国の軍隊に大量配備されたらどうなるか。補給線という概念が根底から覆る。輜重部隊(兵糧を運ぶ部隊)は不要となり、軍の進軍速度は数倍に跳ね上がる。
これは単なる備蓄食ではない。戦争の在り方そのものを変革する、恐るべき『戦略兵器』だ。
「……君は、この恐ろしい価値を理解して配っているのか?」
マルクスは思わず声を震わせた。
「これほどの技術と知識があれば、君は王にでもなれる。それこそ、この大陸を統一する覇王にすら。……君の本当の目的は何だ? なぜ、この辺境の村でこんな真似をしている?」
皇帝としての威圧感が、無意識のうちに漏れ出していた。
護衛の騎士が剣の柄に手をかける。もしこの男が帝国への反逆を企てる野心家なら、ここで斬り捨てるつもりだった。
だが、トオルはきょとんとした顔で、マルクスを見つめ返した。
「覇王? 大陸統一? 冗談じゃないですよ。そんな責任の重いブラックな立場、絶対に嫌です」
「な、なに……?」
「俺の目的は、定時で帰って、サウナに入って、美味しいご飯を食べて、ふかふかのベッドで安心して眠ることです。でも、周りの人が飢えたり、病気で苦しんでいたら、俺も安心して眠れないじゃないですか」
トオルは、窓口の奥で笑顔で働く難民のスタッフたちを優しく見つめた。
「俺はただの公務員(裏方)です。困っている市民が駆け込める場所を作って、当たり前の日常を維持する。……それ以上の野心なんて、これっぽっちもありませんよ。マルクさん」
偽りなき、純度百パーセントの『公僕の理念』。
マルクスは、呆気に取られたようにトオルの顔を見つめ……やがて、肩を震わせて低く笑い始めた。
「クックック……ハハハハハッ!!」
皇帝の突然の大笑いに、護衛の騎士がギョッとする。
「王になる気はない、か! これほどの力を持ちながら、ただ民の平穏と自らの安眠を望むとは! 恐れ入った。君のような男は、私の長い人生で初めてだ」
マルクスは笑い涙を拭いながら、深く頷いた。
「疑って悪かった。君の理念、為政者として深く感銘を受けた。……この栄養バーの礼はいずれ必ずさせてもらおう」
「ええ、気をつけて旅を続けてくださいね」
トオルに見送られ、マルクスは役場を後にした。
村の外れに停めてあった馬車に乗り込むと、マルクスの顔から笑みが消え、冷徹な皇帝の顔に戻っていた。
「陛下……あの男、いかが思われましたか?」
「得体の知れぬ化け物かと思ったが……本質は、底抜けの善人であり、生粋の『奉仕者』だ。あの男に帝国を脅かす野心はない。私の目には狂いはない」
マルクスは外套を脱ぎ、窓の外のポポロ村を見つめた。
「だが……だからこそ恐ろしいのだ。あの男の『誰もが飢えず、安全に暮らせる』という絶対的なインフラは、周辺の領民から見れば『地上の楽園』に他ならない。野心がなくとも、人が集まり、経済が集まり、いずれ帝国の統治機構そのものを飲み込んでしまう」
王に野心がなくとも、民が彼を王にしてしまう。
哲人政治家であるマルクスは、ポポロ村という存在が、既存の封建制度に対する最大の毒になることを正確に見抜いていた。
「……監視を強化しろ。決して、他の貴族たちにあの村を妙な形で刺激させるな」
***
しかし、皇帝のその懸念は、すでに最悪の形で動き出そうとしていた。
ムーンキャピタルの暗部、仮面結社『ナンバーズ』の隠れ家。
暗い部屋の中で、豪奢な椅子に深く腰掛ける黒スーツの青年――リアク侯爵は、空中に展開された『未来予知』の盤面を見つめ、不快そうに舌打ちをした。
「……私の描いた未来図が、また書き換わった」
リアクの予知は、マルクス皇帝がポポロ村を視察し、トオルの理念を評価する未来を正確に映し出していた。
「皇帝陛下が自ら、あの村を保護するだと? くだらん。あの村の秩序と安寧は、私がこれからこの大陸に巻き起こそうとしている『美しい混沌』にとって最大のノイズだ。皇帝の庇護下に入る前に、社会的に完全に抹殺せねばなるまい」
リアクは冷酷な笑みを浮かべ、手元のチェスの駒――『商人』の形をした駒を指で弾き倒した。
「野心がないのなら、与えてやろう。……帝国法を犯す、大逆罪という名の濡れ衣をな」
皇帝との接触を無自覚に果たしたトオル。
だがその接触が引き金となり、大陸最高の知能と狂気を持つ黒幕が、ポポロ村を陥れるための凶悪な罠を本格的に発動させようとしていた。
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