EP 17
香水と下水道
白亜の宮殿、陽光を反射して輝くクリスタルの噴水、そして行き交う着飾った貴族たち。
月の女神カグヤの直轄領『ムーンキャピタル』は、一見するとおとぎ話から抜け出したような美しい都市だった。
――ただし、それは「視覚」だけの話である。
「うっ……! なんだこの臭い!」
馬車から降り立ったトオルは、思わず鼻と口をハンカチで覆った。
華やかな景観とは裏腹に、足元の豪奢な石畳の隙間や、美しい装飾が施された側溝には、処理されない汚水や排泄物がそのまま滞留していた。
さらに最悪なのは、その悪臭を誤魔化すために、街角に設置されたミスト発生器から『超高濃度マナ香水』が二十四時間絶え間なく散布されていることだ。
下水の強烈な腐敗臭と、甘ったるく暴力的な香水の匂いが1対1で混ざり合った、致死性のスメルハザード。現代日本の衛生環境を知るトオルにとっては、呼吸をすることすら苦行だった。
「ひどい……ポポロ村のガーリッ君の口臭のほうが、まだマシだよ……っ」
嗅覚の鋭い月兎族のキャルルは、長い兎耳を完全に折りたたみ、涙目でトオルの背中にしがみついている。
「アホか、だから言うたやろ。この街は見た目(PV)に全振りしすぎて、インフラのイの字もあれへんのや」
ニャングルだけは、鼻に特製の防臭フィルターを詰め込み、涼しい顔で羅宇煙管を吹かしていた。
三人が案内されたのは、ムーンキャピタルの中央に位置する巨大な円形闘技場を改装した『帝国公認・公開審査議事堂』だった。
すり鉢状の観客席には、ムーンキャピタルの貴族たちや、噂を聞きつけた商人たちがひしめき合っている。そして中央の豪奢な壇上には、たっぷりと香水を浴びたふくよかな男――ゲル伯爵が、不遜な笑みを浮かべて座っていた。
「よくぞ逃げずに来たな、ポポロ村の野蛮人ども」
ゲル伯爵が扇子を広げ、トオルたちを見下ろす。
「貴様らが流布している『石鹸』や『謎の黒い袋(ゴミ袋)』、そして『粉末入りの携帯便器』。あれらは我がムーンキャピタルの洗練された香水文化を侮辱し、市場の秩序を破壊する危険物である! 本日の審査において、貴様らの行為を帝国法に基づく『市場攪乱罪』および『異端物品持込罪』として断罪する!」
観客席の貴族たちから、伯爵に同調する野次が飛ぶ。
「そうだ! あんな白い石ころ(石鹸)で香水に勝てるわけがない!」
「我々の高貴な香りを否定する気か!」
完全にアウェーの状況。だが、トオルの表情に焦りはなかった。
「ゲル伯爵。あなたの主張は、『香水が悪臭を消す』という前提に基づいていますね」
「当然だ! 我が特級香水こそが、この美しい街の空気を清浄に保っているのだ!」
「いいえ。あなたは臭いを『上塗り』しているだけで、悪臭の『原因』を何一つ解決していない。だからこの街は、こんなにも酷い悪臭に満ちている」
トオルの静かで通る声が、議事堂に響き渡った。
「な、なんだと……!」
「街に下水網を作らず、汚物を側溝に垂れ流しにする。それが伝染病の温床になり、人々の命を脅かす。俺が村に配ったのは、その根本的な原因を取り除くための『公衆衛生』の道具です。これを市場攪乱と呼ぶのは、あまりにも非論理的だ」
「黙れ、平民が! 貴様の戯言など、帝国法廷では通用せん! 帝国商法によれば、正式なギルドの許可なき新商品の流通は違法……」
ゲル伯爵が分厚い法律書を盾に圧力をかけようとした、その時。
トオルは空中のステータス画面を開き、静かに『公共事業』のスキルを発動した。
【『近代法規集(抜粋版・帝国法解釈付き)』(30pt)を具現化しますか?】
――YES。
現在の残高は6,627pt。
トオルの手に、ズシリと重い近代法学の集大成が現れた。
彼はその本をニャングルに手渡した。事前にポポロ村でネギオと読み合わせ、異世界の法律との互換性や抜け穴を完璧にチェックし、付箋を貼り付けた無敵の法務兵器だ。
「出番ですよ、ニャングルさん」
「カッカッカ! 待ってましたでぇ!」
ニャングルは前に進み出ると、魔導金算盤『十露盤』をチャキッと鳴らし、法規集を開いた。
「ええか、アホ伯爵。帝国商法第42条には確かにギルドの許可について書かれとる。せやけどな、同じく第48条『緊急時の衛生・人道物資に関する特例』を見落としとるんやないか?」
「なっ……! そ、それは……」
「ポポロ村は先日、難民の流入と病原菌のテロによってパンデミックの危機にあった。トオルが出した石鹸も携帯トイレも、すべて『人道的危機の回避』を目的とした緊急支援物資や! 帝国法は、これを違法とは認めんのやで!」
ニャングルは法規集のページを叩きながら、さらに畳み掛ける。
「おまけにな、この『公衆衛生』という概念。悪臭と病魔の根源を物理的に封じ込める技術や。お前らの香水は、ただの『嗜好品』やろ? 命を守るインフラと、ただの飾り。どっちが社会にとって有用か、帝国の法律が分からんほど節穴やと思うか!」
完璧な論破。
ゲル伯爵は額に脂汗を浮かべ、反論の言葉を見つけられずに口をパクパクとさせている。
「ば、馬鹿な……。たかが農村の流れ者が、これほど完璧に帝国法を熟知しているなど……! ええい、ならば経済力だ! 我が香水産業は、このムーンキャピタルの数千人の職人の雇用を支えているのだ! 貴様らの安価な道具が普及すれば、大量の失業者が出るぞ!」
伯爵の最後の切り札。それは「雇用を守る」という、支配者としての経済的合理性だった。
だが、トオルはそれすらも予測していた。
「雇用なら、俺が新しく作りますよ」
「……なに?」
「香水を作る職人たちの技術は、液体の調合や精製に長けているはずだ。だったら、俺たちの作る『石鹸』や『衛生用品』の生産ラインに加わってもらえばいい」
トオルは真っ直ぐに伯爵を見据えた。
「臭いを誤魔化すだけの香水は、一部の貴族しか買えません。でも、命を守るための衛生用品は、大陸中のすべての人間が必要とします。市場の規模が根本的に違うんです」
ニャングルがニヤリと笑い、トオルの言葉を金銭に翻訳する。
「ゴルド商会が、ポポロ村の衛生用品の流通を独占する。その製造拠点として、このムーンキャピタルの職人たちを現在の給与の1.5倍で迎え入れたるわ。どうや、伯爵はん? 時代遅れの香水利権にしがみついて街ごと沈むか、新しいインフラ事業に乗っかって莫大な利益のおこぼれに与るか、選ばんかい!」
観客席がどよめいた。
香水商たちや貴族の間で、そろばんを弾く音が鳴り響く。
「1.5倍の給与だと……!?」
「確かに、下水臭い街に住み続けるより、清潔で儲かる商売に乗り換えた方が……」
民衆と市場の心が、完全にトオルたちの方へ傾いた瞬間だった。
「お、おのれ……! おのれぇええっ!!」
ゲル伯爵は崩れ落ちるように椅子に座り込み、頭を抱えた。
彼の香水利権は、物理的な暴力ではなく、圧倒的な「法」と「経済」の正論によって、完膚なきまでに叩き潰されたのだ。
ピロンッ♪
【公開審査にて衛生インフラの正当性を証明し、既存の悪徳利権を論破しました。】
【法務および経済防衛の多大な貢献により、貢献度ポイント +800pt を獲得しました。】
【現在の残高:7,427pt】
歓声に包まれる議事堂の中央で、トオルは小さく息を吐いた。
「やったね、トオル君!」
キャルルが嬉しそうに兎耳を跳ねさせ、トオルの腕に抱きつく。
「ええ。これでポポロ村は、誰にも邪魔されずにインフラ整備を進められます」
「カッカッカ! 痛快やな! やっぱりトオルと組んだワシの目に狂いはなかったわ!」
ニャングルがキセルを吹かしながら、観客席の貴族たちに向けて、これ以上ないほどの『ドヤ顔』を見せつけている。ゴルド商会としても、新たな莫大な市場を切り開いた歴史的瞬間だった。
――しかし。
歓喜に沸く議事堂の最上階のVIP席から、その様子を冷ややかに見下ろす一人の男がいた。
仕立ての良い黒のスーツを纏い、冷淡な美貌を持つ痩身の青年貴族。ルナミス帝国のアルバード侯爵家当主であり、仮面結社『ナンバーズ』の首領――リアク(ゼロ)である。
「……面白い」
リアクは手元のチェスの駒を転がしながら、冷たい瞳でトオルを見つめた。
「私の『未来予知』の盤上に、突如として現れたイレギュラー。あの小綺麗なインフラとやらがもたらす『秩序』は、私が描く混乱と支配のシナリオにとって、極めて目障りなノイズだ」
リアクの口角が、残酷に吊り上がる。
「ゲル伯爵のような小者では相手にならんか。良いだろう……ならば私が、あの村の希望ごと、合法的にすり潰してやろう」
ムーンキャピタルでの勝利は、ポポロ村に莫大な経済的自由をもたらした。
しかし同時に、大陸の暗部を支配する真の黒幕の視線を、決定的に引き寄せることとなったのだ。
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