EP 15
見えない脅威
ポポロ村の広場に設営された難民用のテント村は、平穏を取り戻しつつあった。
ニャングルが手配した食糧と、トオルが支給したエマージェンシーシートのおかげで、寒さと飢えの危機は脱した。難民たちは少しずつ体力を回復し、村の農作業を手伝う者の姿も増えてきている。
だが、その平穏は、朝の静寂を引き裂く悲鳴によって脆くも崩れ去った。
「誰か! うちの人が、急に倒れて……っ!」
広場の隅のテントから、血相を変えた女性が飛び出してきた。
トオルが駆けつけると、テントの中では中年男性が腹を抱えてうずくまり、激しく嘔吐していた。顔は土気色になり、額からは滝のような汗が流れている。
「酷い熱だ……それに、ひどい下痢と嘔吐を繰り返している」
トオルが脈をとると、異常な速さで鼓動を打っていた。単なる風邪や食あたりではない。
「あっちのテントでも子供が倒れたぞ!」
「こっちもだ! 昨日の夜から急に熱が……!」
次々と上がる悲鳴。見れば、難民キャンプのあちこちで、似たような症状を訴える者が同時多発的に発生していた。
「トオル君!」
兎耳をパタパタと揺らしながら、キャルルが救急キットを抱えて走ってきた。
「すぐに治癒魔法をかけるね! ハァアアッ……!」
キャルルの手が銀白色の光を放ち、倒れた男性の胸に注がれる。男性の顔に少しだけ血色が戻ったが、根本的な熱が引く様子はない。
「駄目だ……症状を抑えることはできても、体内に入り込んだ『病魔』の増殖が早すぎる! 私の魔力じゃ、全員はとてもカバーしきれない……っ!」
キャルルがフラッとよろけ、トオルが慌ててその体を支えた。
「村長が危ない! どけっ、病魔に憑かれた者たちよ!」
遅れてやってきたマンミアが、シールド『アグニ』を構えながら怒鳴り込んできた。
「これほどの数が同時に発病するなど、異常事態だ! 悪霊か、森の瘴気の仕業に違いない。感染を防ぐため、病の者を村の外へ物理的に隔離するか、最悪の場合は……私のパイルバンカーで苦しみを終わらせるしか……!」
「やめてください! 暴走しないで!」
トオルはシールドの前に立ちはだかり、マンミアを力一杯押し留めた。
(なんでこの村の人間は、パンデミックをパイルバンカーで解決しようとするんだ!)
トオルは深呼吸をして、冷静に状況を分析した。
高熱、激しい嘔吐、下痢。そしてこの驚異的な感染スピード。
前世でインフラと福祉を担当していた彼には、この症状に心当たりがあった。これは赤痢やコレラのような、水を介して広がる重篤な消化器系感染症だ。
「……自然発生じゃない。誰かが意図的に、病原菌を村に持ち込んだんだ」
トオルの脳裏に、先日追い返した香水商とゲル伯爵の顔がよぎる。物流を止め、難民を送りつけ、それでも村が持ちこたえたことに対する、次なる嫌がらせ――いや、明確な『生物兵器テロ』だ。
ピリリリリリッ!
その時、トオルの脳内に不快な電子音が鳴り響いた。
嫌な予感とともに通信インターフェースを開くと、案の定、あの女だった。
『ヤッホー、トオル! なんかそっち、パンデミック・イベント発生してんね!』
「ルチアナ……お前、見ているなら神の奇跡でどうにかしろよ!」
『いやいや、病気とか自然の摂理だし? 私が直接手出しするとルール違反で怒られるしー。あ、でもね、神界の定番テクニック教えてあげる! 大洪水! 大洪水を起こして村ごとドバーッと洗い流せば、病原菌も全部海に流れて解決っしょ! 今なら特別に、5万ポイントで洪水起こしてあげるけど?』
「……村ごと流されて全滅するだろ。二度と電話してくるな!」
トオルは即座に着信拒否ボタンを押し、通信を物理的にシャットアウトした。神に頼って村が滅んでは元も子もない。
(魔法に頼らず、感染症を食い止める。人類が長い歴史の中で培ってきた『防疫』の力を見せてやる)
トオルは空中のステータス画面を展開した。
現在の残高は5,837pt。
知識カテゴリと衛生カテゴリから、必要なアイテムを素早く選択する。
【『衛生管理ガイドライン(感染症対策マニュアル)』(30pt)を具現化しますか?】
【携帯トイレ(凝固剤・防臭袋付き50回分セット)×5箱(20pt)を具現化しますか?】
――YES!
残高5,787pt。
トオルの両手に分厚いバインダーが現れ、足元にはダンボール箱が山のように積み上げられた。
「マンミアさん! パイルバンカーはしまって、今すぐ俺の指示通りに動いてください! これは戦争です。目に見えない敵との、衛生防衛戦だ!」
トオルのかつてない気迫に、マンミアがゴクリと息を呑んで頷いた。
「まず『ゾーニング(区画分け)』を行います! 広場のテントを、感染者用のレッドゾーンと、健康な人のグリーンゾーンに完全に分けてください! テント間の移動は厳禁です!」
トオルはマニュアルを広げながら、自警団に矢継ぎ早に指示を飛ばす。
「それから、これが一番重要です。この病気の原因は、排泄物に含まれる菌が水や手肌を通じて口に入ることです。絶対に、その辺の茂みや川で用を足さないでください!」
中世レベルのファンタジー世界において、公衆衛生の概念は極めて低い。排泄物は川に流すか、穴を掘って埋めるのが常識だ。だが、それでは地下水が汚染され、パンデミックは無限に拡大していく。
「トオル、では排泄はどうすればいいのだ?」
「これを使います」
トオルはダンボールから、折りたたみ式の便座と、黒いビニール袋、そして白い粉末の入った小袋を取り出した。
「『携帯トイレ』です。便座にこの黒い袋をセットして用を足し、その上からこの白い粉――吸水ポリマーと消臭殺菌剤の混ざった凝固剤を振りかけます。すると、汚物は一瞬で固まり、菌も悪臭も完全に封じ込められます。あとは袋の口をしっかり縛って、俺が前に出したゴミ袋に密封するだけです」
「汚物を……一瞬で固めて封印する魔導粉だと!?」
「ただの高分子吸収ポリマーです。とにかく、感染者のテントにはこれを一つずつ配置してください。排泄物は絶対に外部に漏らさないこと!」
トオルの指示の下、村人たちは総出で防疫体制を敷いた。
トオルが以前配った『固形石鹸』と『消毒用アルコール』による手洗いの徹底。
水はすべて『携帯浄水フィルター』を通した上で、必ず煮沸してから『経口補水液』を溶かして飲ませる。
魔法による一撃必殺の治療ではない。
しかし、人類が何百年もかけて築き上げた『公衆衛生』のガイドラインは、目に見えない病魔の増殖ルートを物理的かつ完全に断ち切っていった。
***
三日後。
ポポロ村の広場は、すっかり平穏を取り戻していた。
徹底した隔離と衛生管理により、新たな感染者はゼロ。初期に感染した難民たちも、経口補水液による水分補給と休養により、全員が峠を越えて回復へと向かっていた。
「すごい……本当に、一人も死なせずに病気を止めちゃった」
キャルルが信じられないというように、空っぽになった隔離テントを見つめている。
「病気は、魔法の呪いじゃありません。正しい知識と清潔な環境があれば、必ず防げるんです」
トオルが疲れた顔で微笑むと、キャルルはギュッとトオルの腕に抱きついた。
「トオル君って、やっぱり私の運命の人だね! 病める時も健やかなる時も、ずっと私を支えてくれるもんねっ♡ あぁ、もう村長権限で婚姻届の書式作っちゃおうかな……!」
「飛躍しすぎです! やめてください!」
トオルが冷や汗を流して腕を引き抜こうとした時、ネギオが伊達メガネを光らせながら近づいてきた。
その手には、泥に塗れた布包みが握られている。
「……三流公務員。お前の読み通りだったぞ」
ネギオは布包みを地面にドサリと落とした。中から現れたのは、腐敗してドロドロになった魔獣の死肉だった。強烈な悪臭が漂う。
「なんだ、これは?」
「村の東側、地下水脈が流れ込む水源の近くに、意図的に埋められていた。死蟲機の残骸に、悪性の感染症を持った魔獣の血肉を混ぜ合わせた『細菌兵器』だ。これを仕込んだ奴は、村の全滅を狙っていたに違いない」
「……ゲル伯爵か」
トオルの声が低くなる。
香水商の追放、物流の停止、難民の押し付け。それらをすべて『公共事業』の力で撥ね退けられた伯爵が、ついに直接的な村の抹殺に動いたのだ。
ピロンッ♪
【生物兵器テロによるパンデミックを阻止し、村の完全浄化を達成しました。】
【公衆衛生防衛の多大な貢献により、貢献度ポイント +500pt を獲得しました。】
【現在の残高:6,287pt】
ポイントの通知音が鳴った直後、村の入り口から仰々しいラッパの音が響き渡った。
白馬に引かれた豪華な装飾馬車が、広場の中央に止まる。降りてきたのは、ムーンキャピタルの紋章を掲げた使者だった。
「ポポロ村の副村長、トオルとやらだな! ゲル伯爵様からの正式な通達である!」
使者は羊皮紙の巻物を広げ、村人たちを見下ろすように高らかに読み上げた。
「『貴村が流布している出所不明の怪しげな薬や道具は、周辺地域の市場と秩序を著しく乱す危険物である。よって三日後、ムーンキャピタルにおいて、帝国法に基づく【公開審査】を執り行う。これに出頭し、正当性を証明できぬ場合は、ポポロ村の自治権を剥奪し、全物資を差し押さえるものとする』――以上だ!」
広場が静まり返る。
病原菌による暗殺が失敗したと見るや、今度は権力と法を振りかざして、公の場でトオルを潰しに来たのだ。
「フザけるな! 自分たちで毒をばら撒いておいて、どの口が言っている!」
マンミアが怒りに任せて前に出ようとするのを、トオルは静かに手で制した。
「……分かりました。公開審査、受けて立ちます」
トオルは使者を真っ直ぐに見据えた。
「その代わり、俺たちの道具の正当性が証明された暁には、二度とこの村に手出しはさせません」
「フンッ。平民のガラクタが、伯爵様の特級香水と権威に勝てると思うなよ」
使者は嘲笑いながら馬車に乗り込み、去っていった。
「トオル君……いいの? 敵の懐に飛び込むなんて」
不安そうに見上げるキャルルに、トオルは力強く頷いた。
「このまま引きこもっていても、嫌がらせはエスカレートするだけです。相手が『審査』という公の場を用意してくれたなら、好都合だ」
トオルは空中のステータス画面を睨みつけた。
彼の武器は、剣でも魔法でもない。現代社会が何百年もかけて積み上げてきた、圧倒的で合理的で、絶対に覆せない『インフラの真理』だ。
「ムーンキャピタルの香水利権を、根底からへし折ってやりますよ」
過労死公務員の静かな怒りが、次なる反撃の狼煙を上げようとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
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