56.未来へ続く道
相変わらず教皇国やヴェネチアとの戦争は続いていたけれど、この一ヶ月ほどは小競り合い程度に落ち着いていた。今夜は恒例の政策論議を終え、ソファで寛ぎ、殿下と雑談を楽しんでいた。
「ルクレツィア、これを」
そう言って躊躇いがちに差し出されたのは指輪だった。殿下の瞳、焦げ茶色の大きなタイガーアイ。金の土台にはエステ家の紋章、鷲の羽が彫られている。
「まあ!嵌めてみてもよろしくて?」
「…俺の色だとこんな地味な指輪になってしまって…わるい、やはり別の石にしよう」
眉を八の字に下げて謝られる殿下がたまらなく愛おしい。
「何を仰るの?映えますわよ?ほら」
左手の薬指に嵌め、手をろうそくの炎に翳して見せると、光を反射してゆらゆらと色味を変えながら輝く。
「ね?とても美しいわ!ありがとうございます、殿下」
途端に満面の笑顔を咲かせる殿下。まるでひまわりのように輝かしい笑顔。五歳の頃の私に勝るとも劣らない、無邪気な喜びを全身で表現してくれている。ああ、愛おしい。
「そ、そうか。良かった!光にかざすと色味が変わるんだ。君の瞳のようだと思って…」
「まあ!この指輪は殿下と私、二人の瞳ですわね!…もしかしてこの彫刻…」
「うん、俺が彫った。我が家の紋章に俺の瞳。まごうことなきフェラーラの公妃だと世に示したくて」
「…殿下」
嬉しい…。殿下の優しい愛がじわじわと沁みてくる。どうにか殿下に心を返したくて立ち上がり、座ったままの殿下の頭をそっと抱き締めた。
改めて、感謝と愛を囁こうとしたその時、アレッサンドロがノックの返事も待たずに入ってきた。
「そういうところですわよ、アレッサンドロ様。今いいところでしたのに」
気配を消し、部屋の隅にずっと控えていたアンジェラが彼を責める。
「そうは言ってもやな、急報やで仕方ないやん。殿下、公妃殿下。ジュリアーノ教皇が亡くなりました。教皇選出会議はまだですが、新教皇はジョヴァンニ枢機卿に決まるでしょう」
チャンスだ!この機を逃してはいけない!
「殿下、ともにローマに向かいましょう。ジョヴァンニ様に直接会って機先を制すのです」
案の定、大反対された。なにせ、子がお腹にいるのだ。通常なら私だって行かない。ローマまでの馬車旅、流行病、暗殺など、子を害すリスクは数知れない。でも行かなければ。ボルジアの血がそう言っている。
交渉なら、殿下が十二分にやってくださるだろう。でもボルジアである私は最大の武器だ。
「子も大切ですが、民も大切です。この機にフェラーラを攻める口実を断つのです」
最後は皆、折れてくれた。ローマへの道すがら、殿下は、在りし日のお兄様にも負けないほど、甘やかしと心配のし通しだったけれど、何しろ朝起きてから夜寝るまで、眠っている間もずっと殿下と一緒なのだ。三ヶ月不在だった間を埋めるような濃密な蜜月の二週間だった。あら、これから敵地に向かうのに不謹慎かしら? でもいいわ。今はひたすら殿下との時間を大切にしよう。
「ルクレツィア、では手筈どおり進めるぞ。無理するなよ」
私達はジョヴァンニ様の教皇就任を祝う夜会に来ていた。気遣ってくれる殿下に深く頷きながら、社交という名の戦いに向かう。
「フェラーラ公爵殿下、及び公妃殿下のご入場です!」
『…まあ!ルクレツィア様だわ…』
『美しい…まるで聖母のようだ』
『本当に!絵画から抜け出たようですわ…!』
『いっそ神々しい…実際、教会や民への支援で、善良な公妃と呼ばれているそうだぞ』
私はこの日、宝石で染めたウルトラマリンの衣装を選んだ。派手な刺繍は控えめに。コルセットを着けず、この二ヶ月で急に膨らみ始めたお腹をありのまま見せる。 豊かなフェラーラの国主夫人らしく豪奢な気高さを誇示しながらも、薬指のタイガーアイが柔らかさと落ち着きを演出してくれる。
「ごきげんよう、ジョヴァンニ教皇猊下」
目当ての人物が現れた。蛙を見つけた蛇のように、なんとも嫌な微笑みとともに。
「新教皇ご就任、誠におめでとうございます」
「ありがとう、ルクレツィア殿。夫君のフェラーラ公はどこへ?大切な話があるのだが」
目線を殿下の方向にやる。殿下はファブリツィオ将軍やヴィットリア様、ミランドラ女伯爵、弟のイッポーリト枢機卿など、前教皇の一連のやり口に反発していた者たちと歓談していた。
「ええ、あそこに。すぐご挨拶に参りますわ。皆様、夫のフェラーラ帰還を心から喜んでくださっていますの。ありがたいことですわね」
目線をジョヴァンニ教皇に戻し、真っ直ぐに彼を見据える。
(前教皇と同じ手で、フェラーラを攻めようとしても無駄よ。今回のことで、イタリア内外の貴族達が警戒を増し、フェラーラの味方が増えたもの)
「それだけではありませんわ。古い知己のあなた様が教皇になられて、本当に心強うございます」
ジョヴァンニ教皇が口を開きかける直前に畳み掛ける。言葉は遮らない、不敬罪になぞ問わせてなるものか。
私は、蛇に狙いを定めた鷲のようにジョヴァンニ教皇を見つめる。殺気は殿方だけのものではない。腕力はなくとも、女が男を狩ることはできるのだ。
「なにしろ、兄からいろいろと聞いておりますの。ジョヴァンニ様は必ず私を助けてくださるだろう、とも」
最後に口角を上げて微笑んでみせる。
(怖いでしょう?だって、私はボルジアの娘だもの。私は負けない。私にあるのは勝利、最悪でも相討ちよ。その覚悟があなたにあるかしら?)
ジョヴァンニ教皇の瞳が、一瞬だけ、恐怖に揺れた。——効いた。
蛇の立派な鎌首が哀れに垂れ下がり、恐怖に目を見開いたジョヴァンニ教皇が体勢を立て直す前に、殿下がやって来た。
「ジョヴァンニ教皇、ご就任おめでとうございます」
「…あ、ああ。ありがとう、フェラーラ公…」
「ジョヴァンニ教皇、夫にご用があったのでは?」
「…あ、ああ…それはもう良い。今後もよろしく頼みます。では、私はこれにて」
はっと我に返ったジョヴァンニ教皇は口早にそれだけ言うと、くるりと反転してどこかへ逃げてしまった。
「ルクレツィア、義兄上から何を聞いたというのだ?」
「何も」
殿下が目を剥いた。
「何も聞いておりませんわ。ただ、あの方が兄の影を怖がってくださるだけ。……ブラフですわ」
「……君は、本当に」
「ええ。ボルジアですもの」
「いつまで効くだろうな」
「私が笑っている間は、でしょうね」
殿下と二人、ひっそりと笑い合っていると、教皇に付き従っていたはずのアルフォンソ枢機卿が戻ってきてくださった。
「お久しぶりですね、フェラーラ公爵殿下、公妃殿下」
昔懐かしい、柔らかな笑顔のアルフォンソ様の視線が一瞬、私の新しい指輪に落ち、止まった。彼の左手には、私の髪色、トパーズの指輪が燦然と輝いている。
「以前にも増して仲睦まじいご様子ですね。喜ばしいことです」
心からの祝福。胸がじん、と暖かくなった。道は違えてしまったけれど、私達は違うステージで、それぞれが自身の足でちゃんと立っている。そのことがたまらなく誇らしかった。
「ああ、君も元気そうで何よりだ」
「そうでもありませんよ。ここだけの話、ジョヴァンニ教皇は人使いが荒くてね」
「まあ。お身体に気をつけて、ご無理なさらないでね」
「ありがとうございます、公妃殿下。お子が生まれるのですね」
「今度の早春の予定だ。無事に生まれるよう祈ってくれるか?」
「ええ、喜んで。では、私はこれで。公妃殿下が虐めるものだから、向こうで教皇が睨んでいますよ」
「まあ、ひどいわ。私はただお喜び申し上げただけですのに」
アルフォンソ様は感慨深げに微笑んだ。アルフォンソ様、私は大丈夫よ。
「お強くなられて…安心しました。どうぞお幸せに。あなたの幸せが未来永劫続くことを、心から願っています。…それでは、また。お元気で」
そして去っていった。またお会いすることがあるだろうか?いいえ、会うことがあるとすれば、それはフェラーラが再び危機に陥ったとき。会わないことが平穏の証とは、なんて皮肉なのだろう。感傷に浸っていると、賑やかな声が、私を現実に引き戻した。
「やあ、ルクレツィア殿!」
「お兄様、お久しぶりね!」
フランチェスコ公とイザベラ様だった。
「お兄様、ご無事で良かったわ!それに子も生まれるのね!ルクレツィア、エステ家の血筋を繋いでくれてありがとう。今回だけは礼を言うわ…今回だけよ!」
「イザベラ、お前は…いい加減ルクレツィアと仲良くできないのか?」
通常運転のイザベラ様を、呆れ顔でたしなめる殿下。
「兄上、お子の名は考えているのですか?」
イッポーリト枢機卿も会話に入ってきた。相変わらずアンジェラをちらちら見ている。
「ああ、もう考えてある。聞きたいか?」
「まだ男女どちらかも分かりませんのに?」
「二つとも考えたんだ。男ならエルコレ。女ならエラ。エラはエルコレの女性名だ。父上の名を、そのまま受け継いでもらう」
ほぅっと皆が声を上げる。
「素敵だわ、お兄様!どちらもお父様の名ね!」
「良い名でござる!イザベラ、甥か姪に大玉おばさんと呼ばせてはどうかな?」
「まっ!それも良いわね!」
「兄上、私の名もつけてください!父上ばかりずるいですよ」
「そう言うな、イッポーリト。お前の名は次の子に取っておく」
「お兄様、気が早いわよ!」
あはは、うふふ。温かい家族の会話と笑いに心が和む。
「ルクレツィア、ずっと黙っているが、どうした?」
「…家族って良いものですわね。こんな家庭を、殿下と築いていきたい」
ボルジアの家では、お兄様と二人きりだった。排他的で甘い二人だけの世界。あれはあれで幸せだったと、今では思える。
けれど、これからは違う。フェラーラで、殿下と二人、新しい家庭を作るのだ。戦友であり、最愛の人。さぞや面白い家族になるだろう。
「殿下、良い名をありがとうございます」
男の子ならエルコレ。さぞかし勇猛果敢な武人に育つだろう。女の子ならエラ。名のとおり可憐に育ってほしい。
「この名なら、男でも女でもエルと呼んであげられるだろう?今まで『おい、赤ん坊!』としか呼べず不便だったんだ」
クシャっと笑う殿下に、子煩悩な一面を発見して嬉しくなる。
「エル、良かったわね。お父様が愛称まで付けてくださったわよ……本当に良い名ですわ」
「うん。この名は、我がフェラーラの過去と現在、そして未来を繋ぐ名だ。俺達が築く現在を、エルに、未来に繋いでいくのだ」
私達の前には道が続いている。道の先は、まだ暗い。ジョヴァンニ教皇も、ヴェネチアも、いつかまた牙を剥くだろう。
けれど、私の薬指には、小さな灯がゆらゆらと揺れている。ひとりではない灯だ。
さあ行きましょう、私の最愛の人。私の、最高の戦友。




