53.帰還
「殿下! ご無事でのご帰還、本当におめでとうございます!」
「フェラーラ公爵殿下、ばんざーーいっ!」
街が歓声に溢れていた。久しぶりの民の熱狂に、張り詰め続けていた緊張の糸が一気に解けていく。
殿下がローマに旅立ってから三ヶ月——戦時にもかかわらずフェラーラを富ませ、私財をなげうって貧しい民を救済し続ける私は『善良な公妃』と呼ばれるようになった。
そんな毎日のなかで、小さなろうそくの灯のような殿下への想いが、いつからか私を温めてくれるようになった。かがり火のように明るくはない、熱くもない。炎が爆ぜることもない。ただ、ほんのりとそこにあるだけの小さな灯火。
「殿下のご到着です!」
ああ、やっと…!
私は迷わず、殿下の胸に飛び込んだ。今こそ、殿下に愛を誓おう!…そして、お兄様とも語り合おう。新しいボルジアをお兄様と作っていこう!明るい未来の予感に心が踊る。
「お帰りなさいませ、殿下。…良かった…ご無事で、本当に」
「ただいま、ルクレツィア。心配をかけたな。……少し顔色が優れないようだ。大丈夫か?」
「ええ、最近、少しばかり忙しかったものですから」
安心したようにそっと私を抱き寄せる殿下の横では、アレッサンドロとアンジェラが賑やかに再会を喜び合っている。 私は話しながら、さりげなく周りを見回し、お兄様を探したけれど——どこにも姿はなかった。
(…まさか……!いいえ、そんな訳はないわ!お兄様はお強いもの!)
心を決めて、私の髪を撫で続ける殿下に問いかけた。
「殿下。あの……兄は……? ヴィットリア様から、兄が殿下の護衛をしていると伺いましたが……」
時候の挨拶でもするように、何気ない風を装う。けれど同時に、不安で頬が引き攣るのを感じる。
「チェーザレ殿……義兄上は、もう……俺を救うために……。すまん、ルクレツィア…連れて帰れなかった」
(…ああ、やっぱり……)
私は気付かれないように俯き、深く、深く息を吸い込み、長い時間をかけてそれを吐き出した。そして——『気高き公妃』の仮面を着ける。
「……兄は、どのような最期だったのかお聞かせくださいますか? ……兄の帰りを待っているサンシアお義姉様に、お伝えして差し上げたいわ」
私の部屋で、殿下はお兄様との短い邂逅を聞かせてくださった。
最初は嫌な奴だと思ったこと。無口すぎて弱ったが、娘の話になると途端に饒舌になったこと。そして、最後に「義兄上」と呼んだこと。
その情景が目に浮かび、呆れたり笑ったりした…まだ大丈夫だ、泣いたりしない。一言だって聞き漏らすものか…!
「……君に謝っていた。『俺の都合でボルジアに縛り付けて悪かった』と」
「兄が、謝る?私に…?……いいえ、許しを請うのは私の方ですわ。兄に笑いかける度に、私が兄を縛り付けたのですから。それなのに、私は兄から逃げ回り…謝る機会はもう二度とない…」
声を震わせる私に、殿下は優しく諭してくださった。
「許す許さないの話じゃない。義兄上は、君に謝りたかっただけだ。……あの人は最後まで、君の兄でいたかったんだと思う。それにな、娘の名を、君と君の母君から付けていた。ルイーザだ。『ルクレツィア』と『ヴァノッツァ』から取ったんだ」
私とお母様の名を、お兄様が娘に。もう顔もおぼろげな母だけれど、お兄様と二人、政略の駒になる前に幸福だった頃のかすかな記憶。 ふふっ、嫌だわ。考えることは一緒ね、お兄様? 新しいボルジアを作っていこうと、娘の名で示してくださったのね。完敗だわ、お兄様。
「それと……亡くなってから気づいたんだが……」
お兄様は右手に剣を持ち、左手を胸元で握りしめていたそうだ。
その指を解くと、そこにあったのはロケットペンダントだった。もう腕を上げる力すら残っていなかったはずなのに、お兄様は息絶えてからも、娘からの、最初で最後の贈り物を大切に固く抱き締めていたのだ。
「これを……サンシア殿に届けてやってくれ」
「……はい。殿下、詳しくお話しくださり本当にありがとうございました。……申し訳ありませんが……今日はもう、休ませていただいてもよろしいでしょうか?」
「ああ……ゆっくりと休むといい」
殿下は私をそっと抱き締め、背中をぽん、ぽんと叩いてから部屋を出て行った。
扉が閉まった、その瞬間——。
もう駄目だった。抑えていた感情が決壊し、私はついに声をあげて泣き叫んでしまった。
扉の向こうで、殿下の足音が止まる気配がした。しばらくして、静かに遠ざかっていく。……泣いていいのだと、許された気がした。
勝ち逃げなんてずるいわ、お兄様!小さな頃からふやけた笑顔で甘やかしてくださったお兄様。私の為なら、世界をも敵にまわす頼もしいお兄様。ボルジアの死神と恐れられた冷酷なお兄様。
いろんなお兄様の顔が浮かんでは消える。最後に浮かんだのは、娘を慈しむお兄様。見たことのない顔のはずなのに、やけにはっきりと見える。ああ、そのお顔を直接見たかったわ、お兄様。
それに、殿下が仰っていた。娘の笑顔が私にそっくりだと、嬉しそうに言っていたと。私の笑顔は、お兄様を縛りつけただけではなかったのかもしれない。最後まで、その笑顔を愛してくださっていたのだ。
ひとしきり泣いたあと、私は机に向かいペンを取った。お兄様の想いを知らなければならない人がいる。
一晩かかって手紙を書き上げた私は、不意に立ちくらみを起こし、ベッドの住人になっていた。診察を終えた侍医が微笑んで軽く頷いた。
「間違いありません」
侍医の言葉に、思わず手が下腹に伸びた。お兄様を失った翌朝に、新しい命を知るなんて。命とは、こうして巡っていくものなのかもしれない。
そこへ青褪めた殿下が駆け込むなり、侍医を怒鳴りつけた。
「おいっ! 笑っている場合ではない!ルクレツィアはどうなのだ!?」
侍医は殿下の剣幕を意に介さず、飄々と答えた。
「ご懐妊にございます」
「……は……?」
「ご懐妊にございます! 本当におめでとうございます、殿下……!」
呆けた顔に徐々に血が巡り、喜びと驚きがいきなり爆発し、殿下は力いっぱい私を抱きすくめる。
「良かった……! 病でなくて、本当によかった……ッ! 何か欲しいものはないか? ああ、神よ、感謝します……! ルクレツィア、これからは俺も側にいる! 一人きりで頑張らなくていい、もう無理をするな……! 愛している、ルクレツィア……!」
ああ、良かった。喜んでくださっている。殿下が初めて見せる、激しい感情に少し驚きながらも、ほっと胸を撫で下ろす。 でも、喜びの渦に飲まれて、うやむやにしてはいけない。今こそお伝えしなければ。殿下の胸を両手でそっと押し返した。
「わるい、ルクレツィア……苦しかったか?」
慌てて身体を離す殿下に、私はかぶりを振り、殿下の頬をふわっと撫でた。
「殿下……。改めて、お礼申し上げます。激しい愛憎しか知らなかった私を、穏やかな愛で包んでくださって。私が答えを出せるまで、ずっと待っていてくださって。そして新しい命を授けてくださって」
何故だろう、涙が浮かぶ。真っすぐ殿下を見上げ、言葉を紡ぐ。
「あの時のお返事を今、申し上げますわ……愛しています。燃え盛る炎はもう要りません。小さなろうそくの静かな灯火とともに、これからずっと、あなたと寄り添って生きていきたい。私は戦友として、妻として、あなたを心から愛しております、殿下」
殿下は一瞬ぽかんとして、それから泣き笑いのように顔を歪めた。
「……ルクレツィア。君は、本当に、そういうところだぞ」
「まあ、また何か間違えましたかしら?」
殿下の震える指先が、私の涙をそっと掬い、頬をふんわりと温かい両手が包み込んだ。
「いや。だから、愛したんだ」
これ以上、言葉はもう要らない。




