52.生きるため(殿下視点)
まだ夜が明けきらない早朝、俺たちは呼吸すら殺してそっとマリーノ城を脱出した。
アレッサンドロと案内人を先行させ、警戒にあたらせる。俺はチェーザレ殿率いるスペイン兵の従者に扮し、馬の手綱を引き、荷物を担ぎ、ひたすら地面を見つめて歩いた。
「国境を越えるまでは、下を向いて根暗な木偶の坊の従者を装っておけ。……ああ、演技などしなくとも、元から木偶の坊だったな」
……くそぅ! 相変わらず嫌なやつだ!
「その無駄な殺気も消せ。返事はどうした?」
「……はい、チェーザレ様」
「ハハッ、それでいい。さあ行くぞ、従者」
……無性に腹が立つ。だが、無事にフェラーラへ帰り着くまでの辛抱だ。耐えろ、俺。
「ここから山道だ。足場が極めて悪い、足元に気をつけろ。荷物に傷がついたら大事だ」
「……はい、チェーザレ様」
ムッとしながら見上げると、そこには天を突くように果てしなくそびえ立つ、荒々しい岩だらけのアブルッツォ山脈が立ちはだかっていた。
フーッと息を吹き出し、覚悟を決める。
ゴツゴツとした岩肌を踏み締め、肺が千切れそうになりながら急坂を丸一日登り続け——夕闇が迫る頃、ようやく山頂の狭い関所に到着した。
「止まれ! 何者だ!」
「我はチェーザレ・ボルジア。スペイン国王陛下の命により、ここをまかり通る」
「……しかし、通行の通達は届いておりませんな。申し訳ないが、荷物と後ろの従者どもを一人残らず改めさせていただく。おい、そこの従者、顔を…」
兵が俺に近付いてくる…ここまでか…!
捕まってたまるか、どう暴れたら逃げ切れるだろうかと考え始めた瞬間、チェーザレ殿の低く唸るような声が響いた。
「何だと!? 俺を疑うということは、教皇国が同盟国スペインを疑うと同義。 スペイン王に、この理不尽極まりない非礼をありのままお伝えしよう。おい、貴様たちの名を申せ。すぐにその首が胴体から離れるだろうな」
「……っ! そ、それは……! 申し訳ございませんでした! 非礼をお許しください……!」
先程まで驕りたかぶっていた関所の兵たちが、打って変わって怯え、頭を下げる。
「では通る。どけ」
「……はっ! どうかお気をつけて……!」
……越えた! 国境を、越えられたのだ。俺は思わず深く息を吐き出した。胸を覆っていた重苦しい圧迫感を、清涼な風が吹き飛ばしていく。
一昼夜かけ国境の険しい山を下り、もう一つの切り立った岩山を登り直す。目指すは山頂に鎮座する堅固な砦。そこへ辿り着きさえすれば、馬を調達し海沿いまで一気に駆け抜けることができる。砦に着きさえすれば、ようやく一息つけるのだ。もうすぐ、あともう少しだ……!
「これより上は身を隠す林すら無いな。日中の移動は危険だ。日が完全に暮れるまで、この岩穴で体を休めつつ隠れるぞ」
(勝った。俺たちは逃げ切ったのだ!)
——そう、歓喜に胸を躍らせた、まさにその直後のことだった。
先行していたアレッサンドロが息を切らせて洞窟へ滑り込んできた。
「ご報告です! この先、砦へ続く稜線の上に教皇国の部隊……およそ五十名を発見! 迂回路は急な崖。樹木のない裸の岩山で、敵から丸見えです。銃を使われれば、我々の全滅は必至!」
(国境を越えた先に、何故教皇国が…!?)
愕然とする俺を一瞥し、こともなげにチェーザレ殿が呟いた。
「……ふむ。では、五十名を全滅させる。こちらの手勢は五名。……一人あたり十人殺せば計算は合う」
「無理だ! 俺たちも戦う! そうすれば一人あたり五人を倒せば済む話だ!」
「馬鹿か。護衛対象が前線に出てどうする。俺たちスペイン兵が正面から突撃し、道を開く。従者どもは公爵を死守し、砦まで突っ走れ。砦で会おう」
「一人で十人など現実的では無い!囲まれたら終わりだ!……まさか、死ぬつもりか!?」
「馬鹿を言え。俺は死にに行くのではない。生きるための道を切り拓くのだ。まあ聞け……アレッサンドロ、五十人の敵がいるのは開けた場所だろう?奴らはどんな様子だ?」
「はい、広場で、陣形も取らずたむろしています。油断しきっているように見えました。我らが潜んでいるとは、夢にも思っていない様子です」
「敵の陣を突破した先の地形は?」
「すぐ先から、馬が二頭並んでは通れないほどの極端に狭い岩道です。そこを通り抜けさえすれば、目と鼻の先が砦です!」
そうか……! それなら、勝機はある!
細い一本道なら、いくら敵が多勢であろうとも襲いかかって来られるのは一人ずつだ。一兵ずつ仕留めて持ち堪え、その間に俺たちが砦から援軍を連れて戻れば……!
「木偶の坊、分かったか?」
「ああ、理解した! 砦から援軍を連れて戻る! ……それまで持ち堪えてくれ!」
チェーザレ殿が傲慢に、ニヤリと笑みを浮かべた。
「その前に敵は全滅しているさ。さあ、行くぞ。……あ、」
チェーザレ殿が剣を抜き放ち、振り返らずに背中で言った。
「決まったぞ。名はルイーザだ。ルクレツィアと、我が母ヴァノッツァから取った。……どうだ、良い名だろう?」
「ああ、実に良い名だ! さぞかし美しく、賢く、誇り高い娘に育つだろう! 早く帰って、サンシア殿に伝えてやれ」
「ああ、言われるまでもない。さて、名も無事に決まったことだ。心置きなく、暴れ回るとしよう。 行くぞッ!!」
突如として暗闇から躍り出た黒ずくめのスペイン兵に、油断していた敵兵がパニックを起こす。
「なっ……!? ボ、ボルジアの死神だあぁぁッ!!」
混乱に陥った敵を槍で突き、剣で切り裂く。じりじりと進む。血飛沫が舞う中、チェーザレ殿が道を開いた!
「抜けたッ!! 走れぇッ!!」
馬のいななき、甲冑のぶつかり合う音、剣撃の金属音、そして、銃声が山々に反響する。
俺は一度も振り返らず、歯を食いしばって岩山を駆け上がった。
(待っていてくれ、チェーザレ殿! すぐ戻る……!!)
ドンドンドンッ! ドンドンドンッ!
「我はフェラーラ公アルフォンソ! 頼む、門を開けてくれッ!すぐ下の岩道で、教皇国と戦闘中だ! 至急、援軍をッ!」
「はっ!銃声が聞こえたゆえ、出るところでした! 出撃だ、皆続けッ!!」
兵たちの動きは無駄がなく素早い。流石は将軍の鍛え上げた手勢だ。
(チェーザレ殿、もうすぐだ……! 今行くぞ!)
……だが。
俺たちが目にしたのは——うずたかく積み上がった教皇軍兵士たちの亡骸と、ぽつんと岩に背を預けて座り込んだチェーザレ殿の姿だった。
一目で、もう手遅れだと分かった。
血の気が引き、陶器のように真っ白になった顔。漆黒の甲冑には、無数の刃の痕と銃弾が穿った無残な穴が開いていた。
「チェーザレ殿……ッ!!」
「……遅かったな。……敵は、怯えて逃げ出したぞ……」
「すまん……すまんッ!!」
「……部下は皆、死んでしまった。……ふぅ、少しばかり、疲れたな……」
「ああ、そうだろう! 少し休め! 今すぐ手当をしてやるからな!」
「……お前、泣くなと言っただろう……」
言われて、初めて気づいた。俺の目からボロボロと大粒の涙が溢れ出し、頬を濡らしていた。
「仕方ないだろうッ!? 俺のために……義兄上が傷ついたのだぞ! なあ、共にフェラーラへ帰ろう! ルクレツィアの元へ! そしてサンシア殿の元へ……可愛いルイーザの元へ帰るんだ!!」
「……ああ……帰りたいな。……帰れると……思っていたんだが……」
「帰れる! 帰るんだッ!!」
「……無理だな。……もう、目が……よく見えない。……くそっ、最後に見るのは……艶やかな妻の笑顔が良かった……」
「では、今死ぬな! 生きろッ!」
「静かにしろ。……サンシアに……伝えてくれ。……愛している、と。……ルイーザを……頼む、とな……。……俺は、疲れた。……もう、眠るとしよう……」
「……チェーザレ殿! チェーザレ殿……っ! 義兄上ーーーーッ!!」
『ボルジアの死神』と恐れられたのが嘘のように、穏やかで清らかな顔で、義兄上は静かに旅立っていった。
心から礼を言う、義兄上。
どうか、安らかに……。




