50.潜伏(殿下視点)
ローマ脱出の翌朝——俺はファブリツィオ将軍の居城マリーノにいた。
「この度は、本当に世話になった。心より礼を言う、ファブリツィオ将軍」
「なんのなんの! 私こそ、公妃には大変お世話になったのだ。それ以上に、あの教皇の卑劣なやり口には我慢ならなかったのだ! …しかし、アンジェラ殿が私に助けを求める為、直談判しに来た時は心底驚いた。あの娘は実に機転が利くし、度胸もある。女にしておくには惜しいほどの器量だ」
ルクレツィアと話すアンジェラの顔を思い浮かべ、俺は思わず苦笑いを浮かべた。
「……そう思われるか? だが、妻とアンジェラは少々違う意見のようだ」
「ん? そうなのか。まあ、考え方は人それぞれ、ということか」
「そういうことだ。……それにしても、まさか俺が一般兵の格好をする羽目になるとはな。ルクレツィアが見たら大笑いしただろう」
「ははは! 最善の策だったとは言え、公爵殿下にあのような格好をさせてしまい申し訳なかった」
「いや、俺は貴公の手腕に感嘆しているんだ。我ら一行を一般兵に変装させ、自らの私兵団の中に紛れ込ませるとは。しかも、アンジェラに貴公の愛人役を演じさせるなど……ククッ! 実に面白かった!」
横にいるアレッサンドロに目をやると、案の定、苦虫を噛み潰したような顔で憮然と突っ立っている。俺はわざとらしく声を落として囁いた。
「……表立っては言えないが、あの配役をかなり気に入らなかった者がいてな……」
「なんと! そうだったのか……! アンジェラ殿に想いを寄せている者がいたとは……これは悪いことをした。緊急だったからな、あれしか思いつかず……後でその者に謝罪せねば……」
本気で恐縮する将軍の姿に実直な人柄が滲み出ており、こちらまで申し訳なくなってくる。
「いや、とんでもない!冗談なのだ、気にしないでくれ。 それより、貴公の身は大丈夫なのか? 俺を助けたとなれば、正面切って教皇に喧嘩を売ったも同然だ。今後、面倒なことに巻き込まれねば良いが……」
「その時はその時だ! もしあの時に立ち上がらねば、私は騎士として一生自分を許せなかっただろう。これで良かったのだ」
「……そう言ってもらえると、肩の荷が下りる。この恩は必ず返す。俺にできることがあったら、遠慮なく言ってくれ」
「それは心強い。いつか、公爵を頼ることがあるかもしれない。その時はよろしく頼む」
「ああ」
俺たちは立ち上がり、固く手を握り合った。
フランス側、スペイン側と立場上は敵同士ではあるが、根っこは同じイタリアの同胞なのだ。この大切な縁を何としても守り抜かねばならない。
「それで、これからどうされるおつもりだ?」
「うん……それなんだが、おそらく教皇軍は、ローマから真っ直ぐ北上してフェラーラへ向かうと予想しているだろう。俺が一目散に逃げ帰ると踏んでな」
「となると……ローマの真南にある、ここマリーノ城にしばらく留まる方が安全だな」
「ああ。ご迷惑をかけるが、引き受けてもらえるか?」
「もちろんだ! ここで潜伏しながら情報を集め、機を見計らってフェラーラへ向かえば良い」
「重ね重ね感謝する。では、しばらく世話になる」
「ああ、任せておけ!」
再び固い握手。この男は本当に信頼できる。
潜伏生活が始まった。
既にファブリツィオ将軍が俺たちを逃がしたことは教皇国の知るところとなり、城の周囲には教皇軍の監視がついているらしい。俺の顔は知られているため、屋外はもちろん、窓際にも近寄ることは許されない。昼間でも厚いカーテンを閉め切った薄暗い部屋に閉じこもり、悶々とした焦りを抱えて過ごす日々が続いた。
そんな閉塞感に満ちた日々が二十日ほど続いただろうか。
ファブリツィオ将軍が、見覚えのある鮮やかなオレンジ色の髪をした男を伴って部屋に入ってきた。
……チェーザレ殿だ。
ガストン殿を討ち取り、俺の苦境のきっかけを作った男。そして、ルクレツィアの実兄。
複雑な感情が渦巻き、胸の奥がざわつく。
「久しいな、公爵。なかなか苦戦しているようじゃないか」
「……チェーザレ殿はご活躍のようだな」
「ハハッ! 皮肉を言えるほど元気があるなら安心した。これなら無事に脱出できそうだ」
「……どういうことだ?」
「言葉通りだ。同じことを何度も説明するのは面倒だ。将軍、説明してやれ」
相変わらず不遜で高飛車な態度だ。義兄とはいえ、多少の苦々しさを覚えるのは仕方のないことだと自分に言い聞かせる。
「フェラーラ公、チェーザレ殿はスペイン王からの勅命を二つ携えて来られたのだ。一つは、教皇に対する私の保護命令。当面、私は安全だ。ご安心召されよ。そしてもう一つは、貴公の脱出を手助けせよという命令だ。チェーザレ殿は貴公を援護する為に来られた」
「……なぜ、スペイン王が俺を助ける?」
チェーザレ殿が「フン」と鼻で笑った。まったく嫌な男だ。
「おや、我が義弟殿は妹の苦心を知らないとみえる」
「……ルクレツィアが?」
「妹は健気にも、貴公がローマに出発する前から方々へ交渉していた。それを哀れに思ったスペイン王の温情だよ。『フェラーラ公を教皇の手から救い出せ』との仰せだ。仕方がないから手を貸してやる。ここマリーノも教皇軍に目をつけられた。そろそろ潮時だな」
ああ、胸の奥がモヤモヤする……!
妹のイザベラなら『キーッ!』と金切り声を上げて怒り狂う場面だ。もちろん俺は紳士だからそんな真似はしないがな。
「そこでだ。せっかくだからファブリツィオ将軍、貴公の知恵と力を貸せ」
「ああ、もちろんだ。スペイン王の勅命とあらば喜んで協力しよう」
口元こそ微笑んでいるが、将軍の目は一切笑っていない。
分かるぞ、将軍。俺もまったく同じ気持ちだ。
「よし、では早速ルートの策定だ。将軍、案はあるか?」
「……緊急時でなければ、街道を進むのが常道だ。馬を飛ばせば二日もあればフェラーラへ帰還できる。しかし……」
「街道は人の目が多い。検問所も各所に配置されているだろう。リスクが高すぎる、次の案を出せ」
将軍の目が虚無になっている。感情をシャットダウンすることにしたのか……。
俺のために苦労をかけて申し訳ない、将軍。
「……リスク回避を最優先するなら、このルートはどうだ」
将軍は壁に掛けられた地図の一点を示した。
「今はここ、マリーノだ。ここから真っ直ぐ東へ向かうと、アブルッツォの山々がある。険しい山脈が連なっており、かなりの難所だ。……しかし、この峠を抜けて山の東側に降りれば、そこは旧ナポリ領。今はスペインが支配している。脱出作戦の半分は成功したと言えるだろう。いくら教皇国でも、大国スペインへ自軍を進めるとなれば相応の根回しや手続きに時間を取られるからな。 私が推奨するのは、そこからさらに東へ向かって海辺の街へ出て、沿岸部を北上するルートだ。
北に向かうと、一旦教皇国領に入るが、そこは教皇国の影響がほぼ及ばない中立地帯。さらに北上すれば我が妻の実家、ウルビーノ公国に入る。ここは安全を保証する。このルートなら、陸路が危険と判断すれば海路をとるなど、臨機応変な移動が可能となる。と言っても、ウルビーノ以北はまた教皇国領だ、海路が良かろう。峠越えの案内人と、海へ出てからの船の手配は私が引き受ける。 とにかく、内陸の平野部や主要街道は徹底的に避けるべきだ」
チェーザレ殿が満足そうに鼻を鳴らした。
「ふん、上出来だ。公爵、そのルートで行くぞ」
「……しかし、アンジェラはどうする? その厳しい峠越えは、女性の体で可能なのか?」
「無理だろうな。……それについても提案があるが、一晩くれ。策を練る時間が必要だ。チェーザレ殿、よろしいか?」
チェーザレ殿はゆっくりと立ち上がり、ファブリツィオ将軍を冷ややかな目で見下ろした。
「……仕方ない。他ならぬ従姉妹アンジェラのためだ、待ってやろう。満足のいく案を期待しているぞ。俺は休む。将軍、部屋へ案内しろ」
くどいようだが、もう一度言わせてほしい。
……なんて高飛車で嫌なやつだ!
ルクレツィアからは「お兄様がね、最近なんだか面白くなったのよ」なんて聞いていたが、とんでもない!
俺はこの義兄と、果たして上手く付き合っていけるのだろうか……?
……いや、まずは無事にフェラーラへ帰り着くことが先決だ。
面倒な親戚付き合いは、無事に帰還してからゆっくりと考えればいい。




