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49.落日(ジュリアーノ視点)

「な、なんだと!? 逃げただと……!? うっ……ゲホッ、ゲホッ!」


王手をかけたという絶対の安心感からか、昼近くまで寝入っていた儂の元に届けられた報告。ジョヴァンニ枢機卿が、淡々と事実を述べる。いつもなら頼もしいはずの冷静さが、今の儂には無性に腹立たしかった。


「フェラーラ公が、ファブリツィオ将軍の屋敷から消えました」


「屋敷だと……!? 儂は奴らを地下牢へ叩き込めと言ったはずだ!……ゲホッ、ゲホッ!」


「ええ。ですが、正式な逮捕状がございませんでしたので。教皇猊下は昨夜、お早くお休みになられましたため、今朝改めて逮捕状を頂戴しようと思っておりました……ファブリツィオ将軍には、厳重に監視するよう申し付けてあったのですが…」


「……ゲホッ! 今すぐファブリツィオ将軍を連れてまいれ! 不敬罪で尋問だ!」


「将軍は早朝、領地へと戻られたようです。長旅の疲れが出たとかで……」


「ええい! 見苦しい言い訳はもうよい!……ゲホッ! ファブリツィオに直ちに召喚状を出せ! 直ちにローマへ戻らねば、奴の領地を教皇軍で攻め落とすと脅せ! ……ああ、それよりフェラーラの若造を追うのが先だ! 儂への不敬罪と逃亡の罪だ! 生死は問わん、必ず捕らえて連れてまいれ! 逮捕状なら今すぐ書く! 教皇軍を出撃させろ!」


「はっ。……直ちに」


ジョヴァンニが静かに礼をして退室していくのを見送りながら、儂は屈辱に歯噛みした。


(……やられた! 豊かなフェラーラを我が物にする千載一遇の機会だというのに、なんという不始末だ! ファブリツィオめ許さんぞ、儂に背いたことを必ず後悔させてやる。それに……フェラーラの若造め! もう絶対に許さん。八つ裂きにしてもまだ足りん、一族郎党ことごとく皆殺しにしてやる……! 見ておれ……!)


「うっ……ゲホッ! けほっ!」


咳が止まらん……。この忌々しい咳のせいで、命令一つ出すにも倍の時間がかかる。もどかしい……年を取るというのは、なんと惨めで嫌なものだ。


(いかん……眩暈が……目が回る……。……まあいい、ジョヴァンニが上手くやるだろう。あいつに任せて……少し、休むとしよう……)


ふと、目が覚めた。


(……ん? もう夜か……? やけに部屋が暗い……。寝すぎてしまったか……。……ジョヴァンニ枢機卿はどこだ? 追撃の首尾はどうなっている……?)


「……ひゅーっ……ひゅーっ……」

(声が出ん……!?)


出るのはただ、掠れた喉から漏れる喘ぐような呼吸音のみ。咳をしすぎたせいで喉を痛めたのだろうか?


側仕えを呼ぼうと、枕元の呼び鈴に手を伸ばそうとする——。


(……な、何だ……!?)


まるで大砲の弾でも括り付けられているかのように、腕が重い。呼び鈴に指先すら届かず、そのまま腕がぽとりと落ちた。


(……ふん、まあいい。そのうち誰かが異変に気づいて来るだろう。なにせ、儂は全キリスト教世界の頂点に君臨する、至高の教皇なのだからな。……もう少し休むとしよう……)


再び静かに目を閉じかけたその瞬間——暗闇の中から、低く冷え切った男の声が耳元で囁いた。


「——ジュリアーノ教皇、お目覚めか? ボルジアの秘毒『カンタレラ』の味は、いかがだったかな?」


(……っ!?チェーザレ…!?)


「驚くことはなかろう? ……俺は今、スペイン王の忠実な配下だ。同盟国であるローマにいても、何もおかしくはない」


「……ハアッ……ハアッ……!」


「声を張ろうとしても無駄だ。カンタレラの効能で、既に声は出ない。……もう少し早く効き始める予定だったんだが、ご老体にしては存外長持ちした方だ。 まあ、その間にスペイン王からの正式な勅令が届いたから、俺としては仕事が随分やりやすくなった訳だが」


(……ど、どういうことだ……!?)


「……せっかくだ、全部教えてやろう。お前が最初にカンタレラを口にしたのは、ミランドラの戦場だ。……もう分かったか? ジョヴァンニが『咳によく効く薬湯』と差し出したあれだよ。もっとも、最初のうちはあいつも知らずに飲ませていたんだがな。ローマに戻ってから種明かしをして、あいつを脅して飲ませ続けた。 『教皇に毒を盛った犯人』『教皇の動きをルクレツィアに警告していた反教皇派』…その証拠が山ほどあったからな。……まあ、そんな脅しが無くても、あいつはルクレツィアに惚れているし、学生時代に衣食住の面倒を見てやった恩もある。俺の言いなりになるのは当然だ」


(ジョヴァンニが……あいつが儂を裏切っていたというのか……!? ……だが、なぜ、貴様が儂を……!?)


「……まだ分からんのか? それとも忘れたのか? お前は俺の父を殺し……俺をも殺そうとしただろう。あの時の俺たちは甘かった。まさか『毒の一族』である俺たちを、毒で殺そうとする愚か者がいるとは思ってもみなかったからな。我が人生最大の不覚であり反省点だ」


(ふ、復讐か……!? 今さらそんな昔のことで……!?)


「……ずっと調べていた。確証がなかったから動けなかったが…お前は後生大事に毒の手配書を取っておいただろう?…協力者は、またしてもジョヴァンニだ。あいつは本当、底意地の悪い腹黒だよ。ハハッ」


(……くそっ! だが、儂は天下の教皇だぞ! 至高の聖下たる儂を殺して、無事で済むと思うな……!)


「フッ……残念だったな。先ほど『スペイン王の勅令』と言っただろう? 俺の身の安全は保障されているのだよ」


(……っ!? なぜだ……!? なぜスペインまでもが儂を裏切る……!?)


「……お前は、やりすぎたんだよ。ルクレツィアを覚醒させてしまった。……今の妹は、俺以上に恐るべき謀略家だ。フランス、スペイン、果てはヴェネツィアでさえ、妹の思いのままに動いている。スペインからの勅令がこの絶妙なタイミングで届いたのは何故だ?……随分前から、すべて準備されていたのさ。お前は、スペイン王にとって、イタリア平定における『排除すべき悪役』に成り下がった。……ああ、そうだ。勅令にはファブリツィオ将軍の保護も明記されていたな。これで教皇軍は将軍に指一本触れられない。……ジョヴァンニも、間もなく追撃を諦めてがっかりしたフリをしながら帰ってくるだろうさ」


(……な……何だと……!? 儂が……あのボルジアの小娘に負けた……!? スペインに見捨てられたというのか……!?)


「他に知りたいことはあるか? ……俺も他にやることが山積みでな、少しばかり忙しいんだ。何もなければもう行くが……ああ、最後に。これも昔馴染みの情だ、お前の惨めな行く末を教えてやろう」……


暫くして、チェーザレの気配が静かに消えていった。


……儂は、もうすぐ死ぬらしい。


既に手足は鉛のように重く、指先一つ動かすことすらできん。声も出ない。


だが……視覚、聴覚、そして痛覚だけは、最後まで鮮明に残るのだという。


意識すらも、恐ろしいほどはっきりしたままだと。


要するに儂は……死に至るその瞬間まで、事態がフェラーラ優位に動いていくのをただ知ることしかできず、何の対処もできぬまま生殺しにされるのだ。


やがて、全身を焼き尽くすような激痛が徐々に襲いかかってくるのだと、奴は言っていた。


それが……三ヶ月もの間、延々と続くらしい。


恐ろしい……底知れぬ恐怖が、動かぬ身体を苛む。


(……だが! それだけの時間があるならば……フェラーラの若造が死ぬ姿を見届けられるかもしれん! 奴だけは……フェラーラだけは絶対に許さん! ああ、神よ! どうかあと一度だけでよい、儂に声を……命令を発する力を与えてください! そうすれば……そうすれば教皇軍にフェラーラ侵略を指示できるのです! あのボルジアの小娘をこの手で抹殺し、豊穣なるフェラーラを我が手中に……!!)


動かぬ身体と暗闇の中で、ジュリアーノ教皇の狂気の執念だけが、虚しく渦巻いていた。

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