38.迫りくる戦争
昨夜の余韻と割り切れない甘やかな想いが胸の奥に深く巣食ったまま、朝を迎えた。
けれど、感傷に浸っている暇など微塵もなかった。フェラーラを取り巻く暗雲は、すでに足元まで忍び寄っていたのだ。
昼食の席、アレッサンドロとアンジェラが揃って硬い表情で入ってきた。
「失礼いたします。殿下、ルクレツィア様。急を要するご報告がいくつかございます。よろしいでしょうか?」
「構わん、話せ」
アンジェラが硬い表情を崩さずに一息で言い切る。
「サンシア様はスペインのモタ城にて健やかにお過ごしです。牢への投獄ではありませんが、行動をかなり制限されており、事実上の軟禁状態と考えてよろしいかと」
「やはりそうなのね……。けれどお元気でお過ごしなら、ひとまずは安心だわ。次は?」
「チェーザレ様はナヴァラ王国をほぼ攻略目前です。流石は『ボルジアの死神』と呼ばれたお方です。スペインは同時進行でナポリの領有権を巡りフランスと争っておりますが、ナヴァラが陥落すれば、全戦力をそちらへ集中させることでしょう」
いつもの砕けたアレッサンドロの口調ではなかった。剽軽さはすっかり影を潜め、厳しい顔で淡々と報告するアレッサンドロに、いつもの方言はやはり演技なのねと場違いなことを思った。
「そうか。スペインがナポリだけで満足してくれれば良いのだが……次は何だ?」
「ジョヴァンニ枢機卿とアルフォンソ枢機卿からのお手紙です。どちらもルクレツィア様宛ての私信の体を成しておりますが、時期が時期だけに政治的な重要内容を含んでいると判断し、殿下にもご報告いたします」
「分かったわ、ここで読みます。アンジェラ、手紙をちょうだい。殿下、よろしいでしょうか?」
「ああ、頼む」
ジョヴァンニ枢機卿は、かつてピサの大学でチェーザレお兄様の同級生だったお方だ。学生時代には我がボルジア家に滞在したこともあり、名門メディチ家出身らしい洗練された美意識と教養を備えた、いわば私の幼馴染のような存在である。
手紙を開くと、そこには私を案じる温かな言葉とともに、教皇国の極めて危険な動向が記されていた。
——ジュリアーノ教皇の真の狙いは全イタリアの統一であること。その第一段階として、複数の隣国を強引に併合してきた強国ヴェネチアの攻略を目論んでいた。しかし、ヴェネチア軍の思いのほか強固な抵抗に遭い、教皇軍は完全な併合をできずにいた。それでもヴェネチアは二つの重要領地を失い、莫大な戦費により国力は著しく衰退している。
満足した教皇はヴェネチアから一旦兵を引いた。そして今、北イタリアで圧倒的な影響力を持つフランスを排除すべく同盟をあっさりと破棄。新たにスペインと手を組み、次の標的をこのフェラーラに定めたというのだ。
「速やかに戦争への備えをされたい」——それがジョヴァンニ様からの警鐘だった。
一方、アルフォンソ枢機卿からの手紙は、さらに踏み込んだ惨状を告げていた。
教皇周辺の常軌を逸した不穏な空気。不当な重税と、納められない領民への苛烈極まる処罰。心を痛めた聖職者たちが諫言すれば、即座に更迭。教皇のイエスマンばかりが周囲を固める中、秘密裏に反教皇派が結成されつつあるという。
そして最後に、「ローマで追われ、居場所を失った哀れな民や商人たちをフェラーラで受け入れてほしい」と結ばれていた。
「アルフォンソ枢機卿様の手紙とともに、ローマから逃げてきた商人が同行しており、殿下との謁見を望んでおります。いかがいたしましょうか?」
「アンジェラ、私が会うわ。殿下はどうされますか?」
「俺も会おう。現地の生の空気感を知っておきたい」
そして向かった謁見の間。
旅の垢と恐怖にやつれた商人が、震える膝をついて平伏した。
「お会いできて光栄にございます……殿下、公妃殿下……!」
「俺に伝えたいことがあるそうだな。申してみよ」
「はい……教皇国の、あまりにも凄惨な現状をお知らせしたく……! あらかたの事情は殿下方もご存じかと存じますが……市井の民が受けている仕打ちは、もはや人間に対するものとは思えませぬ……!」
商人は溢れ出る感情を抑え込むように、ぐっと息を呑んだ。
「小麦などの農作物はタダ同然で強奪され、そのほとんどは軍の糧食へ。残った僅かな分も教皇様方や貴族どもが買い占め、民に分配されるのは腐りかけた一握りの屑麦のみ……! さらに小麦をパンに加工する工程一つひとつに法外な税が課され、食っていけず自ら命を絶つ家族が後を絶ちません! その上、家財や幼い娘を売ってでも免罪符を買うよう強要され、買えぬ者を『異教徒』と断じて容赦なく縛り首に処すのです! 教皇国の民は今や、死を待つためだけに生きております!
『教皇国に併合されれば安全で豊かな街になる、これは聖戦だ』などと司教様方は謳いますが、とんでもない! 治安が良いのは犯罪を起こす体力すら民に残っていないからに過ぎません! あんなものは……法治国家などではない! ただの『地獄』でございます!!」
激しい慟哭に、謁見の間が静まり返る。
「……よく話してくれた。フェラーラへ逃れてくるだけでも、お前たちの身に危険が及んだだろうに。分かった、できる限りの便宜を図ろう。 だが……近いうちにこのフェラーラも戦火に包まれる。ここは決して安全地帯ではない。それだけは理解しておいてくれ」
「はい……! 重々承知しております! 私たち以外にも、職を追われた聖職者や民など、亡命を望む者が大勢おります。フェラーラで受け入れていただけるなら、皆どんな仕事でも身を粉にして働きます! どうか……どうかお慈悲を……!」
「お前たちの処遇は公妃に任せる。……頼むぞ、ルクレツィア」
「はい、殿下。お任せください。……アンジェラ、この方々から身元と受け入れ人数、それぞれの職種を細かく聞き取りなさい。それを元に受け入れ体制を検討します」
「ありがとうございます……! ありがとうございます、殿下、公妃殿下……!」
商人が感涙を流しながら退出していく。
重く閉ざされた扉を見つめながら殿下が低く呟いた。
「覚悟はしていたが……ついにこの時が来たか。ルクレツィア、過酷で長い戦争になる。覚悟しておけよ」
「はい、殿下。この試練も二人で乗り切りましょう。……私たちなら、絶対にできますわ!」
「頼もしいな。頼りにしているぞ、ルクレツィア。……ところで、ジョヴァンニ枢機卿だが。何故リスクを冒してまで君に危機を知らせてくれたんだ? それほど親密だったのか?」
不意に投げられた問いに、私は苦笑を漏らした。
「ええ、まあ……親密といえばそうかもしれませんが、ジョヴァンニ様は決して一筋縄ではいかないお方ですわ。私のことを憎からず思ってくださっているのは事実でしょうけれど。 あの御仁にとっての最重要事項はただ一つ、ご実家であるメディチ家の繁栄のみ。お若い頃にメディチ家が没落し、貧しい放浪生活を余儀なくされたことが、よほど骨身に染みているのでしょう。親類縁者を二度と飢えさせまいとする執念は誰よりもお強いのです。 あのお手紙も、私への心配が半分。残りの半分は……あわよくば教皇ジュリアーノを打倒し、ご自身が次の教皇の座に就くための深謀遠慮だと思いますわ」
「そうか……。我々もフェラーラを守るためなら鬼にも蛇にもならざるを得ん。それが貴族の悲しい性というものだな。教皇には教皇の、ジョヴァンニにはジョヴァンニの、そして俺たちには俺たちの、それぞれの『正義』がある。……だが! フェラーラの民をあのような地獄に叩き落とされてたまるか! 必ずや教皇軍を打ち破り、生き残ってみせる!」
「素晴らしい心意気ですわ、殿下! ……それで、戦費の件ですが。私の所有する宝石をすべて殿下にお預けいたします。それと…結婚当時に父から密かに贈られた個人資産金貨十万枚をお渡し致します。これが私の持参金全てです」
「なっ……!?」
「宝石は金銀よりも嵩張りませんし、いざという時の資金として前線にお持ちくださいませ」
「しかし……それでは君の財産が……!」
「ふふっ、殿下。これから国を挙げた大戦争が始まるのですのよ? 着飾って豪華な夜会に出席することもございませんわ。それに……お忘れかもしれませんが、私、持参金を失くしても『ちょっとしたお金持ち』ですの。 ご心配なさらないで。後顧の憂いなく、前線で心ゆくまで暴れていらっしゃいませ!」
私の言葉に、殿下は何かを言いかけて言葉を呑み込んだ。
その力強い瞳の奥に、昨夜暖炉の前で見せたあの切なく揺らめく炎が一瞬灯ったのを、私は見逃さなかった。
「……ああ、存分に暴れてくる。ルクレツィア、内政とフェラーラを頼んだぞ」
差し出された殿下の大きな手を、私は両手でしっかりと握り返した。
二人の手のひらから伝わる確かな温もりが、迫りくる嵐に立ち向かう絶対の絆となっていた。




