37.思い出
「アンジェラ、これから殿下がいらっしゃるわ。温かいハーブティーとホットワイン、それから少し摘めるお菓子を用意してくれる? ああ、それと……今日は寒いから暖炉の前に座ろうと思うの。クッションをたくさん敷き詰めておいてちょうだい」
「殿下とご一緒に? 床のクッションで……ですか? まるでサンシア様との女子会のようですね」
アンジェラが懐かしそうに、けれどどこか寂しそうに微笑みながら尋ねてくる。
「ええ。今日は堅苦しい話ではないし、殿下もお疲れでしょうからリラックスしていただきたいの。あなたも疲れているでしょう? 準備ができたら、今夜はもう休んで構わないわよ」
「かしこまりました。すぐにご用意いたします」
しばらくすると、扉を叩く力強いノックの音とともにアルフォンソ殿下が入って来られた。
「ルクレツィア、来たぞ。……って、今日は床に座るのか? 子供の時、寒い夜はよくこうしていたな。なんだか懐かしいな」
「そうでしょう? この方が暖炉に近くて暖かいですもの。さあ、どうぞお座りになって。ハーブティーとホットワインをご用意しましたわ。どちらでもお好きなほうをどうぞ」
「ああ、ありがとう。……さて、何を話そうか? 君とは政策やら仕事のことはよく話すが、それ以外の雑談となると、ほとんどしたことがなかったな」
「ええ、そうですわね。それなら……殿下のお話をお聞きしたいわ。私がフェラーラに来てもう四年になりますけれど、その間に私のことは家族の歴史から真実の愛まで、何もかも露見してしまいましたもの。ずるいですわ。殿下のことも教えてくださいませ」
「フッ、そうだな。それなら……俺の『真実の愛』の話をしてもいいか?」
「ええ、ぜひ」
「大体のことは前にも話したが……このペンダント」
殿下は胸元からペンダントを出すと、暖炉の炎にかざすように持ち上げ、慈しむような優しい目で見つめた。
「ええ、いつも身に着けていらっしゃいますわね。アンナ様のお品なのですか?」
「ああ。何を贈っても喜ばないと前に言ったろう? これは彼女が唯一気に入ってくれたものなんだ」
「ええ……」
「最初は本当に酷かったんだぞ? 結婚前に絵姿を見て、なんて可愛らしい子なんだと思ってな。それでワクワクしてフェラーラに迎えたんだが、一言も口をきいてくれない。イザベラも君に辛く当たっているが、あんなのは比じゃない。俺の姿を見つけるとな、回れ右をして脱兎のごとく逃げ回るんだ。じゃあ夜にゆっくり話そうとしても、『アンナ様は今、女官たちと楽しくお話し中です。慣れないフェラーラにお疲れなのです。どうぞお察しください』などと門前払いにされる始末だ」
「まあ……。でも、夜会などでお話しする機会はなかったので?」
「甘いな。まず目を合わせない。俺が話しかけても聞こえないふりだ。おまけに夜会にも男装をして出席してくる。参ったよ。賓客や臣下貴族の前で完全にコケにされるんだからな……あの時は本当に辛かった」
苦笑する殿下に、私は「まあ……」としか言葉を返せなかった。きっと今の私は、相当間抜けな顔をしているに違いない。
「だがな、俺は待ったんだ。なにせ彼女はまだ十五歳。政略結婚と言われ、いきなり田舎貴族のもとへ嫁がされたのだからな。生粋のお姫様にとっては、矜持をズタズタにされるほどの衝撃だっただろう。だから傷が癒えるのをひたすら待ったんだ。だって、あんなに可愛い子だぞ? 俺の相手をしないからと言って、罰することなどできるはずもない」
「ええ、そうでしょうとも……」
私はふと思い出した。私の最初の夫、ペザロ伯爵も……私を甘やかし、顔色を窺っていたのは、怯えからだったのだろうか?得体のしれない不気味なボルジア一族の、ほんの子供が突然嫁いできて、恐ろしかったはずだ。癇癪でも起こされたら一瞬で首が飛ぶ…
だとしたら、もし私がアプローチの仕方を変えていたら、彼とも良い関係を築けていたのだろうか。
(ごめんなさい、ペザロ伯爵。私、至らない妻だったわ……)
もしかしたら、最初の夫のことを一人の人間として見つめ直したのは、今が初めてかもしれない。私は本当に愚かで酷い女だ。
「だろう? そうこうしているうちに、彼女が少しずつ変わってきたんだ」
「……どのように変わられたのですか?」
「まず、回れ右をしなくなった。翌月には挨拶をしてくれた。さらに翌月には、夜会に美しいドレスを着て出席してくれたんだ。そうして最後は……彼女の生国、ミラノ公国への里帰りの時だ」
殿下は言葉を切り、一層嬉しそうに目を細めた。
「夜会で、一緒に踊ってくれたんだ! あの時は本当に嬉しかった……」
殿下が指先でペンダントを優しく撫でる。
ああ、本当に愛おしそうな顔。私には、そんな眼差しを向けてくださらないのに……。
って、何を考えているの、ルクレツィア!? 私たちは戦友なのよ。フェラーラを守り、発展させるための協力者……ただ、それだけ……。
なのに、どうしてこんなにも胸がギュッと締め付けられるのだろう?
どうして、その瞳を私に向けてほしいと願ってしまうのだろう?
「それでな、やっと寝室を共にできたんだ。アンナが嫁いできてから、五年を少し超えた時だった。幸せだったよ」
「……」
もう、相槌すら打てない。
「それから間もなく、子を授かったんだ。それこそ、フェラーラ全土を挙げて祝ったよ。アンナも本当に嬉しそうだった。このペンダントはその記念に贈ったんだ。手にした時のアンナの顔が忘れられない」
ああ、殿下。そんな切なそうな顔をなさらないで……。
「ペンダントを渡した時、こう……大切そうに胸に抱いてな。それからそっと頬ずりして、『一生大事にします』と言ってくれたんだ。本当に可愛かった」
ペンダントを愛しげに抱きしめる殿下。
「だが、それからすぐだった。突然高熱が出てな……。あの時は恐ろしい感染病が国中に蔓延していたんだ。侍医が薬を処方しても、彼女は頑として飲まなかった。なんでもその薬は病によく効くが、腹の子供を流してしまう毒性が強かったらしい。俺がどれだけ懇願しても、彼女は絶対に飲まなかった。『フェラーラの次代を私が死なせるわけにはいかない』と言い張ってな……。まだその時は、自力で病を治すつもりだったのだろう。まったく、どこまでも気の強いお姫様だった」
殿下は再びペンダントを暖炉の炎にかざした。なんて寂しそうで、哀しい目……。
「それから、しばらくして……」
殿下の目から、ポロっと涙が零れ落ちた。
何があっても豪放磊落で、世界で一番頼もしい殿下が。涙を流して、泣いて、いる……。
「もう仰らないで……もう分かりましたから……! ごめんなさい、私……こんな辛いお話をねだってしまって……本当にごめんなさい……!」
気づいた時には、私は泣きながら殿下の体に抱きついていた。
「……」
どれくらいそうしていただろう。
私の背中に、ほんのりと温かな体温が伝わってきた。殿下が大きな手で、私の背中を優しく撫でて慰めてくださっているのだ。
意を決して顔を上げ、殿下を見上げた。
殿下は涙を浮かべたまま、見たこともないほど柔らかく優しく微笑んでおられた。
「だからな……君が少し前に高熱で倒れた時、俺は心底恐ろしかったんだ。アンナと同じように、君まで失ってしまうかもしれない……とな。もしかしたら……もうあの時から、俺は君に惹かれていたのかもしれない」
「……え?」
「今は、もっと違う感情も持っているぞ」
「……それは……?」
「愛だ。アンナに抱いた愛とは、また違う。愛しくて愛しくて……だが頼もしくて。君になら、いつでも背中を預けられる。……愛している、ルクレツィア」
ドクン…!まるで全身が心臓になったように動悸が身体中を震わせる。
「戦友契約を結んでおきながら、何を言っているんだと思っているだろう? だが、伝えておきたかったんだ。俺が君を、一人の女性として愛しているということを」
「…あ、あの…殿下……」
「……今は返事をしなくていい。君がいつか同じ気持ちになってくれれば嬉しいが、そうならなくても構わない。ただ……覚えておいてくれ。愛している」
熱い炎を宿した瞳で、言葉を失う私を見つめたまま、殿下は静かに立ち上がった。
「さあ、もう遅い。明日からまた仕事だ、もう休みなさい。俺は帰るよ。お休み、ルクレツィア」
殿下の体温が離れていく。
名残惜しくて、思わずその袖口に縋りつきそうになる。けれど殿下は一度も振り返ることなく、部屋を出て行ってしまわれた。
一人残された私は、指にはめていたポエジーリングをそっと外した。
アルフォンソ様に頂いたあの時から、片時も外したことのなかった、まるでアルフォンソ様の瞳のような深い青の指輪。
溢れ出る感情を整理できないまま、私はその指輪を宝石箱の目立たない一番奥へと置いた。
(私は……殿下をどう思っているのだろう……?)
フェラーラの夜は、静かに更けていく。
私の行き場のない想いもまた、深い闇の中へと溶けていくのだった。




