36.嵐の後
不穏な影に心を痛めていても、時間は残酷なほど淡々と過ぎ去っていく。
三十年以上にわたり、平和外交と大規模な都市計画によってフェラーラを一大強国へと成長させた偉大な君主、義父エルコレ一世が亡くなったのだ。
温厚で慈愛に満ちていたお義父様らしい、静かで穏やかな最期だった。
けれど、私たちに悲しみに浸っている暇などない。往年の宿敵ヴェネチアや、裏で糸を引くジュリアーノ教皇が虎視眈々とフェラーラを狙っている。誰も文句のつけようのない完璧な葬儀と公爵位継承儀式を早々に完遂させねばならないのだ。
この儀式を無事に終えて初めて、私たち夫婦が新しいフェラーラの統治者として正式に認められるのだから。
「いやぁ、実に見事かつ荘厳な葬儀でござった。しかし、風変わりな儀式でござったな。まず身内だけで密葬を行い、その後に義父上に模した人形を用いて諸外国に向けた本葬を行うとは。今まで見たことがござらん」
式を終えた控室でそう語りかけてきたのは、イザベラ様の夫であるマントヴァ公フランチェスコ様だった。
「ああ、フランチェスコ殿。フランスではこのやり方が一般的だそうでな。我が国はフランスの強固な同盟国であると誇示し、敵対勢力を牽制する意味も込めたのだ。父が生前から手配してくれていたおかげで、滞りなく終えられた。……父には感謝しかない」
「ええ、お兄様。お父様の手配は最期まで抜かりありませんでしたわね。本葬まで時間があったから、諸外国の特使も揃って参列してくださって、お父様の徳を世界に知らしめるいいお葬式でした……けれど、もう私を『大玉娘ちゃん』と呼んで可愛がってくれる方はいないのね……グスッ」
先ほどまでの気丈な態度が崩れ、イザベラ様が目元を拭う。
「泣いてはいかんぞ、イザベラ。お望みとあらば、某が呼んでやろう。某の可愛い大玉娘ちゃん」
「フランチェスコ様! おやめください! こんなところで恥ずかしいではありませんか!」
顔を真っ赤にして怒るイザベラ様に、ニヤリとするフランチェスコ様。
「照れんでもよかろう、大玉娘ちゃん」
「もう! マントヴァに帰ったら覚えていらっしゃい! ……まあそれはそれとして、お兄様。ジュリオのことなのですけれど、当家で引き取りますわ。最初逃げ込んできた時は驚きましたが、顛末を聞いて呆れ果てましたの。……ええ、ええ、ご心配なく。牢には入れませんが、私が責任を持ってジュリオを監視いたします。二度と悪さはさせません。お兄様が否と仰ってもジュリオは絶対に戻しませんよ!戻せば、お兄様はジュリオを罰さざるを得ないでしょう!?そんなことはさせません! あの子は今でも『僕の方が義姉上を幸せにできるのに』なんてすっとぼけたことを宣っておりますが、根は悪い子ではありません。近いうちに己の間違いに気づくでしょう……そう、ルクレツィアが恐ろしい女狐だということにね!」
「これ、大玉娘! 美しいルクレツィア殿に向かってなんという暴言を! ……ルクレツィア殿、某が大玉娘に代わって謝罪いたす。お詫びと言ってはなんだが、近いうちにマントヴァへご招待つかまつる。当家が誇る素晴らしい絵画のコレクションを、ぜひともご覧いただきたい!」
まるで子犬のように目をキラキラさせるフランチェスコ様を、イザベラ様がものすごい目つきで睨んでいる。あっ、最近の勉強の成果を披露するチャンスよ!
「まあ、ありがとうございます! それはぜひ拝見したいものですわ。内政と外交が落ち着きましたら、夫と共に伺いますわね。ねえ殿下? 楽しみですわね!」
私が殿下の顔を覗き込むと、殿下の視線が一瞬逸れた。
「い、いや……某はルクレツィア殿と二人きりで……」
「そうだわ! イザベラ様! マントヴァへ伺う際には、フェラーラの優秀な料理人を連れて行ってもよろしくて? 実は今、イザベラ様に献呈する新しいお菓子を開発中ですの! まだ納得のいくものが完成せず、本日お出しできなかったのが心残りでしたの。イザベラ様を驚かせるような最高のものを作りたいのです。楽しみになさっていてくださいね!」
鋼鉄の如く崩れぬ笑顔を貼り付けて宣う私の言葉を聞くうちに、最初は額に青筋を立てて怒っていたイザベラ様の顔が、妙に腑抜けたものへと変わっていった。
「……はぁ〜〜……フランチェスコ様。もう諦めなさいませ。ルクレツィアに、完っ全に振られましたわよ。髪の毛一本ほどの望みすらありませんわ!」
「そ、そうなのか?……残念である……残念ではあるが! ルクレツィア殿、どうか義理の姉弟としての情だけは残しておいてくだされ……!」
「まあ、まだ未練を!? マントヴァに帰ったら本気でお仕置きですからね! 覚悟なさってください!」
「……うぅ……承知した……」
「……ということで! 私たちは失礼いたしますわ。お兄様、ルクレツィア、ごきげんよう! 行きますよ、フランチェスコ様!」
イザベラ様に首根っこを掴まれるようにして引きずられていくフランチェスコ様。……ご夫婦の形にもいろいろなスタイルがあるのね。勉強になるわ。
「はぁ……嵐が去ったような気分だ。イザベラは昔からあんな調子だったが、マントヴァに嫁いでさらにパワーアップしたな。俺は口を挟む隙すら与えてもらえなかった」
「ふふふっ、殿下。私も圧倒されてしまって、ほとんど喋れませんでしたわ。まるでお芝居を見ているようで……。でも、殿下? 今日は私、頑張りましたのよ? フランチェスコ様のお誘いを、きっぱりとお断りいたしましたわ!」
『偉いでしょう?』とばかりに自慢げに胸を張ってみせる。私だって、ただ守られるだけの存在から成長しているのだ。
「以前、殿下が仰っていた『男心』について、理解が深まったと思いませんこと?」
「……はぁ……ルクレツィア、そういうところだぞ」
あら? 私、何か間違ったかしら?
「まあ、いい。今はこれで充分だ。……さて、我々も部屋に戻ろうか。疲れただろう? いつもの政策論議は取りやめて、今日は休むか?」
「いいえ、殿下。政策論議はお休みしたいですけれど、もう少し……もう少し殿下とお話ししていたいですわ。このところ忙しくて、まともにお顔を見ることもできませんでしたもの」
「うん、そうだな。今夜ぐらいは仕事を忘れて語り明かそう。着替えてから君の部屋へ行く。じゃあ、また後でな」
優しく微笑む殿下を見送りながら、私はほっと一息ついた。
嵐のような悲しみと狂乱が過ぎ去った二月の寒い夜のことだった。




