28.祈り
早朝のスペイン・モタ城の前庭は、昼間の酷暑が嘘のような冷気に包まれていた。吐き出す息は白く染まり、朝露に濡れた甲冑は氷のように冷え切っている。軍馬の鼻息と蹄の音が静寂のなかに響いている。
その中央で、漆黒の鎧に身を包んだチェーザレが静かに出陣の準備を整えていた。重厚な装甲に刻まれた傷痕が、これまで彼がくぐり抜けてきた死線の数を物語っている。
互いを見つめ合うサンシアとチェーザレ。これから向かう戦火の予感を前にしながらも、二人の間には温かな笑顔が交わされていた。
「サンシア、行ってくる」
その短い言葉に込められた慈しみに、サンシアは胸を張り、強がってみせるように口元を綻ばせた。
「行ってらっしゃい。せいぜい暴れまわってくることね。……私は一緒に行けないけれど、ここであなたの武運を祈っているわ」
チェーザレは無言で頷くと、甲冑に覆われた大きな手を伸ばし、まだ膨らんでもいないサンシアのお腹へとそっと添えた。戦場で数多の命を奪ってきたその掌が、まるでガラス細工のように儚い宝物を扱うかのように、おそろしく優しく、愛おしそうに撫でる。
「お前も達者で暮らせよ。腹の子を……よろしく頼むぞ」
「さっさと行って、さっさと帰ってきなさいよ。……帰ってきたときに『おじさま、誰?』なんて言われたくないでしょう?」
茶目っ気たっぷりに笑ってみせるサンシアに、チェーザレは眉を下げて苦笑した。
「確かに……それは困るな。よし、じゃあ、とっとと終わらせてくるか!」
チェーザレの表情からふっと笑みが消え、一転して戦鬼の険しさが宿る。彼は黒い仮面を深く被り、顔を覆い隠した。その瞬間、出陣を待ちわびていたスペイン兵たちの熱狂的な歓声が地鳴りのように広場へ轟いた。
「「「「「スペイン王万歳! チェーザレ司令官万歳!!」」」」」
馬に跨がり、濃霧の彼方へと疾走していくチェーザレの背中。
サンシアは濡れたような見事な黒髪を早朝の冷たい風に靡かせたまま、じっとその姿を追い続けた。溢れ出そうになる涙を必死に堪え、血が滲むほどに唇を強く噛みしめる。
去りゆく愛しい人の背中が霧の中に消えていくその瞬間まで、彼女は背筋を伸ばし続け――やがて固い誓いを込めて囁いた。
「……行ってらっしゃい、旦那様。待ってるわ」
サンシアはそっと自らのお腹に両手を重ね、天を仰いだ。
「神様、どうかチェーザレ様をお守りください。そして……どうぞこの子の父を、この子の元にお返しください――」
霧の立ち込めるモタ城に、母となる彼女の切なる祈りだけが静かに響き続けていた。




