幕間:チェーザレの想い
「何故だ……どこで間違った? ルクレツィア、何故お前はここにいない……?」
薄暗いスペインの牢獄で、俺は何度目になるかも分からない問いを呟いていた。
かつてイタリア全土を揺るがし、教皇領を統括したこの俺が、今や冷たい石の床に転がっている。屈辱や敗北感などどうでもよかった。俺の頭を占めていたのはただ一つ――我が身の一部であり、唯一無二の存在であったはずの妹、ルクレツィアの不在だけだった。
……ふと、衣擦れの音がして、陰惨な牢にそぐわない甘い薔薇の香りが漂った。
重い瞼を持ち上げると、目の前の粗末な木椅子に、鮮やかなドレスを纏った女が優雅に腰掛けていた。
「あら、目が覚めたかしら?」
「……サンシア? どうしてここにいる?」
「どうしてって……それは妻だからでしょう?」
呆れたように肩をすくめるのは、スペイン王女であり、俺の妻であるサンシアだった。
「それが理由になるのか?」
「なるわよ。夫婦ですもの」
「……そうか。…お前は、ルクレツィアと仲が良かったな?」
「ええ。気付いてたの? てっきりあの子以外は目に入っていないと思ってたわ」
「…そうでもない。だが……生まれてからずっと、あいつは俺だけのものだった。…俺とあいつの時間を邪魔する奴は…全て敵だったな」
「あら。じゃあ、私も敵だったの?」
挑むような笑みを浮かべるサンシアに、俺は少し考えてから息を吐いた。
「……いや、お前はそうじゃなかったな。俺は男だから、あいつと同じ目線でドレスのデザインや化粧法を語ることはできん」
「当たり前じゃない。あなたがお化粧を語ったら気持ち悪いわ」
「だから……女同士で楽しく騒いでいるあいつを見るのが楽しかったし…お前にも感謝していた」
「……そうは見えなかったけど。そうなの?」
「そうだ。それに、お前は俺がどれだけ邪険にしても拗ねなかっただろう? 面白い奴だな、と思っていた」
サンシアが艶やかに笑う。
「だって、政略結婚だから愛がないのは普通だし、私を持て囃す男たちは他にたくさんいたから、別に何とも思わなかったのよ。それに……」
「それに?」
「私も、あなたのことを面白い奴だなって思っていたわ。嫌いじゃなかった」
「今は?」
「変わらないわね」
「……金も権力も失った重罪人だぞ?」
「それでも、チェーザレ様はチェーザレ様でしょう? 面白い奴に変わりないわ。それにね、私、王女だからお金には不自由していないし。権力は……持ってないけど、あっても良いけれど、別にどうでもいいわ」
思わず、喉から笑いが漏れた。この暗闇に落ちてから、初めて心から笑った気がする。
「お前……本当に面白い奴だな」
「あなたには言われたくないわね」
「俺達、こんなに腹を割って話したのは初めてじゃないか?」
「ふふっ、そうね。ルクレツィアがいた時は、あなたは彼女としか話さなかったし、それ以外とは業務連絡だけだったわよ」
「そうか……そうだったな。……ところで、ルクレツィアはどうしてる? 無事か?」
妹への執着ゆえの問いに、サンシアは柔らかく頷いてくれた。
「ええ、無事どころか幸せそうよ。公子のことはどう思っているか知らないけれど……『戦友』だって言ってたわ。そうそう、アンジェラが知らせてきたんだけれど、公子の妹がルクレツィアに冤罪を吹っかけたそうなの」
「それで?」
「案外冷静なのね。もっと憤るかと思ったのに」
「さっき、お前が言ったんじゃないか。『無事どころか幸せそう』と」
「そうね。それでね、冤罪自体は公子が軽くいなしたそうよ。でも面白いのはそこじゃなくて……ふふっ!」
「何だ? 笑ってないで早く教えろ」
「ルクレツィアがね、イザベラがこんなことをしたのは、私が『お義姉様』と呼んだから気を悪くしたんじゃないか、ごめんなさいって謝ったんですって!」
「……っ! あははははっ! 傑作だ! ルクレツィアらしい!」
腹の底から声を出して笑った。牢獄の天井に俺たちの爆笑が反響する。
「その後に、仲良くしたいって言ったらしいわ。あははっ、もう耐えられない! 可笑しいったら!」
二人して腹を抱え、涙が出るまで笑い転げた。
……ああ、こんな風に笑ったのはいつ以来だろうか。
「……なんで俺は、今までお前と話さなかったんだろうな。こんなに面白いのに」
「それがルクレツィアの恐ろしいところよね。あの子は天然の人たらしよ。あの子に本気で見込まれたら、あの子以外見えなくなる。あなたが殺そうとしたナポリの王子も、そうだったんじゃない?」
「……ああ、そうかもしれない。となると、あの王子と俺は『被害者仲間』じゃないか。殺そうとして悪いことをしたな……」
「そうよ!私も被害者よ! あなたのせいで私とルクレツィアは引き離されたんだから!」
「あはは、そうか。お前にも悪かったな」
「そうよ! 悪いと思うなら、元気でいて。あなたとの口喧嘩は楽しそうだから、これからずっと付き合って貰うわよ。ちゃんと食べて、体力をつけて」
「ああ、ちゃんと食べる。明日から少しずつ体も鍛え直す。だが……」
「だが?」
「今日は二人で乾杯しないか? 俺達二人の未来と……俺の『ルクレツィア卒業記念』の乾杯だ」
サンシアはパッと顔を輝かせると、ドレスの影から小瓶とふたつのグラスを取り出した。
「良いわね! あなたがまだ夢うつつだったら独りで飲もうと思って、ワイン持ってきたのよ。いい奥さんでしょう?」
「ああ、実にいい奥さんだ。これからよろしく頼むぞ、奥さん」
「ええ、罪深い旦那さま。――乾杯!」
グラスが鳴らす澄んだ音と一緒に、俺の胸に重くのしかかっていた「執着」という名の呪いが、ふっと消えていくのが分かった。




