25.さよなら初恋、また会う日まで
イザベラ様の企みを鮮やかに返り討ちにした大謁見室での騒動が治まり、殿下の執務室には穏やかな安堵の空気と、どこか深い疲れが漂っていた。
「実に爽快でしたね、ルクレツィア様!」
興奮冷めやらぬ様子で声を弾ませる侍女のアンジェラに、私は静かに嗜めた。
「アンジェラ、殿下の御前で失礼よ。お控えなさい」
「いや、いい。今日ぐらいは無礼講だ。それにしても、ルクレツィア、無事に済んで本当に良かった」
殿下は椅子の背もたれに深く体を預け、長いため息をついた。その表情には、私の身を守り切れたことへの心からの安堵が浮かんでいる。
「はい、殿下。ありがとうございます。……アンジェラも、私を助けてくれてありがとう。お二人には、私たちの命を救って頂きましたわ。……ですが殿下、イザベラ様のお沙汰はどうされますの? 私は、降りかかる火の粉を払えればそれでいいのです。どうか、寛大な御心で……」
「ああ、ルクレツィア。分かっている。責め立てるつもりはない」
殿下は苦笑を浮かべ、窓の外のフェラーラの街並みに視線を向けた。
「考えてみれば、あいつも哀れな境遇なのだ。父上が下手に甘やかしたせいで我儘放題に育ってしまった。なまじ能力があるだけに、政治の都合で使い回され、婚期を逃した……それが今日の結果だ。できるだけ早く、良い縁談を組むつもりでいる」
「そうでしたか……。イザベラ様と仲良くなれなくて、少し残念ですわ。どうか、良いお話が見つかりますように」
私がそう祈るように呟いた、その時だった。それまで静かに壁際に立っていたアルフォンソ様が、一歩前に出た。
「殿下、アンジェラ。今日は本当にありがとうございました。……お祝いムードのなか大変恐縮ですが、僕はフェラーラを去ります。できる限り早期に」
「……えっ!?」
私は耳を疑った。え? 今なの……!? 今日なの……!?
皆の疑惑を払拭したばかりじゃない! ここにいても、誰も何も言えないはずよ!
頭の中で叫びが渦巻くのに、喉が引きつって声にならない。殿下は、私の困惑を察しながらも、静かにうなずいた。
「……そうだな。イザベラは極端だったが、反公子派の敵対派閥からすれば、今日の出来事は格好の呼び水だ。一度だけなら受け流せるが、何度も重なると噂の濁流に流されてしまうだろう。これ以上アロンゾがここに留まれば、泥仕合になる。……潮時だな」
殿下の仰る通りだった。論理的には、ぐうの音も出ないほど正しい。
胸の奥で、何かがガラガラと崩れ落ちていく。私の手から、大切なものが砂のように次々と零れ落ちていく感覚。
最初にお父様が亡くなり、次にお兄様が追われ……。本当に?お兄様を追わせたのは私じゃないのかしら?アルフォンソ様を去らせるのも、私のせい?私の我儘がみんなの人生を壊してしまった…?
でも、展開が早すぎる。私の心が、このスピードについていけない!
「ルクレツィア。……もう、分かっているだろう?」
アルフォンソ様が、あの透き通るような穏やかな瞳で私を見つめた。
「僕たちは、ここまでだ。君がかつてローマで言ってくれただろう?『生きてさえいれば』って。僕は、君が生きてさえいれば……それだけでいいんだ。君は、運命を切り拓く天性の力を神から授かった稀有な人だ。だから僕は、何も憂うことなくここを去っていける。……僕も大丈夫だよ、ルクレツィア。案外、悪運が強いんだ。何としても生き抜いてみせる。 そしていつかまた、違う形で出会えるはずだ。僕たちはそういう運命なのだと、今は信じている」
それでも諦めきれずに、私は殿下とアンジェラを見つめた。お願い、私の代わりに「まだ行かないで」と引き留めて!
しかし、二人は静かに目を伏せ、何も言わなかった。二人もまた、これがアルフォンソ様を守り、フェラーラを守り、そして私を守るための唯一の選択だと分かっているのだろう。
「それにね、ルクレツィア。今、僕が去れば『詩人アロンゾと公子妃の間には恋愛感情なんて一切ない。あるのは芸術への至高の愛だけだ』という大義名分が立つ。そうすれば、これから先、大っぴらに手紙を交わしたとしても、今度は誰も何も言えない。……いい条件だと思わないか?」
ふっと悪戯っぽく微笑む彼を前に、私はもう何も言えなくなってしまった。
アルフォンソ様の仰ることは、一から十まで完璧な正論だ。ただ私の我がままな気持ちが、追いついていないだけ。
今まで二人とも無事で、こうして言葉を交わして笑い合えたこと自体が、奇跡だったのだ。神に感謝すべきことなのだ。頭では、ちゃんと分かっている。分かっているけれど――涙が目尻から溢れ出た。
「約束する。僕は必ず生き抜いて、また君に会いに来る。だから……君もその日のために、生きてくれ」
アルフォンソ様のまっすぐな言葉が、私の心にしみ込んでいく。
私はぐっと涙をぬぐい、凛と背筋を伸ばした。ボルジアの娘として、そして彼の愛した女として。
「……はい。理解いたしましたわ、アルフォンソ様。……ですが、最後に一度だけ!」
私はドレスの裾も構わず駆け寄り、彼の胸に飛び込んだ。
「抱きしめて……!」
強い力で、アルフォンソ様の腕が私を抱きすくめた。彼の体温、心地よい匂い、トクトクと脈打つ鼓動。その全てを、私の記憶の奥深くに焼き付けるように、強く、強く抱き締め合う。言葉はいらなかった。
翌朝、まだ東の空が白み始めたばかりの早朝、アルフォンソ様はフェラーラを旅立った。
私は部屋の窓から、彼が去っていく街道を遠く見つめるだけで、見送りには行かなかった。
だって、約束したのだから。
(さようなら、私の初恋……)
私たちは、必ずまた会える。違う形で、もっと強くなった私で。絶対に。
――もう二度と、誰かの人生を壊してしまわないように…。




