3.小さな別れ
私が九歳になって間もなくのこと。
お兄ちゃまが、ピサの大学へ留学すると決まった。
それは、教皇庁での立場を強めるための、お父ちゃまからの絶対命令だった。
「嫌だ……。俺は行かん。ルクレツィアを置いていくなど、絶対に嫌だ!」
出発の前夜、お兄ちゃまは部屋に引きこもって絶望していた。
いつもは冷酷で大人びているお兄ちゃまが、今夜はまるで子供のように泣きそうな顔をしている。私は寂しくて胸が張り裂けそうだったけれど、ぐっと涙をこらえた。
私はみんなを癒やす笑顔の天使になるって決めたのだ。
「お兄ちゃま、お勉強がんばってね。これ、お守り!」
私はいっしょうけんめい作ったヘタくそな刺繍のハンカチを差し出し、にぱっと満面の笑顔を浮かべてみせた。
「ルクレツィア……っ! お前というやつは、なんて健気な天使なんだ……!」
「お兄ちゃま…。やっぱり、本当はやだ…。行かないで、ルクレツィアの側にずっといて!行っちゃやだー!」
私は堪えきれずにお兄ちゃまに抱きつきわんわん泣いた。お兄ちゃまもボロ泣きしながら私をぎゅっと抱きしめ、「すぐに帰ってくるからな!」と何度も私の額に口づけを落として旅立っていった。
それから1年後。
待ちに待った長期休暇。ボルジアの屋敷の前に大きな馬車が到着した。
扉が開いた瞬間、中から色とりどりのお菓子の箱や、見たこともないほど美しいドレスの生地、異国の珍しい絵本が、ガラガラと雪崩のように崩れ落ちてきた。
「ルクレツィア! 会いたかったぞ!」
馬車から飛び出してきたお兄様は、家臣たちが「若様、留学先で勉強もせずに、街ごと全部買い占めたのでは……?」とドン引きするのを華麗に無視し、私を抱きしめようとして…動きが止まった。
「ルクレツィア…ルクレツィアなのか!?たった一年でこんなに美しくなって…」
「お兄様、お帰りなさい!会いたかったー!」
淑女教育では走っちゃダメと教わったけれど、そんなの関係ない!私はお兄様に飛びつき抱きついた。いつもなら痛いぐらいギュッと抱きしめ返してくれるのに、お兄様は動かない。
「お兄様…?」
不思議に思って顔を見ると、お兄様は瞳を潤ませてほぅっと熱く息をついた。
「…愛しいルクレツィア、今帰ったよ。会いたかった…。休暇は二ヶ月あるんだ。毎日一緒にいられるぞ」
「嬉しい!お兄様とまた一緒にいられるのね! ねえ、ピサの学校や街のこといっぱい教えてね? あ、でも昼間はお兄様とお散歩とかお祭り見物とかで忙しいから、お話は夜ね。 今夜、一緒に寝てもいい?そうしたら夜が明けるまでずっとお話できるわ!」
「ああもちろんだ、美しいルクレツィア。二ヶ月間、片時だって離さない。 ……あっ、そうだ。見ろ、お前が恋しくてな、ピサの街にある可愛らしいものをすべて買い占めてきた!」
「わあぁ素敵! お兄様、ありがとう!」
屋敷の広間が足の踏み場もないほどのお土産で埋め尽くされる中、お兄様は誇らしげに一冊の美しい本を私の手元に置いた。金箔で飾られた、古いラテン語の詩集だった。
「これはまだお前には難しいが、美しい愛の詩がたくさん載っている。いつか俺が教えてやるからな」
「愛?素敵な王子様とお姫様が出てくるお話?」
「…合ってるが、少し違うな。まあお前にはまだ早いか。 次の休暇のときに、お前がもう少し大人になってたら教えてやる」
お兄様は苦笑いして、ギュッと抱きしめてくれた。
その夜、私はお兄様の膝の上にちょこんと座り、お土産のドラジェを彼の口へ「あーん」と食べさせてあげた。
お兄様は世界一幸せそうな顔でそれを噛み締め、私の細い金髪を、まるで壊れ物を扱うように優しく、愛おしそうに撫でる。
暖炉の火が静かにパチパチと爆ぜる、あまりにも甘くて平和な時間。
お兄様は私の小さな手をそっと包み込み、その黒い瞳の奥に、じっと熱い炎を灯しながら囁いた。
「ルクレツィア、愛してる。どうか覚えていてくれ。お前は俺にとって唯一無二の愛だ」
「うん! わたしもお兄様がだーいすき!」
私は無邪気にお兄様の首にしがみつき、にぱっと笑い返した。
お兄様の言葉が、兄というよりむしろ、男としての熱さを孕んでいることを知らずに。
この時もらった詩集が、のちに私が秘密の指輪を作るきっかけになるなんて――この時のお兄様は、夢にも思っていなかっただろう。




