2.最強の笑顔
「お兄ちゃま、お兄ちゃまー!」
私は短い足をいっしょうけんめい動かして、廊下をトコトコと走っていた。
お目当ては、少し前を歩いている大きなお兄ちゃま――チェーザレだ。
今日のお兄ちゃまは、まわりの大人たちをものすごい目つきで睨みつけていて、とっても不機嫌そう。
「使えぬ奴らめ。我が家の足を引っ張る者は、その首をはねて庭の肥やしにする他ないな」
「ヒィッ……! お、お許しを、チェーザレ様……っ!」
大人たちはみんな、青ざめてぶるぶる震えている。お兄ちゃまが怒ると本当に怖いのだ。
でも、私には関係ない。だってお兄ちゃまが大好きだから!
「お兄ちゃま、待ってぇ!」
急ぎ足のお兄ちゃまのうしろ姿を追いかけて、そのひらひら揺れるかっこいい黒マントの影を、私は小さな足でふんづけた。
あ、と思った時には遅かった。勢いが余って、お兄ちゃまのお尻のあたりに、顔からふすっとぶつかってしまう。
「……チッ、誰だ、死にたい奴は――」
お兄ちゃまが、氷みたいに冷たい声で振り返る。その目は、まるで獲物を切り裂く鷹みたいに鋭かった。
まわりの部下たちが「終わった……」と絶望の表情で目をつぶる。
だけど、私はちっとも怖くない。
痛くもなかったから、私はお兄ちゃまを見上げて、にぱっと満面の笑顔を浮かべてみせた。
「えへへ、つかまえた!」
「…………っ」
その瞬間、お兄ちゃまの冷たい仮面が、信じられないくらいの音を立てて崩れ去った。
さっきまで世界を呪いそうな顔をしていたお兄ちゃまの目元が、一瞬でふにゃりと緩む。
「……ルクレツィア。お前、またそんなに走って……転んだらどうする」
お兄ちゃまはため息をつきながら、私をひょいと両腕で抱き上げた。
高い高い。視界が高くなって私が喜ぶと、お兄ちゃまは私を愛おしそうにぎゅっと抱きしめ、自分の広い胸に私の顔をうずめさせた。大人たちの「あの若様が……!?」という驚愕の視線が刺さるけれど、お兄ちゃまは知らんぷりだ。さっきまでの不機嫌はどこへやら、お兄ちゃまは私にデレデレの、優しいお兄ちゃまに大変身してしまった。
「よし、兄様とお前の大好きな甘いお菓子を食べに行こう。何がいい?ドラジェかマカロンか………おい、そこの使えない奴ら。今回は我が天使の笑顔に免じて許してやる。消えろ」
お兄ちゃまがそう告げた瞬間、這いつくばっていた部下たちの顔が、一斉に歓喜に輝いた。彼らは心の中で、私に向かって五体投地して拝み始める。
(((天使様だ! 天使様が来たぞ! 助かったーーー!!)))
涙を流して無音で叫びながら、クモの子を散らすように逃げていく部下たち。私はお兄ちゃまの腕の中で、良かったね、とその後ろ姿を見送った。
「お兄ちゃま、お父ちゃまは? お父ちゃまにも会いたいの。いーまー、あーいーたーいーのー!」
私はジタバタと短い足を動かして駄々をこねた。
「父上は今、とても大切な会議中だ。機嫌が悪くて怖いぞ?」
「やだ、お父ちゃまがいいの!」
私がぷくーっと頬を膨らませてみせると、お兄ちゃまは「弱ったな」という風に眉を下げた。私の涙目には、世界一残忍なこの兄も勝てないのだ。
「……はぁ、仕方がない。俺の可愛い天使の頼みだからな。だが、兄様の側を離れるなよ」
「はーい!」
お兄ちゃまは私をしっかりと抱き直すと、大人の家臣たちが青ざめて止めるのを無視して、父上の重々しい書斎の扉を力任せに押し開けた。
部屋の中は、お兄ちゃまが言ったとおり、大噴火と大嵐の真っ最中だった。
大きな机の向こう側で、偉い帽子をかぶったお父ちゃま――枢機卿ロドリーゴが、真っ赤な顔をして部下たちを怒鳴りつけている。
「我がボルジア家を愚弄した対価、その命で支払わせてくれるわ!」
「ヒィッ、お許しを……!」
だけど、お兄ちゃまの腕からトントンと床に降りた私は、そんなお父ちゃまに向かって迷わずトコトコと駆け寄った。
「お父ちゃまーーっ!」
「ぬ!? 誰だ、会議中に不届きな……っ、な、なんだと!?」
怒り狂って振り返ったお父ちゃまの視界に、私が飛び込む。お父ちゃまは持っていた羽根ペンを派手に床へ落とし、その恐ろしい目が、みるみるうちに信じられないくらい丸くなった。
私が机の端にしがみつき、つま先立ちになって「にぱっ」と笑いかけると、お父ちゃまの顔中のシワが、まるで温かいハチミツみたいにふにゃふにゃに溶けていく。
「おおお、我が愛しのルクレツィア! 世界で一番美しい私の小さな天使よ!!」
さっきまで部下の命を奪おうとしていたお父ちゃまが、信じられないスピードで机を回り込み、私を床からすくい上げて頬ずりをしてきた。でも、おヒゲがちくちくして痛い。
「お、お父ちゃま、おひげ、いたい!」
「おお、すまん!痛かったか!もう一度綺麗に剃ってくるからな。 おいお前たち、今すぐ隣国から最高級の蜂蜜を買い占めてこい! 今夜の晩餐はルクレツィアの好きなもの以外並べるな! 泣かないでおくれ……!」
床に這いつくばっていた部下たちが、「あの冷酷なロドリーゴ様が……!?」と、お化けでも見たかのような顔でこちらを見ている。
部屋の隅で、お兄ちゃまが「俺の手柄です」と言わんばかりに、ふんと鼻を鳴らして腕を組んでいた。
お父ちゃまから蜂蜜をたっぷり練りこんだ甘いケーキをもらいながら、私は小さな胸で誇らしく思っていた。
(私がにぱっと笑うと、お兄ちゃまもお父ちゃまも、みんな優しくなる。私の笑顔は世界一最強。だから私、これからいっぱいいっぱい笑ってみんなを幸せにしてあげるんだ!)
幼い私が決意した、笑顔の誓い。
この時はまだ知らなかった。
私の笑顔で、怖いお兄ちゃまや、気難しいお父ちゃまの心がふにゃふにゃに溶かしてしまうこの特別な力が、のちに私自身の人生を大きく左右することになるなんて――。




