22.果てなき暗雲
健康を取り戻し始めた私は、お兄様が看病に来てくれたことで、懐かしいローマ時代のことを思い出していた。
(モッツァレラチーズ……美味しかったなぁ。また食べたいわ……)
ふつふつと湧き上がる食欲とアイデア。私は居ても立ってもいられなくなり、執務室の殿下の元へ駆け込んだ。
「殿下、水牛ですわ!」
「水牛……? 落ち着け、ルクレツィア。順序立てて説明してくれ」
突然瞳を輝かせ走ってきた私に、殿下は目を丸くしている。
「水牛で開墾です! 北の広い湿地帯ですわ! 普通の牛馬では足を取られて無理ですが、水牛なら平気です! それに! 水牛の乳からはモッツァレラチーズを作れますの! ああ、食べたい……!」
「君がこんなに興奮するのは珍しいな」
「あら…コホン、失礼いたしました」
でも私の勢いは止まらない!
「でも殿下、本当に美味しいんですのよ! パイに詰めて揚げたり、ステーキの上にかけてソースにしたり、お砂糖をかけてそのまま食べても絶品ですの!温めるとトロリと伸び、冷たいともっちりしていますの! ローマではよく食べていましたけれど、フェラーラには流通していませんでしょう? 北の湿地の一部を水牛の放牧地にしてチーズを生産すれば、ミラノやヴェネチアに輸出できますわ。塩の時と同じように質の良いものを高値で売ることができれば、また国庫収入が増えます! 一挙両得どころか三得、いえ、私も嬉しいから四得ですわね!」
「そんなに美味いものなのか……? それで、水牛を買う金はどうする?」
「成功するかどうかも分かりませんから、国庫からは出しません。私が個人で先行投資しますわ。よろしいかしら、殿下?」
私の勢いに押されていた殿下だったが、ふっと目元を緩めた。
「……完全復活したな、ルクレツィア。アロンゾの件からこっち、どこかずっと俺に遠慮していただろう? 戻ってきてくれて嬉しいよ、戦友」
「ふふっ、ただいま戻りました、戦友の殿下。それで……最初にできたチーズは、私が真っ先に食べてもよろしいわよね?」
「ハハハッ! まだ言うか。分かった、進めてくれ」
「まだですわよ、殿下! あの湿地は水牛だけに使うには広すぎます。泥でも育つ亜麻を栽培したらどうかと思うのです。亜麻はリネンの材料ですから、これも高く売れますわ。売るだけではなく、殿下の軍隊にも潤沢に使っていただけますし、これも一挙両得ですね。そうね、先の戦争での難民の内、農民をここに移住させれば三得ですわ!それと…」
「分かった分かった、好きに進めて良い、ルクレツィア。あの湿地は君に任せる」
「ああ、楽しみ! あの美味しいモッツァレラチーズがまた食べられるわ!」
子供の頃は楽しかったな、なんて感傷に浸っていた数日後のことだった。
私の元に、あまりにも衝撃的な知らせが飛び込んできた。
「ルクレツィア様! 急報にございます!」
部屋に駆け込んできたのは、見覚えのある、お兄様の側近だった。泥と埃に塗れた旅装束で床に伏し、激しく肩を揺らしている。
「ルクレツィア様……チェーザレ様が投獄されました!」
「……え!? どこで!? 何故!?」
「投獄先は、遠く離れたスペインにございます。チェーザレ様は教皇国を乗っ取ろうとして失敗しました。……いえ、正確に申し上げると……申し訳ありません! 私たち家臣一同が、土壇場でチェーザレ様を裏切ったのでございます……!」
青ざめた顔で床に額を擦りつける男の報告に、私は耳を疑った。
「……どういうこと? 何があったのか、最初から隠さず話しなさい!」
「はっ……初めは順調でございました。ロドリーゴ教皇が崩御され、選出された新教皇は我らボルジアと敵対する派閥の男。しかもロドリーゴ様とは比べようもなく質が悪い、強欲な暴君です。新教皇は金に汚いばかりか、民衆への惨烈な虐待を始めたのです。耐えかねた民衆の声に押され、チェーザレ様は教皇国の奪還を決意されました。我ら家臣も『これぞ主君の再起』と固く結束し、全員が賛同したのです」
「……そこまではわかるわ。それで、何故お兄様を裏切ったのです!?」
「……それから快進撃が続きました。ですが、月日が経つにつれ、チェーザレ様のご様子に翳りが見え始めたのです。行軍の合間、ふと言葉を失って遠くを見つめておられることが増え……夜になると、決まってルクレツィア様からの古い手紙を取り出し、何かに憑かれたように読み返しておられました。我々はいつもの主君の癖だと、さして気にも留めておりませんでした。……それが、決戦前夜、ついに限界を迎えたのです。 チェーザレ様は突如として本陣で立ち上がり……」
「お兄様が、どうされたの!?」
「……『ルクレツィアがいない!』と叫ばれたのです。『ルクレツィアを助け出しに行く! ローマなどどうでもいい、真の敵はフェラーラだ!』と血走った目で声を上げられ……」
「はぁ!?」
淑女らしからぬ大声が、自分でも驚くほど部屋に響き渡った。
「それからのチェーザレ様は、明日の決戦のことなど頭から消え失せたかのように、穴が開くほどフェラーラの地図とルクレツィア様からの昔の手紙を凝視し続け……ここをどう攻め落とすか、どうやってフェラーラから姫様を強奪するか、その算段ばかりを狂気じみた様子で呟いておられました。我々家臣がいくら諫めようと、言葉すら耳に届かぬご様子で……。新教皇を倒し領民を救う聖戦ならば、我らは命を捨てて従います! ですが……あれは……ただの執着による不毛な私闘。従うわけにはまいりませんでした……! 申し訳ありません! 裏切った代償はこの命でお支払いいたします、どうかお切り捨てください……!」
男はボロボロと涙を流し、首を差し出すようにして深く伏せた。
「……他の家臣たちはどうしたの?」
「そのまま逃亡した者もおりますが、大部分は自らの不甲斐なさを恥じ、ここフェラーラの城外でお沙汰を待っております」
「……そう。それで、兄は今どんな様子なの?」
「それが……牢にお入りになってからも、錯乱されたご状態のまま……ずっと『ルクレツィア、ルクレツィア』とお名前を呼び続けていらっしゃいます。貴族牢で、家臣の一人が侍従として身の回りのお世話をしており、衣類や食事、衛生状態には問題ありません。それと…貴族であれば面会も叶うのですが……ルクレツィア様、いかがされますか?」
男の哀切な問いかけに、私は胸を抉られるような痛みを覚えながら、静かに首を横に振った。
「そう……教えてくれてありがとう。ですが、面会には行きません。私はフェラーラの公子妃。今は国を離れることはできないわ。……あなた達家臣については、私に処分を決める権限はないけれど……あなた自身はどうしたい?」
「できることならば……ボルジア最後の姫様であるルクレツィア様にお仕えし、この命をフェラーラのために捧げたく存じます」
「そう。今すぐには決められないわ。まずは長旅の疲れを癒やし、沙汰を待っていてちょうだい」
「はっ……! もったいなきお言葉。畏まりました、ルクレツィア様。これにて失礼いたします」
報告者が立ち去り、しんと静まり返った部屋で、私はただ呆然と立ち尽くしていた。
「……アンジェラ」
「はい……ここにおります、ルクレツィア様……」
「お兄様が……」
「はい……」
「本当に酷いお兄様だったわ。アルフォンソ様を暗殺しようとするんだもの。でも……あなたも知っているでしょう? 私にはこの上なく優しい兄だった。先日私が熱病で死にかけた時も、無理を押して看病してくださったわ。良し悪しは別として、お兄様のおかげで私は生きる気力を取り戻した。それだけじゃないわ。芸術論議も、街の視察も、モッツァレラチーズも……全部お兄様のおかげで乗り越えられたのよ。こんなに大きな恩を受けておいて、面会にすら行かないなんて……私、なんて酷い女だと思うでしょう……!?」
溢れ出す涙を止めることができず、私は膝からその場に崩れ落ちて号泣した。
「……ルクレツィア様……今は思う存分お泣きください。私がずっとお側に付いておりますから。……ですが、泣き止んだらご自身の将来のことをお考えください。私たち二人とも、ロドリーゴ教皇殿下に続き、チェーザレ様という最強の後ろ盾を失ったのです。これから私たち自身、どうなってしまうことか……」
「もう少し……泣かせて。今は、何も考えられないの……」
お父様とお兄様からずっと逃げ出したかった。でもそれは、お二人が元気に活躍している前提だった。今やお父様は居ない。気付いていないふりを貫いてきたけれど…私はこんなにもお兄様を頼っていたのだ。乱心し、その上投獄され、最早お兄様は私を追いかけて来ることはない。
安心しても良いはずだ。何度そう思っても、床がすっぽり無くなり、奈落の底に落ちて行く感覚に慄いた。
私はアンジェラの温かい腕の中で、声を上げて泣き続けた――。




