21.ボルジアの影
それから一年ほどは、表面上は穏やかな平穏が続いていた。
戦争中に自粛していたアロンゾとの週一度の面会も復活。なんと、殿下は本当に彼から詩を学んでいるらしかった。
「政治や戦争のことは機密だからアロンゾには漏らせない。もっぱら愛の詩を添削してもらっているのだ。師匠の合格点が出たら、君に贈ってやろう」
……ですって。殿下、そこは亡きアンナ様に捧げるところですわよ、と思いつつも、その無骨な優しさが可笑しくて温かかった。
今のフェラーラの課題は、感染病対策と、いつか来る飢饉に備えての農地拡充だ。昼は、街の衛生環境を改善する為の視察に駆け回り、新しい農地をどこに、どのような方法で開墾するか、毎晩遅くまで殿下と話し合った。忙しくても充実の日々。
でも、案外私の身体は脆かった。睡眠不足が続き、体力が落ちていたのだろう。ある日私は熱病に倒れてしまった。スラム街の視察で感染したらしい。
(もう、疲れてしまったわ……。私がいなくなれば、お兄様もフェラーラを攻めに来ないでしょうし、そうなれば殿下の懸念事項も減る。いっそのこと、このままお父様の元に召されたい……)
高熱による暗い思考の中、一進一退の病状が続いていたある夜。
フェラーラの城に、ボルジアの死神――お兄様が単身乗り込んできた。
「ルクレツィア! 兄様が来たぞ!」
(え……お兄様……? 熱が見せる幻影かしら……)
「ルクレツィア、分かるか? ほら、兄様だ。薬を飲むんだ、侍医が困っているだろう。……しょうがない、昔のように兄様が飲ませてやろう」
体を抱き起こされ、唇に薬を流し込まれる。
(ああ、お兄様の匂いだわ……。お兄様の腕の中は安心する。夢なら醒めないで……)
「熱に浮かされているようだな。可哀想なルクレツィア、兄様が来たからもう大丈夫だ。片時も側を離れないぞ。安心しろ」
「うん、お兄様。ずっといてね、手を離さないで……」
「ああ、愛しいルクレツィア。ずっと握っててやる。少し眠れ」
「うん、お兄様。……起きても、ここにいてくれる?」
「ああ、もちろんだ。安心して眠れ」
……ふと意識が浮上すると、枕元で低く尖った二つの声が火花を散らしていた。
「ルクレツィア、起きたか。具合はどうだ?」
「公子、ルクレツィアは俺の大切な妹だ。俺が看病する。貴公は政務でもされてはいかがか?」
「……ッ! ルクレツィアは俺の妻だ。俺が看病する。チェーザレ殿こそ、ローマに帰られてはいかがか?」
「ルクレツィア、兄様が良いだろう?」
「うん、お兄様がいい。ねえ、ケンカしちゃやだ」
「ああ、ああ悪かった。もう喧嘩しないから安心しろ。 兄様がいてやるからな!」
「うん……」
「もう少し眠れ」
「うん。お兄様、眠るまでお話しして……。ピサの大学は楽しい……?」
「昔の夢を見たのか……ああ、ルクレツィア、楽しいぞ。お前が好きそうな綺麗なものが街に溢れている。リボンや絹織物……」
――夢の中で、十歳の私と十五歳のお兄様が仲良く笑い合っている。
『……俺が絶対に助け出してやるからな。待ってろ』
(……ッ!?)
頭の奥で警報が鳴り響き、私は完全に覚醒した!
(夢じゃない! お兄様が本当にここにいる! まさかもうフェラーラを攻め落としたの!? ううん違うわ、殿下がいらっしゃるもの。じゃあ何故……!?)
「愛しいルクレツィア、目が覚めたか。熱は下がったな、良かった」
「お兄様……どうしてここに?」
「覚えていないのか。お前が高熱で倒れたと聞いたから、看病に来たんだ」
「ローマは……?」
「大丈夫だ、家臣達に任せてある。俺一人で飛んできた」
「まあ! お父様が亡くなってローマも大変でしょうに、ご無理されたのね……。もう大丈夫ですわ。お兄様のお陰ですっかり元気になったみたい!」
私は起き上がり、満面の笑みを咲かせた。
「そうかそうか! 良かったな、可愛いルクレツィア。何か欲しいものはないか? お前が望むなら、世界を滅ぼしてでも手に入れてきてやるぞ!」
「まあ、お兄様。そんな物騒なことを仰ってはいけませんわ。私は、お兄様がお元気でいてくだされば他に何も要らないの。お兄様が倒れたと聞いた時、世界が終わるかと思って恐ろしかった……。私は大丈夫、安心なさって。それにしてもお兄様、旅装束のままでお顔も埃だらけだわ。休息もせずに看病してくださったのね……。こんなに愛されて、ルクレツィアは幸せですわ」
熱烈に愛を語ると、お兄様は満足そうに目を細めた。
「うん、愛しているぞ、ルクレツィア。……これだけ気力が戻ればもう大丈夫だな。俺はローマに帰る。公子、妹をよろしく頼む」
「……っ! ああ、チェーザレ殿。任せてくれ」
「本当に任せていいんだな? またこんなことがあれば、次こそ容赦しない。命がけで妹を守ることだ」
「まあお兄様、そんなに殿下を脅かさないで? 次からは私もしっかり気をつけますから」
「ああ、愛しいルクレツィア。本当に気をつけるんだぞ。では帰る。元気でな」
風のように去っていったお兄様の背中を見送り、私は大きく息を吐き出した。
(はぁーっ! 無事にお帰りになったわ……! 上手く振る舞えたかしら? それにしても、お父様の元になんて行ってる場合じゃないわ。そんなことになったら、お兄様が殿下を殺しにやって来る! 私、まだボルジアの呪いから逃げ切れていなかったのね……!)
「殿下、ご迷惑をおかけしました。兄が失礼なことを申しまして、本当に申し訳ありません……」
「いや、問題ない。義兄上が城に乗り込んで来た時は心底驚いたがな。戦場の鬼のような形相で『俺のルクレツィアはどこだ! 案内しろ!』とすごい剣幕だったが……枕元に座った途端、みるみる顔がふやけて、甘い声で君を抱きしめて……その変貌のほうがよっぽど驚きだったよ」
殿下は呆れたように苦笑いを浮かべた。
「改めて実感したよ。君は義兄上に愛されているんだな。ローマではいつもああだったのか?」
「ええ、あれが日常です。父の手紙にあったとおり、兄はどんなに怒っていても私には笑顔で優しくしてくれました」
「だが、あれは……兄妹愛というより……」
「そうなのです。恥を承知で申しますが……兄が前夫の暗殺を計画した理由は、私がアルフォンソ様を愛したから。それで恐ろしくなり、半ば亡命するような覚悟で殿下のもとに嫁いでまいりました。思いの外、殿下には良くしていただき、当初は驚きましたわ。ですが……殿下をボルジアの闇に巻き込んでしまい、大変申し訳なく思っております。改めて謝罪いたします」
深々と頭を下げる私に、殿下は温かい手を差し伸べた。
「そうだったのか……。だが、君はそれ以上にこの国に貢献してくれた! すでに君は、国にとっても俺にとっても、かけがえのない女性だ」
「嬉しゅうございます、殿下。精一杯励んだ甲斐がありますわ。これからもよろしくお願いいたします、戦友の殿下」
私が微笑むと、殿下は力強く握手を交わしてくれた。
「こちらこそよろしく頼む、頼もしい戦友!」
もう私は一人ではない。
愛する元夫を守り、頼もしい戦友とともに歩む。
私、ルクレツィア・ボルジアの本当の人生は、このフェラーラで輝き続けるのだ――。




