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20.戦友の帰還

フェラーラへ嫁いできてから一年半。ローマの父からの手紙は、毎月欠かさず私の元へ届けられていた。


『ルクレツィア、お前がいないと寂しい』

『少しでもいいから顔を見せに帰ってきておくれ』

『チェーザレも寂しがっている。お前の前でだけは笑っていたが、今は死神そのもののようだ』

『チェーザレが苛立っており、家臣達も困り果てている。あいつを宥めに帰ってきてくれないか?』

『お前がいた頃のローマが無性に恋しい。わしも歳を取ったな』

『チェーザレの歯止めが効かなくなっている。わしでは止められん。帰ってきてあいつを助けてやってくれ』

『最近、体調が良くない。最後にひと目だけでも会いたい。どうか帰ってきてくれ』


手紙に走る滲んだ文字を追うごとに、お父様の悲痛な叫びと老いが痛烈に伝わってくる。


……でも、私はもうローマには帰らない。帰るわけにはいかないのだ。


一度帰ったら最後、執着に囚われたお兄様は私を二度と外に出さず、屋敷の奥深くに閉じ込めるだろう。もしかしたら、私がフェラーラを留守にした隙を突いて、この国を攻め落とすことすら考えかねない。


お父様に会いたい。お兄様にも会いたい。どんなに禍々しく毒に満ちていても、世界でたった一つの血の繋がった愛する家族なのだから。


けれど、私の居場所はもうローマではない。私が命を懸けて守るべきは、ローマ市民ではなくフェラーラ国民なのだ。


心と立場が力任せに引き裂かれる思いで綴る返事は、いつも変わらない。


『――大変忙しくしており、帰れません』



そんな、胸を抉られるような日々を送っていたある日のことだった。


「急報です! 教皇ロドリーゴ様が崩御されました!」


瞬間、世界から色が消えた。あまりの衝撃に、指先から羊皮紙が滑り落ちる。


(お父様…。こんなに急に逝ってしまうなんて…。最後に会いに行けなくて、ごめんなさい。ご冥福をお祈りいたします。でもそれより重要なのは…お兄様を止めるものが無くなってしまった!)


「お兄様は!? お兄様は今どこで何をしているの!?」


「チェーザレ様は、ロドリーゴ様と同じ流行病で臥せっておられます。彼も命の瀬戸際です……」


(お兄様……! 残酷で恐ろしい人だけれど、私の愛するお兄様……! どうかご無事で乗り切って! お父様亡き後、私にとっての家族はお兄様しかいないのよ……!)


呆然と息をのむ私に、使者が重々しい表情で問いかけた。


「チェーザレ様はあなた様の名をずっと呼んでおられます。ローマに戻られますか?」


「……いいえ、戻りません。私はフェラーラの公子妃。今はフェラーラも存亡の危機よ。備えなければいけません」


そうなのだ。現在、北の隣国ヴェネチアが怒涛の勢いで押し寄せ、フェラーラはまさに戦争の真っただ中。公爵殿下は老い、少し前からアルフォンソ殿下が摂政として政務を行っている。その殿下が軍の指揮を執るため前線に出て不在の今、公子の妻である私がこの国を守り抜かねばならない。

たとえ肉親が危篤であっても、国を空けるわけには絶対にいかないのだ。


(ああ神様、どうか兄をお救いください。憎いけれど、私にとっては大切な大切な家族なのです。どうか私の祈りをお聞き届けください……!)


だが、涙を流して祈ってばかりもいられない。やるべき仕事は山のようにあった。


まずは、戦地から流れてくる難民の救済だ。

突貫工事でなんとか開戦までに完成させた「出島要塞」のお陰で、過去の戦争時より民の被害は格段に抑えられたけれど、それでも家や田畑を焼かれた国民は存在する。逃れてきた民たちを温かく都に迎え入れ、衣食住を手厚く充実させた。若い者には適性を見ながら仕事を与え、生活の糧を得られるように工夫した。幸いなことにここ何年かは飢饉がなく、備蓄食料が豊富だったからこそできたことだった。神に感謝しなければ。


次は、周辺諸国への牽制。


『親愛なるマントヴァ公へ


現在、我がフェラーラは隣国ヴェネチアに攻められております。彼らの狙いは、我が国の肥沃な農地。彼の国には海はあれども農地が少なく、食糧を輸入に頼っていることはご存じのことと思います。加えて塩の問題もありましょう。元々、彼の国は海水から作った塩を諸国に独占販売し、収入を得ておりましたが、我が国フェラーラはそれより上質な塩を作ることに成功し、今ではヴェネチア産のものより遥かに高値で取引されております。


彼らは自ら努力することを怠り、足りないものを強奪せしめんと画策しているのです。もしフェラーラが彼の国に飲み込まれた場合、どうなるでしょう? 彼らは既に手にしているものに飽き足らず、次は貿易に必要不可欠な通行料削減の為、御国の大きな収入源である運河を狙うでしょう。ましてや、その時には我が国最強の大砲も全て手に入れているのですから、御国も無事では済みますまい。


目先に囚われず、彼の国に肩入れすることなく静観されることをお勧めいたします。我が国を助けることは、御身を助けるのと同義なのですから。


フェラーラ摂政代行 公子妃ルクレツィア』



同じ趣旨で相手国の弱みを突く手紙を、東、西、南の隣国、さらにはその隣国へも休む間もなく送り続けた。


そして最後に、ボルジア流謀略の真骨頂――内通者の炙り出しだ。

根回しの手紙を送った国からの返信が来るたび、

「西の国から援軍を頂けるそうよ! しかも二週間以内ですって!」

などと、怪しい動きを見せる貴族たちの前でわざとらしく歓声を上げた。効果は劇的だった。偽情報に踊らされたヴェネチア軍が動きを変えるたび、内通していたいくつかの貴族家が、密かに粛清された。


そして半年も経った頃、ようやく殿下が帰還された。


「今戻ったぞ、ルクレツィア! よくやってくれた! 報告は全て受けている。今回は間違いなく君のおかげで乗り切れた! 礼を言う、ありがとう!」


「ご無事で何よりでした、殿下。少しはお役に立てたようで嬉しゅうございます」


「少しどころじゃない! 君が提案してくれた出島要塞が本領発揮してくれたおかげで、民たちの損害は過去に無いほど最小限で済んだ。それに諸国への根回しや内通者の炙り出しも聞いたぞ。今回の勝利の半分以上は君の成果だ!」


「ありがとうございます、殿下。……ですが油断は禁物です。兄チェーザレが病から奇跡的に回復したそうです。兄は、私を連れ戻す方法を密かに模索している節があります。殿下、もし私を差し出すことでローマとの戦争が避けられるならば、迷わないでください。私は、とうに覚悟ができています」


まっすぐに見つめる私に対し、殿下は一瞬の躊躇もなく即答した。


「君は戻りたいか?」


「いいえ……でも」


「ならば戻さない。以上だ」


(え? 殿下、そこはフェラーラが最優先でしょう? 私は、殿下にご恩返しできるならそれでいいのに……!)


想定外の力強い即答に、私は呆然と殿下の揺るぎない瞳を見つめ返すのだった。

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