17.愛と偽り
暗く静まり返った自室で、私は冷え切った己の手先を固く握りしめていた。
耳の奥で、詩人の美しい歌声と、重なる爪弾きの音が何度もリフレインする。
(アルフォンソ様はどんな思いで来てくださったのかしら? そもそも、殿下が招いたと仰っていたわ。では、招かれなければ、私に会うつもりすら無かったの……? ああ、分からないわ。一人で考えても答えなんて出るはずがない。まずは……話してみなければ……!)
湧き上がる動悸を必死で抑えながら、私は手紙をしたため、アンジェラに届けてもらった。
そして数日後の夜。城下の喧騒から少し離れた、ひっそりと佇む隠れ家で、私たちは奇跡の再会を果たした。
扉を開けた瞬間、そこに立つ男が仮面を外す。
「ルクレツィア! やっと会えた……会いたかった!」
「アルフォンソ様……!」
溢れ出る涙をそのままに、私は彼の胸へと飛び込んだ。伝わる鼓動と、変わらない愛しい体温。私は必死でその背中に腕を回した。
「あれから……どうされていたのですか? ずっとこのフェラーラに……?」
「うん。あの夜、君の手引きでナポリに向かってたんだけど……山中で賊に襲われてしまってね。供ともはぐれてしまって……。そうこうしていたらチェーザレ殿の配下に見つかってまた襲われて……。なんとか死に物狂いで逃げ切って、そのままフェラーラに直行したんだ」
「やはり兄が……! でも、ご無事で本当に良うございました……!」
「うん、ありがとう。君がいち早く危険を知らせて逃がしてくれたおかげだよ。それに用意してくれた資金も手配も完璧だったから、何不自由なく過ごせたよ」
彼の無事を神に感謝しつつ、私は胸に引っかかっていた疑問を尋ねた。
「それで……何故、『仮面の詩人』などに?」
アルフォンソ様は困ったように眉を下げ、どこか悪戯っぽく苦笑いを浮かべた。
「この顔は案外知られているからね。せっかく公認の『死人』になったのに、万が一知人に出会って生き返る羽目になると困るだろ?」
昔と変わらないお茶目な笑みを浮かべた後、彼の澄んだ瞳が甘く繊細な色を帯び、じっと私を見つめた。
「それに、君に見つけて貰うには特別な存在になって名を挙げないと、と思ってね。君がフェラーラに嫁いでくると聞いた時は、跳び上がって喜んだんだ。また会えるって!」
「アルフォンソ様……」
涙ぐむ私を、彼は宝物でも扱うかのように優しく、けれど力強く抱きしめてくれた。
「それで? 君の方はどうだい? 公子殿下は無骨だが、君には優しそうじゃないか。……幸せかい?」
「幸せ……。愛される女の幸せは、ローマであなたと過ごしたあの時以来、一度もありませんわ。殿下とは男女の関係はなく、『戦友』ですの。私達はこの国を明るい未来に導くために共闘しておりますのよ。殿下にも『真実の愛』のお相手がいらっしゃいますし」
「……そうか……じゃあ……」
「ええ。ご安心なさって。私の愛はずっと、ここにありますもの。……さあ、今は、今だけは全てを忘れて過ごしましょう」
重なる熱い唇。互いの存在をたしかめ合うような濃密な抱擁の中、私は過酷な日常を忘れ、束の間の安らぎに身を委ねた。
だが、現実は甘くない。
ある日の政務の合間、執務室で書類を整理していると、机の向こうで羊皮紙を検分していた殿下がふと手を止め、静かな視線を投げてきた。
「ルクレツィア、最近は楽しそうだな。良いことでもあったか?」
「ええ、殿下。ご提案した政策が次々と成果を上げ始めて、とても充実していますわ」
私は淑女の微笑みを崩さずに答えたが、殿下は眉を微かにひそめ、じっと私の表情を見つめている。
「……そうか。何かあれば俺に相談するんだぞ。君はフェラーラに必要な人だ。……もちろん、俺にとってもな。形ばかりの夫婦とは言え、君はこの国の公子妃だ。君に何かあれば、国が傾くかもしれない。……戦友の俺をもっと頼ってくれ」
「ええ、殿下。その時にはよろしくお願い致しますわ」
血の気が引いて青ざめた顔を隠すように、私は深く頭を下げた。
(……やはり、勘づいている……? 『戦友を頼れ』だなんて……アルフォンソ様を助けてくださるおつもりなのかしら? ……いいえルクレツィア、まだ駄目よ。殿下も所詮は権力者だもの。いざとなれば、お兄様達と同じように酷いことをするかもしれない。慎重に、どこまでも慎重に見極めるのよ、ルクレツィア……)
昼は国内の視察と民への慈善活動、夕刻には隠れ家での秘めやかな密会、そして夜は殿下との熾烈な政策論議――。一歩間違えれば全てが崩壊する二重生活が続いていった。
そんなある夕刻、隠れ家の部屋で、私は彼の胸に顔をうずめながらぽつりと呟いた。
「アルフォンソ様、私、幸せですわ。あなたといる時だけ、私はボルジアでも公子妃でもなく、ただのルクレツィアでいられる……。このまま、何も変わらず続けていけたら……」
「ああ、ルクレツィア。僕もそう思う。だけど……君は大丈夫かい?」
アルフォンソ様は私の髪を愛おしそうに撫でながら、痛ましそうに私を見つめた。
「ただでさえ、公子妃の仕事だけでも忙しいだろうに、会う時間を捻出するのも大変だろう? 無理をしていないかい? ……殿下の方は大丈夫なのか?」
「……」
「僕はいいんだ。君に僕の無事を知らせることができたし、こうやって再会できた。君と触れ合っていられるのは幸せだけれど……でも、君の健康と安全が何より大事だ。一人で抱え込まないでほしい」
「……無理をしているように見えまして?」
「ああ。今の君は、ローマで僕を逃がそうと必死になっていた時と同じ表情をしているよ。……抱え込まないで、今後のことを一緒に考えよう」
(そうね、アルフォンソ様の仰るとおりだわ。このままじゃいつか破綻する。…現実逃避も程々にしなきゃね)
そして、思いがけない形で道が開かれた。




