14.奇跡の公子妃
ついに記念すべき視察一日目。
都の華やかさとは程遠い、日陰の街区へと馬を進める。
「スラムから始めましょう」
私がそう告げると、同行していた殿下はわずかに眉をひそめたが、何も言わずに頷いた。馬を降りると、泥と腐臭、そして絶望の匂いが立ち込める狭い路地が広がっている。ドレスの裾など一瞬で汚れてしまうような場所だったが、私は裾を軽く持ち上げて、迷わず泥の路地へ足を踏み入れた。
身を縮めて怯える住人たちの中から、小さな子どもの手を引いた痩せた女性へ静かに歩み寄る。
「不足しているものはありませんか? お子さんの食事はどうです? 足りていますか?」
声をかけられた女性は、信じられないものを見るように目を見開いた。
「公子妃様…!尊いお方があたしなんかの話を聞いてくれるんですか……?」
「ええ。あなたは私の大切な民、子供は国の未来。ぜひ健やかであってほしい。国のより良い明日のために、今足りないものを教えて欲しいの。全部は叶えられないけれど、少しでも多くあなた達の希望を掬い取るつもりよ。だから、遠慮なくなんでも言って頂戴」
私のまっすぐな眼差しに、女性の瞳から涙がこぼれ落ちた。
「はい……。子供達に充分食べさせてやりたいんですが、あたしの稼ぎじゃ……」
「そうなの……それはお辛いでしょうね……。教会の炊き出しでは足りないのね?」
「……はい……。炊き出しの日はいいんですが、なんせ回数が少なくて……」
「そう……分かりましたわ。改善できるよう考えます。 教えてくれてありがとう。お元気でね」
温かい言葉を残して隣の路地へ進むと、今度は擦り切れた服を着た母親が縋りついてきた。
「公子妃様、子供が病気なんです……! でも私は働かなくちゃいけないし、ついててあげらんない。もうどうしたらいいのか……」
「教会の療養所には入れないの?」
「前に行った時は満員で断られちまって」
「そうなの……そういう人は他にもたくさんいるの?」
「はい……ここら辺の人達はみんな似たか寄ったかですよ」
「そう……互助ギルドの人は?」
「そりゃ何です? 見たことありませんね」
「……そう。分かりましたわ、少し時間を頂戴ね。できるだけ早くなんとかするわ」
――その日から、私の噂は怒涛の勢いで国中を駆け巡り始めた。
『私たちのことを嫌がらずに話をよく聞いてくださる』
『あたしなんかの子供の為に涙を流してくださった』
『公子妃様は、天から舞い降りた天使様だ』
寄り添い、聞き取りを続ける私の背中を、アルフォンソ殿下は言葉を失ったように見つめていた。
(なんて女性だ……! 単に慈悲深いだけではない。民の心を一瞬で鷲掴みにしおった。ボルジアの毒婦などと噂され、いや、それは間違いだったが…初夜の時には計算高く隙のない女と思っていたが、それだけではない。これほどまでに民を惹きつける政治のあり方があるというのか……!)
「次は孤児院ですわね」
施設に到着すると、私は格式ばった挨拶を一切捨て、子どもたちの目線に合わせて屈み込んだ。
「皆さんこんにちは! 私はルクレツィア。今日は皆さんと一緒に遊んでおやつを食べて、お話をしたくて来ました。よろしくね! 何して遊ぼうかしら?」
ぱっと表情を輝かせた子どもたちが一斉に群がる。
「キレイな公子妃しゃま!こんにちは! 鬼ごっこやりたい!」
「いいわね! 最初は私が鬼よ。みんな逃げてー!」
「きゃーっ!」
私がドレスの裾を翻して追いかけると、子どもたちは黄色い歓声をあげて散らばった。
「つーかまーえた!」
「キャハハハ!」
楽しげにはしゃぐ声を響かせる私の姿に、殿下は胸を打たれたように目を細めていた。
(なんて可愛らしく、同時に恐ろしい女性なんだ。この温かい体験をした子どもたちは、成長したときさぞやこの国と彼女のために尽くしてくれるだろう。力や恐怖ではなく、愛で心をつなぐ……彼女ならではの政治だな)
「どうだった、ルクレツィア?楽しそうだったな」
だが、遊びを終え、城へ戻る馬に乗り、殿下にそう問いかけられた瞬間――私の表情は「政治家」のそれへと戻っていた。
「殿下、本日はありがとうございました。本日と同じことを、継続して国中でやりたいのです」
「く、国中だと……?」
不意を突かれた殿下が目を丸くする。
「ええ、今日だけでも色々と成果はありました。例えば孤児院への食料配布ですわね。子どもたちが見るからに栄養不良でしたもの」
「……栄養不良だと? なぜ遊んだだけでそんなことが分かる?」
「だってあんなに細くて、鬼ごっこでも私にやすやすと捕まえられるのですよ?体力がなさすぎます。 それに、院で出されたおやつ。あれはいけません。卵やナッツが全く入っていなかったわ。私達貴族と同じレベルにせよとは申しませんが、あれでは健やかに育つための栄養が足りなさすぎます」
(ただ楽しく遊んでいるだけだと思っていた……。無邪気に笑いながら、子どもたちの肌のツヤや筋力、出された食事の栄養価まで一瞬で見抜いていたというのか……!戦場の指揮官でもない、一介の貴族女性が…!?)
驚愕する殿下に、私は淡々と論理を展開する。
「国中、と申しましたのは、地域によって必要な支援の偏りがあると思うからです。必要なところに必要な支援をするべきであって、不要な支援をする必要はございませんもの。資金が潤沢だからといって、無駄遣いすることはありませんわ」
殿下はしばらく私を見つめていたが、やがて敗北を認めるように柔らかく息を吐き、頼もしい笑みを浮かべた。
「そうか……君の考えはよく分かった。思うようにやればいい。毎回は無理だが、できるだけ俺も同行しよう。君一人で大丈夫だとは分かったが……俺にとっても、実に実りある一日だったから」
(あら?『お前』から『君』に昇格したわ。ふふっ、最終関門突破の日も近いわね)
そこからの私の動きは速かった。言ったことは即座に実行するのみ。
スラムのすぐ近くに修道院兼貧民専用の療養所を突貫で建設。修道院では週に一回の定期的な炊き出しを制度化した。さらにスラムまでは機能していなかった互助ギルドへ財政支援を行い人を増やす。孤児院には卵やナッツを豊富に含んだ質の高い食料を定期配送する仕組みを整えた。でもこれだけじゃないわ。次は職業訓練所開設に向けて、根回ししなければ。
宮廷内での私の評価は「教皇庁から来た美しく教養あるお飾りの后」から「フェラーラを導く奇跡の公子妃」へと急速に上書きされていく。
そんな忙しくも確かな手応えを感じていたある日のこと。
執務室にやってきた殿下が、少し照れくさそうに私に声をかけてきた。
「ルクレツィア、同席してほしい場がある」
「ええ、もちろん喜んで。どんな場でしょう、殿下?」
「最近、城下で評判の詩人を招こうと思ってな……。君は詩や芸術に造詣が深いだろう? 私は無骨な軍人だから、側にいてフォローしてほしいのだ」
「まあ楽しそう!最近は慈善にかかりっきりで詩を読む時間も取れませんでしたから。 喜んで同席させていただきますわ、殿下」
ワクワクしながら応じた私だったが、この時の私はまだ知らなかった。
その「城下で評判の詩人」こそが、私の運命を再び激しく揺り動かす存在であることを――。




