12.白い結婚
「お前を愛することはない! 俺には真実の愛がいる」
重厚な天蓋付きのベッドが鎮座する、初夜の寝室。
扉が閉まった瞬間、私を冷たく睨みつけていた三人目の夫――フェラーラ公子アルフォンソ殿下は、吐き捨てるように運命の宣言を口にした。
これでもかと言うほど硬い眼差し。彼は胸元に光る女性物のペンダントを、固く誓うように握りしめている。
私が「呪われたボルジアの不吉な毒婦」と、彼に忌み嫌われているのは知っている。彼だけではない。
扉の向こうでは、フェラーラの家臣たちが「毒婦が我が主を呪い殺さないか」と、張り詰めた空気で息を潜めているのが気配でわかる。初夜の床で突きつけられた、あまりにも残酷で、孤独な白い結婚の宣言。
だが私の心は折れない。折れてなるものか。
私は身にまとったシルクの寝衣を優雅に揺らし、ふっと美しい微笑みを浮かべてみせる。できうる限り挑戦的に見えるよう、瞳に力を込めて。
「まあ、偶然ですわね。私にも真実の愛がおりますの」
「……は?」
公子殿下の端正な顔が、一瞬で凍りついた。まさかそんな返答が来るとは夢にも思わなかったのだろう。眉をひそめ、呆然とこちらを見つめている。
「お前、今なんと――」
「ですから、お互い様でございますわ、殿下。好都合です。無理に愛し合う必要がないのでしたら、私たちは無駄に夫婦の真似事をする必要もございません」
私はベッドサイドの机に、ずしりと重い羊皮紙の束を置いた。
「親愛なる戦友である殿下に、こちらを。私がお持ちした財産の目録です」
「な……っ」
殿下が弾かれたように目録に目を落とす。そこには、父であるローマ教皇から持たされた、金貨、領地、美術品、そして商権といった、眩暈がするほどの莫大な財産が記されていた。
「これの半分もあれば、今後二十年間の軍事予算はゆうに賄えますでしょう?」
「お前……我が国の財政難を知っていて……」
「ええ、もちろん。ですから、愛を注いでくださらなくて結構ですし、ビジネスパートナーとしてこれ以上ないほどお役に立って見せますわ。お互い、心に『真実の愛』を秘めたまま、共にこの国を豊かにいたしましょう?」
私が凛とした態度で微笑むと、彼は毒気を抜かれたように言葉を失った。
拍子抜けしたように目を見開く殿下に、私は間髪入れず畳みかける。
「ではさっそく、今後の具体的なプランを話し合いませんこと?」
「ふん、お前なんぞに何が分かるのだ? ……まあいい、一応聞いてやる。言ってみろ」
ほんの少しだけ態度が軟化した殿下に、私は用意していた書面を取り出した。
「ありがとうございます、殿下。大まかにですが、まずは一つ目。今まで軍事予算に押されて著しく減らされてきた『福祉』の再建です。フェラーラは戦争が続いておりますでしょう? その分、多くの未亡人が増え、生きるために娼婦に身を落とす女性が後を絶ちません。彼女たちに職業訓練を行い、真っ当に暮らせるよう手助けをしたいのです。また、戦災孤児への支援も考えています。将来この国を支える大切な子供たちを、愛で包んで育てたいのです」
「福祉、だと……?」
「そして二つ目は、芸術家の招聘です。フェラーラは歴史ある名門ですもの、芸術面でも諸国に名を轟かせましょう。この二つの事業を、私の持参金の一部を使って始めてみたいのです。成果の度合いによって、次年度の予算を改めて検討いたします」
殿下は返す言葉を失ったように私を見つめている。だが、ボルジアの娘のカードはこれだけではない。私はとっておきの爆弾を笑顔で投下した。
「そして最後に。これはやってみないと分かりませんが――『ローマへの上納金永久免除』を、私から父に願い出ます。これが叶えば、フェラーラの国家予算十五年分は軽く浮きますわね」
「…………ッ!?」
予算十五年分。殿下は完全に固まってしまった。
「殿下? いかがされました? 他に優先するべき事柄がございましたら、どうぞご教授くださいませ。それとも、私の提案は的外れでしたでしょうか?」
「いや、そうではない……」
殿下は激しく動揺した様子で、私の真意を探るように睨んだ。
「今の提案は、ローマの義父上や義兄上に指示されたものか?」
「え? いいえ? 父からは『お前のやりたいようにすれば良い』とだけ申し付けられておりますわ。それ以外は特に……。先ほどの提案は、殿下のもとに嫁ぐと決まった折から、私が勝手につらつらと考えていたことでございます」
私の言葉に、殿下の脳内は激震に見舞われていた。
(本当に才女なのか……!? 先ほど宮廷で貴族たちが絶賛していたが、新興の成金貴族と侮っていたボルジアに、これほどの女がいたとは……。いや、しかし、私には真実の愛がいる。この女性がいかに優れていようとも、私の愛は揺るがない! …そうだ、つい先程彼女自身が言っていたではないか、私たちは戦友だと。……私は、戦友として、得難い、とてつもなく貴重な女性を勝ち獲ったのだ!)
必死に自分を納得させようとしている殿下の心中をつゆ知らず、私は心の中で神に祈る。
(どうかしら? うまくいったのかしら? 神様、お願いします。……私の、真の夫アルフォンソ様とまた出会えるその時まで、どうか私をこの地で生き長らえさせてください)
「……よし、分かった。まずはお前の思うようにやってみろ。その成果を、じっくり検分させてもらおう」
「ありがとうございます、殿下」
澄ました顔をして、私は心の中で激しくガッツポーズをした。
(やったわ! 最終関門の、第一段階は完全突破よ!)
「それでは親愛なる戦友である殿下、今日のところはこれまでに。おやすみなさいませ。また明日、お会いいたしましょう」
私はこれ以上ない毅然とした態度で一礼すると、殿下を夫婦の寝室に残したまま、隣の自室へ颯爽と戻った。
一人取り残された殿下は、あまりの存在感と美しさに圧倒され、思わず私を呼び戻そうとしたけれど、毅然とした私の後ろ姿に、ついに声をかけることすらできなかった――らしい。ふふふっ。




