11.大国の洗礼
そして迎えた、ローマ旅立ちの日。
お父様が涙ながらに熱い祝福を授けてくださり、二十歳になった私の馬車はいよいよ軍事大国フェラーラに向けて出発した。……けれど何故か、馬車の隣には当然のように愛馬に跨ったお兄様が並走している。
「ルクレツィア、本当に行ってしまうのか……?」
「お兄様、今日まで本当にありがとうございました。どこへ参っても、私はボルジアの娘。お兄様との絆は切れませんわ」
「理不尽な目に合ったらすぐに俺に知らせるんだぞ。相手が誰であれ叩きのめしてやる。国境まで兄様がついて行ってやる。 フェラーラの奴らに俺達の絆と、ボルジアの恐ろしさを見せつけてやるのだ!」
相変わらず物騒なことを言うお兄様に、私はとびきりの笑顔を向けた。
「嬉しいわ、お兄様。では国境まで、昔みたいにお喋りしながら参りましょう?」
そう言って窓から手を振る私を見て、お兄様は嬉しそうに表情を緩める。
(さようなら、お兄様。最高に美しく、最高に頼れる、最強のお兄様だけれど――あなたは超えてはいけない一線を超えてしまった。寂しいけれど、あなたの手を逃れて、これから私は、私の人生を生きていくわ)
これが最後の親孝行ならぬ兄孝行。私は国境までの道のりで「仲良し兄妹」を演じきり、ついにボルジアの領地を脱出した。
――一ヶ月後、ついに到着した軍事大国フェラーラ。
宮廷の広場には、歓迎の仮面を被った大国の貴族たちが、品定めするような意地の悪い視線を交わして待ち構えていた。
「来たぞ! ボルジアの娘だ」
「まあ、なんて豪華な馬車行列でしょう。さすが成金ボルジアね」
「美女と評判だが、どれほどのものか見てやろう」
「意地悪を仰っては駄目よ。私たち大国の高貴な貴族に、ローマの小娘が敵う訳がありませんもの。クスクス……」
そんなひそひそ話を、私の鋭い耳が逃すはずもない。
(格下の成金扱い? 面白いじゃない、全員まとめてひれ伏させてあげるわ!)
馬車の扉が開く。
私が選んだのは、清楚でありながら圧倒的な格式を誇る、純白に真珠を無数に散りばめた衣装。あえてカチッと結わずに下ろした柔らかな金髪が、フェラーラの風にふわリと気高くたなびく。
馬車から一歩、私が大地に降り立った瞬間、広場の時間が止まった。
「な、なんと美しい……!」
「まるで、本物の天使様が地上に舞い降りたようだ……!」
一瞬の後、熱い歓声が沸き起こる。
(よかった! まずは第一関門、ビジュアルでの圧倒、突破ね!)
けれど、大国のプライドが邪魔をする貴族たちは、まだ諦めない。今度は口元を隠してひそひそと作戦会議を始めている。
「だ、だが教養はないだろう?」
「我儘娘だそうじゃないか。ラテン語で話しかければ慌てて逃げ出すだろうな」
「絵画や音楽にも疎いに違いない。高尚な芸術の話で、見世物にして笑ってやろうじゃないか」
『絵画と彫刻、どちらが優れていると思われますか?この話題は現在フェラーラ国内で盛んに議論されていますが、まさかご存じないなんてことはないでしょうね?』
意地悪そうな年配の貴族が、わざと古風なラテン語を使って、芸術論について私に質問を投げかけてきた。周囲の貴族たちが「さあどうする」とニヤニヤしながら見つめてくる。
『ええ、もちろんそのような論争が話題になっていることは耳にしておりますわ。二次元と三次元の違い、彫刻では表現できない水や空気の質感、でしたか?私個人の見解でよろしいかしら?』
『…え……言葉が分かって?……いや、ぜひお聞かせください』
『一言で申し上げれば…ありきたりですが個人の好きずきで良いと思っておりますの。どちらも美の源泉は同じところですもの。優劣なんてつけようがございませんわ。個人的な趣味を申し上げれば、兄の友人ダ・ヴィンチの絵画やミケランジェロの彫刻が特に素晴らしいと思いますわ。あなたの見解をお聞かせ頂けるかしら?』……
私は、逃げもしなければ慌てもしない。この話題、愛するアルフォンソ様やお兄様と、既に飽きるほど語り尽くしている。さすが軍事大国、芸術には疎いのね。その貴族の瞳をじっと見つめ、淑女の微笑みを湛えたまま、深く、じっくりと洗練されたラテン語で語り合った。
今度は、別の意味で貴族たちが息を呑んだ。
「な、なんと素晴らしい知識と教養だ……!」
「誰だ? 彼女を不吉な悪女だなんて言ったのは! 素晴らしい才女ではないか!」
「ルクレツィア様、当家の夜会にぜひお越しくださいませんか?」
「我が家の音楽サロンにもぜひ、お姿を見せていただきたい!」
手のひらを返したように群がってくる貴族たちに、私は上品に首を傾げてみせる。
「夫となるアルフォンソ殿下のお許しが出れば、もちろんよろしくてよ。楽しみにしておりますわ」
(やったわ! 第二関門、教養での圧倒も完全突破!)
これでもう、私を成金の無学な娘と侮る者は宮廷に一人もいない。
けれど、歓迎の宴の最中、私は一つの視線に気づいて背筋を強張らせた。
フロアの奥から私を冷たく見下ろしている男――この国の公子であり、私の新しい夫である、アルフォンソ殿下だ。
(最終関門は公子殿下だけれど……なんだか、もの凄く睨まれている気がするわ。嫌な予感がするけれど……ここまで来て、負けてなるものですか!)
そして宴が終わり、夜が更ける。
私は重厚な扉を開け、初夜の寝室へと足を踏み入れた。




