9.脱出
私とアルフォンソ様が立てた作戦は、二段構えの完璧なものだった。
まずプランA。アルフォンソ様はナポリに帰国する。ナポリ王室で今回の結婚の離婚同意が得られれば、そのまま正式に離婚。離婚できなくてもナポリに滞在できれば暗殺の可能性は限りなく低くなる。ナポリという後ろ盾がある彼の身分は、王子のまま安泰だ。
問題はプランAが失敗した場合、離婚同意が得られず、彼がローマに戻って来ざるを得なくなった時だ。表立って暗殺計画をナポリに告げれば、離婚はできるが戦争が起きかねない。つまり、離婚理由は性格の不一致とかくだらない理由をでっち上げるしかないけれど、政略を重んじるナポリ王が許可するとは思えず、追い返される可能性が高い。その場合のプランBとして、私たちは失踪を装い、軍事大国フェラーラに潜伏する手筈を整えた。
フェラーラはローマから近いが隣接しておらず、規模はこちらより遥かに大きい。何より軍事大国だけあってスパイ対策もバッチリだ。いくら執念深いお兄様の手でも容易に届かない安全地帯。潜伏拠点と活動資金はすでに準備済み。完璧だ。
そしていよいよ、アルフォンソ様がローマを去る日。
人目を忍んだ密会場所で、彼は二本の美しい指輪を取り出した。一つはアルフォンソ様の瞳の色、サファイア。もう一本は私の髪の色、金色のトパーズ。
「ルクレツィア、これを君に。僕の心の証だ。僕の瞳を持っていて。君の髪は僕が持っていくよ」
それは、二人で知恵を絞り頭を悩ませて作った秘密の詩が刻まれた、世界に二つだけのポエジーリングだった。
きらめく指輪の内側には、あの言葉が刻まれている。
――『世界が二人を分かつとも、私の魂はあなたの影を追い求め続ける』。
それを見た瞬間、私の目から勝手に涙がぽろぽろと溢れ出した。もう堪えきれない…!
「アルフォンソ様……。どうぞご無事で。 いつかきっと……いいえ、もし、もう二度と会えなくても、私の心は永遠にあなたの元にありますわ」
「ああ、愛しいルクレツィア。僕は絶対に逃げのびてみせる。そしていつかまた――」
アルフォンソ様は私を愛おしそうに強く抱きしめ、耳元で熱く囁いた。
「君のもとに戻ってくる。約束だ」
彼の出発から数日後。案の定、不穏な空気を察知したお兄様が血相を変えて、私の部屋に踏み込んできた。
「ルクレツィア。アルフォンソはどこへ行った?」
「さあ? 何でも、新しい詩の題材を探しに諸国を回るそうですわ」
「いつ帰るのだ」
「それが、私にも分からないのです。追って手紙が来るでしょうけれど……」
「教会会議がもうすぐ始まるのだぞ。本当に知らんのか!?」
お兄様の鋭い視線が私を探るように射抜く。ここで怯んだら負けだ。すかさず、とびきり可愛い「拗ねポーズ」を作って、お兄様の胸を軽く小突いてみせた。
「もう、お兄様ったら! せっかく久しぶりに会いに来てくださったのに、アルフォンソ様のことばかり。寂しいわ。……お兄様は、私よりもアルフォンソ様のことが大事なんですの?」
上目遣いで涙をためて見つめると、狙い通り、お兄様の脳内にお花畑が爆誕した。
「っ……! そ、そうかそうか! ルクレツィアは俺に会えて嬉しいのか! アルフォンソのことばかり聞いて悪かった。もうあいつの話は無しだ! ルクレツィア、今日は何をしたい? お前が大好きなドラジェをすぐに用意させよう!」
「嬉しい!ねえお兄様、そういえば、この間、こんなことがあったの。とても面白かったのよ、あのね……」
私に甘すぎるお兄様を手のひらで転がし、私は笑顔で彼を誤魔化し続けた。これで1ヶ月後の教会会議まで、時間を稼げるはずだった。
……けれど、事態は私の予想を超えた方向へと急転する。
ある日、お父様がひどく青ざめた顔で私の部屋を訪れたのだ。
「ルクレツィア、言いづらいのだが……アルフォンソ殿が行方不明だ。こことナポリのちょうど中間辺りで賊に襲われ………。 だがな! 遺体は見つかっていない。どこかに落ち延びている可能性もあるのだ! だから、どうか気落ちせずにな……」
「……えっ……?」
私の頭が真っ白になる。ナポリに到着したという知らせは、まだない。賊?そんなはずはない。だって彼の辿ったルートは安全なはず……。まさか、お兄様が先手を打ったの!?
「お、お兄様は……お兄様はどこにいるのですか?」
「チェーザレは寝食を忘れ、血眼になってアルフォンソ殿を探しておる。あいつもお前のことを心配していたぞ。本当に、妹想いの兄を持って良かったな、ルクレツィア」
(……それでは、お兄様が手を回したんじゃないのかしら?お兄様すら、本当に彼の行方を掴めていないんだわ……!)
その日の夜、お兄様がひどく疲弊した様子で私の部屋にやってきた。その目は睡眠不足で血走り、焦燥の色を隠せていない。
「ルクレツィア、アルフォンソから何か連絡はないのか? ナポリからも消息不明と報告が来ている。無事に生きていて、もしお前を真に愛しているなら、何らかの連絡を入れると思うのだが……」
「……いいえ、私にも何も届いていないのです。お兄様、何か糸口になりそうな手がかりも掴めないのでしょうか?」
「何もないのだ……。まるで、神隠しにあったかのようにかき消えてしまった。ルクレツィア、お前は大丈夫か? お前に元気がないと、兄様は心配でしょうがないんだ」
そう言って、お兄様は痛ましい表情で強く私を抱きしめた。
その腕の震えで、すぐに理解した。今、私を心配してくれているお兄様の言葉は本物だ。そして――本当に、アルフォンソ様の消息が分からないのだ。
(どこにいるの? 作戦通り、フェラーラに無事潜伏できたの? それとも本当に、予測不能の事態に巻き込まれて……?お願い、無事でいて、アルフォンソ様……!)
私はお兄様の腕の中で、サファイアのポエジーリングをそっと握りしめ、どこかの空の下にいる愛しい人の安全を、神に祈り続けた。




