華子の選択
湖面に映し出される高嶋華子は、美穂子から見れば「全て恵まれている」だけの女性に見えている。
まだ美穂子は華子の努力を知らない。
それを見ても聞いても認めたくないのだ。
それに、今は知る気も無い。
知りたくも無いのに、瞼を固く閉じているのに、湖面に映し出される光景が見えるのだ。
美穂子は幾度も「嫌ぁ―――っ! もう見せないで!」と叫んだ。
湖面に映し出される高嶋華子は、谷川雄一の傍に居る。
どうやら彼女は元夫の大崎誠ではなく、谷川雄一の傍に居ると決めた様子である。
それを美穂子は見たくなかった。
どちらの男性からも選ばれない華子を見たかったのだ。
「どうして? どうして、籍を入れない?」
「入れない方が子ども達にとって良いと思うわ。」
「でも、籍を入れなかったら、何かあった時に困ることになる。」
「雄一さん、貴方にはお子さんが居るから大丈夫。」
「君には居ないじゃないか。」
「お兄様が居るから……大丈夫よ。」
「でも………妻と内縁の妻とは違うんじゃないか?」
「貴方の相続権は子ども達だけが受け取るべきだわ。」
「相続権? そんなことを考えて?」
「だって、籍が入っている妻の相続権は二分の一なのよ。
貴方の子ども達の受け取る遺産が少なくなるわ。」
「そんなこと気にせずに、ねっ。」
「後妻だし……私は専業主婦じゃないから……。」
「華子………僕は君を妻に迎えたいんだけど?」
⦅………雄一さんの妻は……谷川愛子さんだけだわ。⦆「お願い、そうして。」
「………嫌だと言ったら?」
「一緒に住むのは止めます。」
「それは、嫌だ!」
「………雄一さん………。」
「何? まだ何かあるのかい?」
「………私の初恋の君は……谷川雄一さんです。」
「えっ?」
「だから、夢……としか思えないの。」
「本当に?」
「………ええ。」
頬を赤らめる華子を見た雄一。
その様子が愛らしいと思った。
そして嬉しかった。
「そうか………僕が………そうだったんだ。」
「だから………私にとって有り得ないの。
今の谷川雄一さんとの関係が………。
だから、これ以上を望む気持ちが無いの。」
「そうか……僕が……初恋の君……大崎誠さんに勝ったな。」
「だから、籍は入れないでもいいの。」
「うん………えっ? やっぱり入れないのかい?」
「ええ、そうしましょう。
あまりに多くを望むと、その幸せが逃げていきそうで……怖いわ。」
「逃げないよ………このまま幸せになろうね。」
「ええ、皆で……でも、将来のことを考えて下さいね。」
「うん? 将来のこと?」
「ええ、雄二朗君の施設入所のことと、大人になったら成年後見人の選出を。
お願いだから考えて下さい。」
「一緒に考えてくれるんだろう?」
「勿論! 私も一緒に考えます。」
「ありがとう。」
雄一と華子は入籍せずに事実婚を選んだ。
雄一と華子の両親は「籍を入れる。」ことを望んだが、最終的には二人の判断を認めた。
もう子どもが高校生になった息子夫婦のことに口を挟むのを憚られると、雄一の両親は考え直した。
華子の両親も華子の意志を再婚にあたっては最優先すると決めた。
ただ、華子の父は最後まで「大崎誠との再婚」を口に出さなかったが願っていた。
「あの、雄一さん。」
「うん? 何?」
「誠さんに話したの。」
「えっ? 僕が? 知り合いでもないから会うことが無いよ。
どうして?」
「昨日………おめでとうって言ってくれたわ。」
「会ったの?」
「ええ、会ったの。
誠さん、元気でお仕事も頑張ってらして嬉しかったわ。」
「………………あのさ。」
「はい?」
「会わないで貰えるかな?」
「誰と?」
「大崎誠さんだよ!」
「どうして?」
「嫌なんだ! 前に言っただろう。」
「そうでした?」
「聞いてないのか?」
「…………済みません、覚えていません。」
「華子………頼むから会わないでくれるかな?」
「でも、今度お祝いを下さるって………。」
「嫌だよ。会わないで! いいね。」
「お祝いを下さるのに………。」
「華子は大崎誠さんが好きなのか?」
「好きですわ。だって夫婦でしたもの……色々ありましたけど、優しい方です。
憎しみあって離婚したわけではありませんもの。機雷には成れませんわ。」
「………僕より好きなのか?」
「そ、そんなこと………考えたこともありませんわ。」
「華子、結婚相手は僕だということを忘れないようにしてくれ。いいね。」
「はい。」
「じゃ、もう会わないよね。」
「……はい。
でも………祝って下さるお気持ちを無下にはしたくありませんわ。
どうしたら…………。」
「じゃあ! 氏郷に受け取って貰って!」
「お兄様に?」
「僕から氏郷に頼んでおくから………。」
「お願いします。」
「もう会わないんだね。」
「はい………お兄様、受け取ることを嫌がられないかしら?」
「僕が頼むから大丈夫だよ。」
「お願いします。」
「うん、任せてくれ。」
いい年をした大人のイチャイチャを見たくも無い美穂子は腹が立って仕方なかった。
谷川雄一が高嶋氏郷と話している。
「なんとっ! 凄いな君……。」
「何がだ。」
「あの華子に対して焼きもちを妬くなんて……有り得ない……。」
「いいだろう………迷惑掛けてないんだから。」
「………分かったよ、まぁ僕にとっては迷惑千万だけどな………。」
「迷惑千万! 君………そんなこと無いと思うぞ。」
「ははは…………はぁ……君と……華子が……。」
「………僕自身も……こんなこと思いも寄らなかった。
うん、僕は自分の気持ちに驚いてる。」
「そうか………………あーぁ……………。
それにしても、大崎誠さん。気の毒だなぁ……。」
「別に気の毒でないだろう?
離婚原因は、大崎誠さんなんだから………。」
「まぁ、そうだけど………。
あっ! 一応、伝えておくよ。」
「何だ?」
「あのな、父は大崎誠さんが華子の再婚相手なら良かったと思ってる。」
「本当か! ショック………。」
「君がどうこういうことじゃないんだ。
大崎誠さんなら元妻が華子だからだ。
君の奥さんは亡くなっただろう。
それは後妻にとって辛いらしい。
亡くなった人と無意識に華子は比較されてしまう立場だから、な。」
「それは………。」
「雄一も愛ちゃんのこと、忘れられないだろう。」
「うん……忘れることは絶対に無い。
だが、薄れていくかもしれないと思う。」
「薄れる………か。」
「うん、愛したことも愛されたことも、二人で乗り越えた日々も……。
絶対に忘れないし、忘れられない。
でも、薄れてはいく。」
「まぁ、そうだよな。想像の世界だけど………。
人間の記憶って忘れることも大切なんだろうな。
全て覚えていたら……苦し過ぎるんだろうな。」
「うん、多分そうなんだろうな。
氏郷、君からもお義父さんに言っておいてくれないか?」
「何を?」
「生涯を共に歩むと決めたから、大切にします、って……。」
「父に言ったのだろう?」
「君からも、何か聞かれたら、そう答えておいてくれないか?」
「分かった。」
⦅そうか、もしかしたら最初の人生でも間違っていなかったのかな?
あの頃のこと……もう記憶が薄れているけど………。
………思い出せ! 僕………。
そう言えば、最初の人生で雄一は一言も華子に対する不満を言わなかったな。
亡くなる前に愛ちゃんに会わせた。
でも、亡くなる寸前に雄一が華子に何か言ってたような気がする。
なんて言ったんだろう?⦆
美穂子は大声で「なんでなのよ?」と言った。
華子の幸せな笑みを見たくなかったのだ。
凛として涼しげな声が聞こえて来た。
「高嶋華子は最初の人生を終える時、後悔した。
そして、二度と同じ人生を歩まぬように努力したのじゃ。
己を変えることで、もう二度と誰かを傷つけることが無い人生を歩むと決意し
たのじゃよ。
そして、その努力をした。
最初の人生に於いては周囲の人の心を慮ることは無かった。
それが、今は慮ることが出来ておる。
其方は反省したのか?
己を変える努力をしたのか?
誰かを二度と傷つけない人生を歩むと思ったことはあるのか?」
「私は! 」
「しておらぬよのう。」
「………………………………。」
「其方と高嶋華子の差は、反省をして己を変えた人間か否かじゃ。」
「………不公平よ!」
「其方は………変わらぬ人間よのう。」
美穂子は「放っておいて!」と怒鳴った。




