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第8話 アルから見たリシェル


 朝、目を覚ますと、いつも通り天井が見えた。


 ルンドホルム公爵家の屋敷、自分の部屋。


 見慣れた光景だ。

 俺は身体を起こす。


 すぐに部屋の外で控えていた侍女が、静かに近づいてきた。


「おはようございます、アルヴィン様」

「ああ」


 短く返すと、侍女たちは慣れた様子で支度を始めた。

 顔を洗い、髪を整え、制服に袖を通す。


 昔から、この時間はあまり好きではない。

 何もかも整えられる。


 身だしなみも、姿勢も、表情も。

 ルンドホルム公爵家の嫡男として、隙のない姿でいなければならない。


 周囲はそれを当然のように求める。

 俺も、そうするのが当たり前だと思っていた。


 だから学園へ行く時間は、少しだけ楽だった。

 すでに卒業に必要な単位は、ほとんど取り終えている。


 本来なら、毎日通う必要はあまりない。

 それでも学園へ行くのは、暇だから。


 それから、あの裏庭があるからだ。


 人があまり来ない場所。

 木陰があって、風が通って、猫たちがいる。


 俺は昔から動物に好かれやすい。

 理由は、たぶん血筋だろう。


 ルンドホルム公爵家の者は、動物や魔獣に懐かれやすい。

 俺もその一人だった。


 猫たちは何も求めてこない。

 公爵家の嫡男としての振る舞いも、成績も、婚約も、立場も。


 ただ勝手に寄ってきて、膝の上で丸くなる。

 それが楽だった。


 だから、いつものように裏庭で眠っていた。

 眠っていた、はずだった。


 数日前のことを思い出し、俺は思わず手を止める。

 あの日、目を覚ます前に、誰かに頭を撫でられていた。


 最初は夢だと思った。

 情けない話だが、俺には撫でられたいという欲がある。


 猫のように、何も考えずに甘えてみたい。

 そう思うことがある。


 それも……血筋のせいだと思いたい。

 少なくとも、俺自身の性格だけの問題だとは認めたくない。


 だから夢の中で撫でられているのだと思った時、つい頬を寄せた。

 心地よかった。


 手のひらは温かくて、妙に落ち着いた。

 だが、夢ではなかった。


 目の前にいたのは、リシェル・オーケソンだった。

 ほとんど意識したこともない令嬢。


 落ちこぼれだとか、地味だとか、婚約者に軽んじられているとか。

 そういう噂は聞いたことがある。


 だが実際に向き合った彼女は、噂とはまるで違った。

 俺を見ても怯えない。媚びない。


 公爵令息だと知っても、態度を変えない。

 そして、当然のように撫でてくる。


 普通ではない……だが、不快ではなかった。


 リシェルには、不思議な威厳がある。

 命令されているわけでもないのに、どこか従いたくなるような空気がある。


 偉そう、というのとは違う。

 貴族の令嬢が身につける作法とも違う。


 もっと根本的なものだ。

 あの女が「撫でる」と言うと、なぜか拒みにくい。


 実際、拒めていない。

 しかも、撫でられると落ち着く。


 ……本当に困る。


「お兄様?」


 声をかけられて、俺ははっとした。

 気づけば、朝食の席についていた。


 向かいに座っている妹のエリサが、不思議そうにこちらを見ている。


「どうかしたの? ぼーっとしているけど」

「っ……何でもない」


 すぐに答えたつもりだった。

 だが、少し遅かったらしい。


 エリサはじっと俺を見て、それから小さく首を傾げた。


「本当に?」

「ああ」

「顔、少し赤いわ」

「気のせいだ」

「そう?」


 エリサは納得していない顔だった。

 俺は紅茶を口に運び、視線を逸らす。


 エリサは俺の一つ下だ。

 つまり、リシェルと同い年になる。


 聞こうと思えば、聞けるかもしれない。

 リシェル・オーケソンが学園でどう見られていたのか。


 オーケソン家でどんな扱いを受けているのか。

 今までの彼女の噂を聞く限り、あまり良い扱いを受けていたとは思えない。


 だが、妹にそんなことを聞けば怪しまれる。

 エリサは勘がいい。


 余計なことを聞けば、すぐに面白がる。


「変なお兄様」


 すでに思われているらしい。


「変ではない」

「変よ。朝からずっと考え事をしているもの」

「少し学園のことを考えていただけだ」

「学園?」


 エリサが瞬く。


「お兄様、もうほとんど通う必要はないのでしょう?」

「そうだな」

「なのに行くの?」

「暇だからな」

「ふうん」


 エリサはまだ疑うような顔をしていたが、それ以上は聞いてこなかった。

 俺は朝食を終え、屋敷を出た。


 馬車の中でも、自然と昨日のことを思い出す。

 小型魔獣用の厩舎。傷ついた魔獣たち。


 そして、それを見たリシェルの横顔。

 彼女は、静かに怒っていた。


 学園の管理が悪いわけではない。

 多くの魔獣はきちんと世話をされていた。


 だが、何匹かだけが傷つけられていた。

 誰かが管理の目を盗み、小型の魔獣を狙っている。


 リシェルはそれを、許せないと思っていた。

 本気で怒っていた。


 変な女だ。

 だが、目が離せない。


 学園に着き、校門をくぐる。

 本来なら、そのまま裏庭へ向かうつもりだった。


 午前の授業に出るかどうかは、気分次第でいい。

 だが、門を少し過ぎたところで、見覚えのある金髪が目に入った。


 リシェルだった。


 彼女は大きな布袋を抱え、まっすぐ校舎の奥へ向かっている。

 歩き方に迷いがない。


 周囲の生徒たちは、ちらちらと彼女を見ていた。

 昨日から噂になっているせいだろう。


 だが、本人はまったく気にしていない。

 俺は少し迷い、結局声をかけた。


「リシェル」


 彼女が振り返る。


「来たか、アル」

「……なぜ来ると思っていた」

「お前は昨日、魔獣を治してくれた。なら、今日も気にするだろう」


 言葉に詰まった。

 否定しようと思えばできた。


 たまたま通りかかっただけだ、と言うこともできた。

 だが、実際には彼女に声をかけている。


 つまり、そういうことなのだろう。

 リシェルは俺を見て、少し首を傾げた。


「ちょうどいい。手伝え」

「いきなりだな」

「嫌なのか?」

「……まだ何を手伝うのかも聞いていない」

「魔獣たちの様子を見に行く」


 そう言って、リシェルは布袋を少し持ち上げた。


「その荷物は何だ」

「世話に必要なものだ」

「世話?」

「ああ。柔らかい布、果物、飲み水を入れる器、薬草、それからブラシだ」

「ブラシ?」

「毛づくろいに必要だろう。猫にも魔獣にも使えるはずだ。ふわふわの毛を堪能したい」

「用途を混ぜるな」

「可愛いものを世話するには必要だ」


 リシェルは真顔で言った。

 真剣なのはわかる。


 わかるのだが、どこかずれている。

 昨日あれほど怒っていたのに、今日はもう世話道具を用意している。


 行動が早すぎる。

 だが、彼女らしいとも思った。


「それで、一人で厩舎へ行くつもりだったのか」

「ああ」

「授業は?」

「魔獣たちより大事ではない」

「またそれか」


 俺はため息をつく。

 周囲の生徒たちが、こちらを見ているのがわかった。


 アルヴィン・ルンドホルムが、リシェル・オーケソンと話している。

 それだけで、学園では十分な騒ぎになる。


 だがリシェルは、そんな視線など見えていないかのようだった。

 彼女の意識は、すでに厩舎の魔獣たちへ向いている。


「昨日の子たちの傷が気になる。それに、犯人も探さなければならない」

「犯人探しも同時にするつもりなのか」

「当然だ」

「どうやって?」

「己のすべてを使って。まずは聞き込みだろうな」

「……お前がそう言うと、尋問に聞こえる」

「そうか。では尋問でいい」

「よくない」


 思わず即答した。

 リシェルは不思議そうな顔をする。


「なぜだ。効率がいいだろう」

「効率の問題ではない。学園には手順がある。まず管理教師に報告するべきだ」

「報告したところで、動きが遅ければまた傷つけられるかもしれない」

「だから俺が手伝う」


 リシェルは少しだけ目を細める。


「そうか。やはりお前は来たな」

「……最初からそのつもりで待っていたのか?」

「待ってはいない。だが、来るとは思っていた」

「勝手な奴だな」

「嫌なのか?」


 またそれだ。

 嫌かと聞かれると困る。


 昨日の魔獣たちの傷を思い出す。

 リシェルがそれを見て、静かに怒っていた姿を思い出す。


 放っておけなかった。


「……嫌とは言っていない」

「では、手伝ってくれるか?」


 素直にそう問われた。

 それが少し意外で、俺は一瞬返事が遅れた。


「……ああ。手伝うと言っているだろう」

「そうか、助かる」


 リシェルは満足そうに頷いた。

 その顔を見て、胸の奥が妙にくすぐったくなる。


 リシェルは当然のように俺を信じていた。

 俺が来ることも。手伝うことも。


 それが少しだけ、嬉しい。

 もちろん、顔には出さない。


「ただし、勝手に生徒を問い詰めるなよ」

「なぜだ」

「騒ぎになる」

「犯人が怯えるなら、それでいいのでは?」

「よくない」

「難しいな」

「難しくない」


 俺はリシェルの布袋を見る。


「まずは厩舎で魔獣たちの様子を確認する。その後、管理教師に報告する。傷の状態、見つかった場所、粗悪な紐の術式。証拠を整理してから動く」

「なるほど」

「なるほど、ではない。最初からそうしろ」

「お前がいれば楽だな」

「俺に丸投げするな」


 リシェルは、俺がやったほうが管理教師への話も通しやすいとわかっているのだろう。

 魔法式の確認もできる。


 公爵家の名前を出せば、学園側も動かざるを得ない。

 勝手な女だ。


 人を撫でる。魔獣を守ると決める。

 犯人探しを始めようとする。


 そして、当然のように俺を巻き込む。

 だが、不思議と嫌ではなかった。


 むしろ、昨日までただ猫と眠るだけだった学園の日々が、少し変わり始めている気がした。


「いいだろう。まずは厩舎に行くか」

「頼んだぞ、アル」

「……ああ」


 俺がそう言うと、リシェルは少し笑った。

 それから、周囲の視線など気にしない様子で、手を伸ばしてくる。


「では、褒美に撫でてやろう、アル」

「……いらないからな」


 そう答えた。

 だが、避けるのが少し遅れた。


 リシェルの手が、俺の頭に触れる。

 柔らかく、ゆっくりと撫でられる。


 周囲が息を呑む気配がした。

 恥ずかしい。かなり恥ずかしい。


 だが、やはり不快ではない。

 むしろ少し、落ち着く。


 それがまた、腹立たしかった。


「ほら、嫌がっていない」

「……今から嫌がるところだ」

「そうか。では、もう少しだけにしておく」

「聞いていないだろう」


 リシェルは楽しそうに笑った。

 俺はため息をつく。


 どうやら俺は、しばらくこの女に振り回されることになるらしい。


 そう思いながらも、俺は彼女の隣に並んで歩き出した。


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