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第6話 魔獣との出会い


 翌朝。目を覚ますと、昨日の疲れはほとんど残っていなかった。


 高熱で二日も寝込んでいたはずなのに、身体は思ったより軽い。


 むしろ、以前のリシェルよりもずっとよく眠れた気がする。

 理由は、たぶん猫だ。


 昨日、初めて猫に触れた。

 柔らかく、温かく、私の手から逃げなかった。


 それだけでも十分に素晴らしい出来事だったのに、さらにアルもいた。

 猫に囲まれて眠り、寝ぼけて私の手に頬を擦り寄せてきた公爵令息。


 思い出すと、少し口元が緩む。

 実に愛らしかった。


 あれは、また撫でたい。


 私は寝台から起き上がり、支度を始めた。

 今日も侍女は来ない。


 だが、昨日と同じで特に困ることはない。

 髪を整え、制服へ袖を通し、最低限の荷物を持つ。


 廊下へ出ると、すぐに見覚えのある金髪が見えた。

 義姉のベッラだった。


 どうやら、待ち構えていたらしい。

 昨日の朝と同じように吊り上がった目元。


 だが、今日は少し違う。

 怒っている。それも、昨日よりかなり強く。


「リシェル」


 ベッラは低い声で私の名前を呼んだ。


「なんなの、あんた。その態度は」


 私は足を止める。


「態度?」

「そうよ。昨日からずっとおかしいじゃない。家でも学園でも急に偉そうにして」

「そう見えるのか」

「見えるわよ!」


 ベッラの声が廊下に響いた。

 近くにいた使用人が、こちらをちらりと見てすぐに視線を逸らす。


 昨日と同じだ。

 この家の者たちは、私に丁寧に接する必要はないと思っている。


 だが、もうそれで傷つくこともない。


「昨日は学園でもずいぶん目立っていたそうじゃない」


 ベッラは私を睨む。


「魔法を見せびらかして、エドガー様に恥をかかせて……しかも、あのアルヴィン様にまで近づいて!」


 なるほど、そこが一番気に入らないらしい。

 私は少し首を傾げる。


「近づいたというより、隣を歩いただけだが」

「同じことでしょう! アルヴィン様は公爵家の方なのよ。あんたみたいな妾の子が気安く話しかけていい相手じゃないの!」

「気安く話しかけたわけではない」

「じゃあ何よ」

「撫でただけだ」

「……は?」


 ベッラの顔が固まった。


 私は思い出す。

 昨日の銀色の髪の感触。


 猫とは違うが、あれはあれでよかった。


「髪が柔らかかったな」

「なっ……」

「猫にも負けていなかった」

「何を言っているの、あんた……」


 ベッラは本気で意味がわからない、という顔をしていた。

 まあ、わからなくても仕方ない。


 私も少し前まで、猫に触れられる喜びを知らなかった。

 知らない者に、あの素晴らしさを理解しろという方が難しい。


「アルヴィン様を撫でた、ですって?」

「ああ」

「嘘でしょう……?」

「嘘をつく理由がない」


 ベッラの頬が引きつる。

 嫉妬と困惑と怒りが、顔の上で混ざっていた。


「意味わからないことをべらべらと……いい、調子に乗らないことね」


 ベッラは声を低くした。


「あんたみたいな妾の子が、いつまでも目立てると思わないで。少し魔法が使えたからって、アルヴィン様が本気で相手にするはずないわ」

「そうか」

「そうよ。あんたは自分の立場をわかっていないのよ」


 私はベッラを見下ろす。


 昨日も思ったが、彼女はこんなに小さかっただろうか。

 まあ、私が背を丸めていないだけか。


「私は、目立ちたいわけではない」

「だったら大人しくしていなさいよ」

「それは違うな」


 私は静かに答える。


「背を丸める理由がなくなっただけだ」

「っ……!」


 ベッラの顔が赤くなる。

 言い返そうとしているのはわかった。


 だが、私はもう彼女の言葉を待たなかった。


「では、学園へ行く」

「待ちなさいよ、リシェル!」


 背後から声が飛んでくるが、振り返らなかった。


 朝から随分と元気なことだ。

 その元気をもう少し別のことに使えばいいのに。


 屋敷を出て、馬車に乗る。


 学園までの道中、私は昨日の裏庭のことを考えていた。

 猫は今日もいるだろうか。


 アルもいるだろうか。

 猫に囲まれて眠っているなら、また少し撫でてもいいかもしれない。


 そう考えていると、自然と気分がよくなる。


 学園に着くと、門の前からすでに視線を感じた。

 昨日の噂が広がっているのだろう。


 そういう話は、学園では広まりやすいらしい。

 私は校門をくぐる。


 何人かの生徒が小声で話している。


「あれ、リシェル・オーケソンよね」

「昨日の魔法、見た?」

「アルヴィン様と一緒に帰っていたって本当?」

「雰囲気、前と全然違うわ」


 聞こえているが、いちいち反応するほどのことではない。


 今の私にとって重要なのは、噂ではなく裏庭だ。


 午前の授業は、昨日よりも静かに終わった。

 教師も生徒も、私に不用意なことを言わない。


 昨日の火球が効いたのだろうか。

 それならそれで楽でいい。


 そして昼休み、私はすぐに席を立った。


 教室の中では、また何人かがこちらを見ていたが、気にしない。

 廊下を抜け、校舎の裏へ向かう。


 昨日と同じように、人の声が遠くなり、木々の葉音が近くなる。


 裏庭へ出ると、すぐに見覚えのある銀色の髪が見えた。

 大きな木の下、アルが座っていた。


 そして、やはり猫に囲まれている。

 膝の上に一匹。足元に二匹。肩の近くにも一匹。


「にゃあ」


 膝の上の猫が、私に気づいたように小さく鳴いた。

 何度見ても羨ましい光景だ。


 アルはこちらに気づくと、少しだけ眉を動かした。


「また来たのか」

「ああ」


 私は近づきながら答える。


「猫とお前を撫でに来た」

「俺を目的に含めるな」

「嫌なのか?」

「……嫌とは言っていないが」


 そう言いながら、アルは視線を逸らした。

 実にわかりやすい。


 昨日より少し慣れている気もする。


 私はアルの隣にしゃがみ、まず膝の上の猫を撫でた。

 猫は喉を鳴らす。


 毛並みが良くて柔らかい。

 やはり素晴らしい。


 それから、自然な流れでアルの頭にも手を伸ばす。


「っ……なぜ俺まで撫でる」

「そこにいたからだ」

「理由になっていない」

「髪が柔らかい」

「褒められている気がしない」

「褒めているさ」


 アルは小さくため息をついた。


 だが、私の手を払わなかった。

 耳が少し赤い。完全に嫌がっているわけでもない。


 やはり愛らしい。


 そう思っていた時だった。

 膝の上の猫が、ぴくりと耳を動かした。


 続いて、足元の猫たちも同じ方向を見る。

 茂みの奥だ。


「にゃ……」


 低く、小さな声で猫が鳴く。

 アルもそれに気づいたらしく、顔を上げる。


「……何かいるな」

「ああ」


 私はそう言いながら立ち上がる。


 茂みがわずかに揺れた。

 何かが、足を引きずっているような音だった。


 私はゆっくりと近づく。


 茂みの影から、小さな生き物が姿を見せた。

 狐に似ている。


 だが、背中には小さな翼があった。

 毛並みは白に近い銀色。大きな耳と、淡い金色の瞳。


 普通の動物ではない。

 魔力の気配がある。


 そして、知性のある目をしていた。


「きゅ……」


 小さな魔獣は、消え入りそうな声で鳴いた。


「魔獣だ」


 アルが低く言う。


 魔獣。

 リシェルの記憶にも、その存在はあった。


 魔力を持つ獣。

 知能が高く、人間と契約するものもいる。


 中には人と協力して暮らす魔獣も多い。


「小型の魔獣だな。学園で育てている子かもしれない」

「育てている? 実習用ではないのか?」

「実習に使う魔獣はもっと大きい。戦闘補助や騎乗訓練に使うからな。小型の魔獣は、生徒が契約や共生について学ぶために育てられているはずだ」


 この国では、魔獣を管理し、保護するための決まりもある。

 少なくとも学園で育てられている魔獣なら、むやみに傷つけていいはずがない。


 だが……私は目の前の魔獣を見る。


 片脚に傷があった。

 歩くたびに、少し身体が揺れている。


 首には、学園の管理用と思われる細い首輪がついていた。

 だが、その上からさらに、粗悪な紐のようなものが巻きつけられている。


 そこに、雑な制御の術式が刻まれていた。

 正式なものではない。


 魔力を抑え込むというより、痛みと不快感で動きを鈍らせるためのものだ。

 乱暴で、浅く、ひどく幼稚な術式。


 小さな魔獣は、私たちを見て震えていた。

 人間を恐れている。


 私は息を吐く。

 できるだけ静かに、ゆっくりとしゃがみ込んだ。


「怖くないぞ」


 昨日、猫に言った時と同じように声をかける。


 だが、今度は少し違う。

 相手はただの動物ではない。


 こちらの言葉を、ある程度理解している目だった。


「私は、お前を傷つけない」


 私は魔力をほんの少しだけ流した。


 強く押しつけるのではない。

 包むように、柔らかく。


 小さな魔獣の震えが、わずかに収まった。

 アルが息を呑む気配がした。


 魔獣はしばらく私を見ていた。

 それから、一歩だけ近づく。


 傷ついた脚をかばいながら。

 それでも、私の方へ。


 胸の奥がきゅっとした。


 可愛い……だが、それだけではない。

 この子は傷ついている。人間に怯えている。


 それが、たまらなく不快だった。


 私は手を伸ばし、魔獣の頭にそっと触れた。

 魔獣はびくりとしたが、逃げなかった。


 私は傷を確認する。

 古いものではない。


 乱暴に掴まれたか、引きずられた時についた傷だろう。

 そして、首に巻かれた粗悪な紐。


 私はそこに指をかけた。

 刻まれた術式が、じり、と嫌な感触を返してくる。


 学園の正式な管理具ではない。

 誰かが、勝手につけたものだ。


 私の中で、何かが静かに冷えた。


「――これは、誰がつけた?」


 声は低くなっていた。

 怒鳴ってはいない。


 だが、周囲の空気が少し変わったのがわかった。

 猫たちが静かになる。


 アルも黙っていた。

 私は粗悪な紐を見つめる。


「契約でも管理でもない。これは、ただの嫌がらせだ」


 小さな魔獣が、私の手に頭を寄せた。


「きゅう……」


 助けを求めるように。

 私はその頭を撫でる。


「大丈夫だ」


 自分でも驚くほど、静かな声だった。


「お前をこんなふうに扱った者を、私は許さない」


 アルが私の横顔を見ているのがわかった。

 だが、今は気にしない。


 私は小さな魔獣を抱き上げる。


 魔獣は少し震えたが、すぐに私の腕の中で大人しくなった。

 軽い。思っていたよりもずっと軽い。


「アル」

「……なんだ」

「この子がどこから来たのか、わかるか」


 アルは少し表情を引き締めた。


「可能性があるとすれば、魔獣厩舎だ。小型魔獣用の区画がある」

「魔獣、厩舎……」

「ああ。大型の実習用魔獣と、小型の飼育魔獣で分かれている。小型の子たちは、契約や世話の基礎を学ぶために育てられているはずだ」

「そうか」


 私は腕の中の魔獣を見る。

 魔獣は目を細め、私の制服に顔を埋めていた。


 可愛い。

 可愛いが、それ以上に腹立たしい。


 学ぶために育てているというなら、どうしてこんなことになっている。


「では、そこへ行く」


 アルは私を見た。


「今からか?」

「ああ」

「授業は?」

「この子より大事なことはない」


 私がそう答えると、アルは一瞬だけ目を丸くした。

 それから、小さく笑ったように見えた。


「……わかった。案内する」

「助かる」


 私は魔獣を抱いたまま立ち上がった。


 猫たちが、私たちの足元についてくる。


「にゃあ」


 まるで、この小さな魔獣を心配しているようだった。

 私はもう一度、腕の中の魔獣を撫でる。


 昨日、猫に触れられて、この人生は悪くないと思った。

 アルを撫でて、さらに悪くないと思った。


 だが可愛いものに触れられるということは、ただ愛でるだけでは済まないらしい。


 可愛いものが傷つけられるならば、守らなければならない。


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