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第4話 可愛い猫と公爵令息


 時間は過ぎて、昼休みになった。


 教室の中は、まだ少し騒がしかった。

 私の魔法のこと。エドガーとベッラのこと。

 その二つが、ちょうどいい話題になっているのだろう。


 生徒たちはちらちらとこちらを見ながら、小声で何かを話している。

 だが、直接近づいてくる者はいない。

 まあ、それでいい。


 今は誰かと話すよりも、もっと大事なことがある。

 小鳥だ。いや、小鳥でなくてもいい。

 できれば何か、柔らかくて、丸くて、温かい動物に触れたい。


 私は教科書を机の中へしまい、席を立った。

 教室を出ると、廊下には昼休みらしい賑わいがあった。

 私は人混みを避けるように歩き、校舎の端へ向かった。


 リシェルの記憶によると、校舎の裏手にはあまり人の来ない庭がある。

 整えられた中庭と違い、少し木々が多く、昼休みでも静かな場所らしい。

 今までのリシェルは、誰かに見つからないようにそこへ行っていた。


 ただ一人になりたかったのだろう。

 今の私も、目的は少し違うが、静かな場所へ行きたい。

 裏庭へ出ると、空気が少し変わった。


 表の中庭よりも木陰が多く、風が涼しい。

 人の声も遠い。木々の葉が揺れる音だけが、耳に心地よく届く。


「ここか」


 私はゆっくりと歩いた。

 小鳥の姿は見えない。

 だが、どこかで小さな鳴き声がした。


 警戒させないように足音を抑える。

 前世の私なら、足音を消したところで無駄だった。


 存在そのものが強すぎて、近づいただけで小さな生き物たちは逃げてしまった。

 けれど今世なら……そう思った時だった。


「……ん?」


 茂みの向こうで、何かが動いた。

 草の間から、ふわりと尻尾が見える。


 細く、しなやかで、先が少し丸い。

 そして、ひょいと顔が出た。


「にゃぁ」


 猫だった。灰色の毛並みをした、小さな猫。

 丸い目で、こちらを見ている。

 私は息を止めた。


 猫、猫だ。前世の私に、最も近づいてこなかった生き物の一つだ。

 逃げる前に、必ず全身の毛を逆立てた。

 背を丸め、尻尾を太くし、まるで私が世界を滅ぼしに来たような顔をする。


 可愛いと思って近づいただけなのに、なぜあそこまで敵意を向けられたのか。

 あれは、今思い出しても少し悲しい。

 私はその場にしゃがみ込んだ。


 できるだけ小さく見せる。

 背が高いのは悪いことではないが、猫を相手にする時は別だ。

 私は右手を少しだけ伸ばす。


「こ、怖くないぞ」


 声を低く、静かにする。若干震えてしまうのは緊張しているからだ。

 猫はじっと私を見ていた。

 逃げない。まだ逃げない。


 それだけで、胸の奥が妙に熱くなる。

 猫は少し首を傾げた。

 そして、一歩こちらへ近づく。


 私は動かない。

 さらに一歩近づき、猫は私の指先の匂いを嗅いだ。

 くすぐったい……それから、猫は私の指に頬を擦りつけた。


「……っ」


 私は思わず息を呑んだ。

 逃げない。この猫、逃げない。

 それどころか、触れている。


 私に、自分から触れている。

 私は震えそうになる指先を必死に抑えながら、猫の頬をそっと撫でた。

 柔らかい。想像していたよりも、ずっと柔らかい。


 毛が細く、温かく、指の腹にふわりと沈む。

 猫は目を細めた。

 喉の奥で、小さく鳴るような音がする。


 これは、嫌がっていないということだろうか。

 むしろ、気持ちよさそうにしているのではないか。


「……生まれ変わってよかった」


 思わず本音が漏れた。

 前世で玉座に座っていた時よりも、今の方がよほど満たされている気がする。


「そうか。お前は逃げないのか」


 私は猫の頭を撫でる。

 猫はまた目を細めた。

 愛らしい。あまりにも愛らしい。


 このまま胸元に入れて持ち帰りたい。

 いや、勝手に持ち帰るのはよくないか。


 だが、抱き上げるくらいなら許されるのではないか。

 そう考えた瞬間、猫はふいと身を翻した。


「あ……」


 猫は軽やかに歩き出す。

 逃げるというより、どこかへ案内するような足取りだった。

 私は立ち上がり、後を追う。


 猫は裏庭の奥へ進んでいく。

 木々が深くなり、校舎からさらに離れる。

 猫は時々こちらを振り返る。


「にゃあ」


 ついてこい、と言われている気がした。


「待て。私はお前ほどこの木々を潜り抜けるのが上手くないんだ」


 小声で言いながら追いかける。

 しばらく進むと、大きな木が見えた。

 その木陰に、誰かがいた。


 私は足を止める。

 人だ。男子生徒が、木にもたれるようにして眠っている。

 銀色の髪に整った顔立ち。澄んだ青い瞳は、今は閉じられている。


 朝、令嬢たちに囲まれていた公爵令息。

 アルヴィン・ルンドホルムだった。

 だが、問題はそこではない。


 問題は、彼の周囲だ。

 猫がいる。

 一匹ではない。二匹、三匹、四匹。


 いや、もっといる。

 彼の膝の上に丸まっている猫。

 肩の近くで眠っている猫。


 足元で尻尾を揺らしている猫。

 先ほどの灰色の猫も、当然のように彼の近くへ行き、膝のあたりに身を寄せた。

 私はしばらく、その光景を見つめた。


「……羨ましいぞ、こいつ」


 思わず呟いた。

 猫に囲まれている。

 あれほど多くの猫に囲まれている。


 しかも、逃げられていない。

 それどころか、完全に安心されている。

 猫たちは彼のそばで、無防備に身体を預けていた。


 何ということだ。

 公爵令息という身分よりも、整った顔立ちよりも、その状況の方がよほど羨ましい。

 猫がいる場所で眠れる。それはきっと、とても贅沢なことだ。


 私は近づいた。

 猫たちはこちらを見る。

 少し警戒されるかと思ったが、逃げなかった。


 灰色の猫が小さく鳴くと、他の猫たちも興味を失ったように目を細める。

 どうやら、入ってもいいらしい。

 猫の許可が出た。


 私は静かにアルヴィンの前にしゃがみ込む。

 彼は眠っていた。

 朝見た時は、綺麗に整った人形のようだと思った。


 表情が動かず、近寄りがたく、冷たい印象があった。

 けれど今は違う。

 眠っているアルヴィンは、少しだけ眉の力が抜けていた。


 長い睫毛が頬に影を落としている。

 呼吸は静かで、猫に囲まれているせいか、どこか安心しきっているようにも見えた。


「寝顔は意外と愛らしいな」


 声に出してから、私は自分の言葉に少し納得した。

 そうだ、これは愛らしい。

 朝の石像のような姿より、今の方がずっといい。


 猫に囲まれ、木陰で眠っている公爵令息。

 私はつい、手を伸ばした。

 銀色の髪に触れる。


 柔らかい。猫の毛とは違うが、これはこれで悪くない。

 指先でそっと撫でると、アルヴィンのまぶたがわずかに動いた。


 起こしてしまうかと思ったが、彼は目を覚まさない。

 むしろ、気持ちよさそうに少し頭を傾けた。


「……む」


 私はもう一度撫でる。

 髪はさらさらとしていて、指通りがいい。

 猫とは違う。だが、猫にも負けていないかもしれない。


「やるな、アルヴィン・ルンドホルム」


 何に対してやるな、なのか自分でもよくわからないが。

 すると、アルヴィンが小さく息を漏らした。

 ゆっくりと目が開く。澄んだ青い瞳が、ぼんやりと私を映した。


 まだ完全には目覚めていないらしい。

 朝の冷たい印象はどこにもない。

 どこか幼く、無防備な目だった。


「……ん」


 アルヴィンは私を見る。

 それから、なぜか私の手に頬を寄せた。

 擦り寄るように。


 猫のように。

 私は固まった。

 猫たちも何事もないように眠っている。


 アルヴィンは眠たげな顔のまま、さらに私の手に頬を預ける。

 銀色の髪が、彼の頬が、指に触れた。

 温かい。柔らかい。


 そして、ひどく無防備だ。

(これは……愛らしすぎる)

 胸の奥で、何かが弾けた気がした。


 私は猫が好きだ。

 小さくて、柔らかくて、可愛いものが好きだ。

 だが、これは何だ。


 人間なのに、猫のようなことをしている。

 しかも、朝はあれほど冷たい顔をしていた男が、寝ぼけて頬を擦り寄せている。

 この落差はずるい。


 私はもう一度、そっと頭を撫でた。

 アルヴィンは目を細める。

 完全に猫だった。


「……夢?」


 アルヴィンが小さく呟いた。

 声が眠い。


「夢ではないと思うぞ」

「……いつもの夢じゃ……」

「いつもの夢?」


 私が聞き返すと、アルヴィンの目が少しずつはっきりしてきた。

 そして、自分が何をしているのか理解したらしい。

 彼は勢いよく身を起こした。


「にゃっ」


 膝の上で眠っていた猫が、不満そうに鳴く。


「えっ」


 アルヴィンは私を見た。

 次に、自分の周囲の猫を見る。


 そしてもう一度、私を見る。

 見る見るうちに、その顔が赤くなった。


「ゆ、夢じゃない……?」

「ああ」

「いつもの夢で、撫でられているんじゃ……」


 そこまで言って、アルヴィンは口を閉じた。

 私はまじまじと彼を見る。

 こいつ……いつも撫でられている夢を見ているのか。


 だから今のも夢だと思って、私に擦り寄ってきたのか。

(愛らしすぎないか?)

 私は真剣にそう思った。


 朝の令嬢たちは、彼の微笑みが見たいと言っていた。

 だが違う、本当に見るべきはこれだ。


 猫に囲まれ、寝ぼけて撫でられる夢を見ている公爵令息。

 これを知らずに、ただ綺麗だか格好いいだか言っているのは浅い。


「す、すまない……!」


 アルヴィンは慌てて私から距離を取ろうとした。

 だが周囲に猫がいるせいで、大きくは動けない。

 猫たちは迷惑そうに尻尾を揺らしている。


「今のことは忘れてくれ」

「断る」

「……なぜ即答するんだ」

「実に愛らしかったからだ」

「あ、愛らしかっただと?」


 アルヴィンの顔がさらに赤くなる。

 朝の無表情な公爵令息はどこへ行ったのだろう。


 目の前にいるのは、ただ照れている少年だった。

 なるほど、これはいい。


「ああ、もう一度撫でたいからそこに横になれ」

「なっ……そ、そんなことはしない!」

「そうか? 夢に見るほどに撫でられたいんじゃないのか?」

「くっ……!」


 アルヴィンは言葉に詰まった。

 否定したいのに、先ほど自分で口走ってしまったため、否定しきれないらしい。

 実にわかりやすい。


「安心しろ。別に馬鹿にはしていない」

「……本当か?」

「ああ。ただ、かなり可愛いとは思っている」

「それは馬鹿にしているのと何が違うんだ……」

「大きく違う。可愛いは褒め言葉だ」


 アルヴィンは片手で顔を覆った。

 耳まで赤い。

 猫の一匹が、そんな彼の膝に前足を乗せる。


 アルヴィンは反射的にその猫を撫でた。

 指先が優しい。

 慣れている手つきだった。


 猫は満足そうに目を細める。

 私はその光景を見て、さらに感心した。


 猫に好かれるだけではなく、扱いも上手い。

 これは本当に持ち帰りたいな、猫ごと、こいつも。


「……ところで、お前は」


 アルヴィンが少しだけ落ち着いた声で言った。


「名前は?」

「リシェル・オーケソンだ」

「オーケソン……」

「ああ。そういうお前は、アルヴィン・ルンドホルムだな」


 朝に見たから知っている。

 周囲の令嬢たちが名前を呼んでいたので、覚える気がなくても覚えた。

 私は彼を見ながら、少し考えた。


「長いな」

「何がだ?」

「名前が」

「普通だと思うが」

「今日からアルと呼ぶ」


 アルヴィンは目を瞬かせた。

 そして、また少し赤くなった。


「っ、その呼び方は家族しか……」

「そうか」


 私は頷いた。そして、笑みを浮かべる。


「では私も呼ぶぞ」

「どうしてそうなる」

「呼びやすいからだ」

「理由が強引すぎると思うが……お前、年下だし伯爵令嬢だよな? 俺は公爵令息だぞ」

「それが? 嫌ならやめるが」


 私がそう言うと、アルヴィンは少し言葉に詰まった。

 視線を逸らす。


 膝の上の猫を撫でながら、しばらく黙る。

 そして、小さく息を吐いた。


「……勝手にしろ」

「そうか。では、アル」

「すぐ呼ぶな」

「慣れたほうがいい」

「君は本当に勝手だな」

「よく言われた」


 前世でだが。

 アルは呆れたようにこちらを見た。

 けれど、その目に強い拒絶はない。


 むしろ、困っているだけに見える。

 何とも素直ではない。

 言葉では嫌がるくせに、完全には離れようとしない。


 まるで猫のようだ。

 そう思ったら、また手が伸びていた。

 私はアルの頭を撫でる。


「なっ……」


 アルは少し身じろぎした。

 拒むかと思った。

 だが、彼は何も言わなかった。


 ただ耳まで赤くしたまま、目をつぶる。

 灰色の猫が、どこか満足そうに「にゃ」と鳴いた。

 猫たちの間で、銀色の髪が指に触れる。


 柔らかい。温かい。実に愛らしい。

 私は静かに確信した。

 アルヴィン・ルンドホルム。


 いや、アル。この男は、かなり可愛い。

 少なくとも、猫に次ぐくらいには。


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