第26話 学園祭、二日目
翌日も、学園祭は続いていた。
昨日あれだけの騒ぎがあったというのに、学園は朝から賑やかだった。
廊下には生徒たちの声が響き、模擬店の前では来賓や近隣の貴族たちが楽しそうに話している。
人間とは意外とたくましい。
前世の魔族の宴でも、前日に喧嘩で壁が壊れても、翌日には普通に酒を飲んでいた。
少し似ている。
ただ、今日はエドガーとベッラの姿がない。
廊下を歩いていると、生徒たちの小さな声が聞こえた。
「エドガー様とベッラ様、謹慎らしいわ」
「学園祭にも参加できないんでしょう?」
「リシェル様との婚約も、解消になるって聞いたわ」
「昨日のあれでは当然よね……」
婚約解消、そうか。
では、もう婚約者ではないのだな。
元々、エドガーは私にとって大事な相手ではなかった。
自分の意思で結んだ婚約でもない。
だから、それがなくなったと言われても、あまり実感はない。
むしろ、もう関わらなくていいなら楽だ。
「リシェル」
聞き慣れた声がした。
振り返ると、アルが立っていた。
今日も銀髪が光を受けて綺麗だ。
昨日より少し、表情が柔らかい気がする。
「アル」
「今日は、魔獣展示だけに行くな」
「なぜだ」
「学園祭だからだ」
「魔獣展示も学園祭だろう」
「そうだが、それだけではない」
アルは少し目を逸らした。
「俺が案内する」
私は首を傾げる。
「それは、デートというものか?」
アルが固まった。
「……違う」
「違うのか」
「いや、完全に違うとも言い切れない」
「難しいな」
「言わせるな」
少し耳が赤い。
実に愛らしい。
「わかった。案内されよう」
「ああ」
「ただし、魔獣展示にも行く」
「知っている」
アルは最初からわかっていたように言った。
話が早いな、実に良い。
まずアルが連れて行ってくれたのは、模擬店が並ぶ広場だった。
焼き菓子の甘い匂い。
果実水の爽やかな香り。
昨日の甘く濁った嫌な香りとは違う。
こちらは悪くない。
「これは蜂蜜を使った焼き菓子だ」
アルが小さな菓子を買って渡してくれた。
「甘いのか」
「ああ」
「アルはこれが好きなのか?」
「……まあ、好きだな」
「そうか。なら、私も食べる」
アルが少し驚いた顔をした。
「俺が好きなら食べるのか」
「お前が好きだと言うなら、信頼できるだろう」
「……そういうものか」
「そういうものだ」
私は焼き菓子を一口食べた。
外は少し固く、中は柔らかい。
蜂蜜の甘さが広がる。
「悪くない」
「そうか」
「ああ。たまには菓子もなかなか良いな」
そう言うと、アルが私の顔をじっと見た。
「何だ?」
「ついているぞ」
「ん、どこだ?」
「ここだ」
アルが指を伸ばした。
私の口元についた粉を、指先でそっと取る。
取った後で、アル自身が少し固まった。
私はその指先を見て、それからアルを見る。
「今のは、なかなか親密な行為ではないか?」
「……うるさい」
「照れているのか、実に愛らしい奴だな。自分からやったというのに」
「うるさい」
二回言ったな、わかりやすい。
最近のアルは、本当に愛らしさが増している。
次に向かったのは、輪投げの店だった。
小さな輪を投げて、景品の前に立つ棒へ入れるらしい。
景品の中に、猫の形をしたぬいぐるみがあった。
丸い耳。
短い手足。
少しふてぶてしい顔。
可愛い。
「アル、あれは何だ」
「景品だな」
「可愛い」
「欲しいのか」
「欲しい」
私は輪を受け取った。
距離はたいしたことがない。
棒の細さも問題ではない。
この程度なら、全部入れられる。
それなら、可愛いぬいぐるみを全部取ってやろう。
そう思って一つ目を構えると、アルが私の手首を軽く掴んだ。
「待て、やりすぎるなよ」
「なぜだ?」
「遊びだからだ」
「勝ってはいけないのか」
「勝っていいが、店ごと潰すな」
「ふむ、遊びは難しいな」
勝ちすぎるのはよくないらしい。
前世でも、力加減はよく注意された。
宴の腕相撲で机を壊した時も、側近に怒られた。
懐かしいな。
「一つだけならいいのか」
「一つだけならいい」
「わかった」
私は輪を投げた。
輪は「ぬいぐるみ」と書いてある棒へ、綺麗に入った。
店番の生徒が目を丸くする。
「い、一発で! お見事です! ぬいぐるみをお一つどうぞ!」
ふむ、ぬいぐるみの中から一つ選ぶということか。
いろいろとあるから少し迷うが、やはり猫だな。
そう思って猫のぬいぐるみを取ろうとしたら、アルが先に取った。
「ほら、これだろう」
私は少し目を丸くした。
「なぜ私が取ろうとしたのがわかったんだ?」
「……そりゃ、いつも見ているからな。リシェルが好きそうなやつならわかる」
「……ふふっ、そうか。ありがとう、アル」
素直に礼を言うと、アルは少し顔を逸らした。
「別に、俺が取ったわけではない」
「だが、渡してくれただろう」
「それだけだ」
「嬉しいぞ」
アルは黙った。
耳が赤い。
猫のぬいぐるみも可愛いが、アルも可愛い。
私は両方を見比べる。
ふむ、どちらも良い。
しばらく歩いた後、アルは中庭の方へ向かった。
学園祭の賑わいは少しずつ遠くなり、人や呼び込みの声も、木々の向こうへ薄れていく。
そこは、いつも猫たちが集まっている場所だった。
木陰のベンチがあり、花壇の縁には何匹かの猫が丸くなっている。
枝に結ばれた学園祭の飾り紐が、風に揺れていた。
「ここに来たかったのか?」
私が尋ねると、アルは少し目を逸らした。
「人が多かったからな」
「確かに多かったな。ここは静かでいい」
「ああ、そうだな」
そう言いながら、アルは私の隣に腰を下ろす。
以前なら少し距離を空けていただろうが、今は肩が触れそうなくらい近い。
「撫でるか?」
「なぜそうなる」
「疲れたなら、撫でられると落ち着くかもしれないだろう」
「……お前の中ではそうなのか」
「そうだ。私も撫でたほうが癒される」
アルは少し黙った。
それから、小さく息を吐く。
「少しだけなら」
素直だ。
実に愛らしい。
私は猫のぬいぐるみを横に置き、アルの頭に手を伸ばした。
銀の髪に触れると、さらりとしていて指通りが良い。
アルは少し肩を強張らせたが、逃げない。
むしろ、ほんの少しだけ頭を下げている。
「よしよし」
「その言い方はやめろ」
「嫌なのか」
「……嫌ではないが」
「なら続ける」
「少しだけだ」
そう言いながらも、アルは動かなかった。
花壇の縁にいた白い猫が近づいてきて、私の足元で丸くなる。
別の灰色の猫は、アルの靴に身体を擦り寄せた。
猫たちも、今のアルが落ち着いていることをわかっているのかもしれない。
「お前は猫にも好かれるな」
「俺より、お前の方が好かれているだろう」
「そうか? だが、私はアルにも好かれている」
アルが一瞬黙った。
「……否定はしない」
胸の奥が少し温かくなった。
誰かに好かれるというのは、悪くない。
「お前も、私に好かれているぞ」
そう言うと、アルの耳が赤くなる。
「それは、魔獣や猫と同じ意味か?」
「違うな。猫も魔獣も可愛いが、お前はアルだから可愛い」
「……よくわからない」
「私もあまりわからない。だが、特別だということはわかる」
アルは何も言わず、少しだけ顔を逸らした。
実に、実に愛らしい。
「もういい」
「そうか」
私が手を離そうとすると、アルが小さく呟く。
「……いや、あと少し」
「ふふっ、わかった。私もあと少しやりたいところだった」
私はもう一度、ゆっくりと頭を撫でた。
しばらくして、アルが小さく息を吐く。
それはため息ではなく、安心した時の息だった。
「アル」
「なんだ」
「学園祭も悪くないな」
「魔獣展示以外もか?」
「ああ。猫がいて、お前がいて、撫でられる」
「基準が偏っているな」
「大事な基準だ」
アルは呆れたように笑った。
その表情が柔らかくて、また撫でたくなる。
だが、これ以上撫でると魔獣展示へ行く時間が減る。
「では、そろそろ魔獣展示へ行こう」
「結局そこか」
「魔獣がいるからな」
「知っていた」
アルは呆れたように言ったが、立ち上がる時の表情は穏やかだった。
足元の白い猫が、私たちを見送るように小さく鳴いた。
「にゃ」
「また来る」
猫にそう告げて、私は猫のぬいぐるみを抱き直す。
魔獣展示は、安全確認を終えて再開されていた。
昨日の事件があったとは思えないほど、会場は落ち着いている。
教師たちの数は少し増えていたが、魔獣たちは穏やかだった。
「リシェル様!」
ミーナがこちらに気づいて駆け寄ってくる。
「昨日のグリフォンの子、少し落ち着きました……!」
「そうか。よかった」
「リシェル様にも会わせても大丈夫だと、先生が……!」
案内された区画には、瑠璃羽のグリフォンの幼獣がいた。
青い羽は昨日より整っている。
瞳のぼんやりした感じも消えていた。
私を見ると、グリフォンは小さく鳴いた。
「ピィ」
そして、羽を震わせながらも、自分から近づいてくる。
「もう怖くないか」
「ピィ……」
「そうか。偉いな」
私は膝をつき、そっと頭を撫でた。
グリフォンは目を細める。
嘴を私の手に軽く寄せた。
昨日のことを聞いたのだろう。
周囲には、少し人が集まっていた。
だが、昨日とは視線が違う。
「本当に懐いているわ」
「リシェル様がいたから助かったのね」
「魔獣も安心しているみたい」
疑いではない。
感心と、少しの驚き。
それは悪くなかった。
私はグリフォンを撫でる。
可愛い、とても可愛い。
アルが横で言った。
「お前、本当に魔獣に好かれるな」
「悪くない」
「人間にも、もう少し興味を持て」
「持っているぞ」
「誰に?」
「一番はアルだな」
アルが黙った。
私は首を傾げる。
「違ったか?」
「……違わない」
その様子がまたさらに愛らしい。
夕方になり、学園祭二日目も終わりに近づいていた。
腕の中には、アルが渡してくれた猫のぬいぐるみ。
足元には、少しずつ落ち着きを取り戻した瑠璃羽のグリフォン。
隣には、私を気遣ってくれるアル。
婚約者はいなくなった。
ベッラもエドガーも、もう以前のようには振る舞えないだろう。
だが、そんなことよりも。
隣で少し照れたように顔を逸らすアルの方が、今の私にはずっと大事だった。
学園祭というものは、思っていたより悪くない。
そう思いながら、私は隣の愛らしい男を見上げた。




