第27話 悪くない
学園祭二日目も、終わりに近づいていた。
空は少しずつ赤くなり、校舎の窓にも夕日が映っている。
朝から賑やかだった廊下も、少しずつ人が減ってきた。
それでも、まだあちこちから笑い声や話し声が聞こえる。
学園祭というものは、思っていたよりも長い。
私はアルが渡してくれた猫のぬいぐるみを抱えながら、魔獣展示の区画にいた。
足元には、瑠璃羽のグリフォンの幼獣がいる。
昨日はあれほど震えていたが、今はだいぶ落ち着いているようだった。
青い羽も綺麗に整えられ、瞳のぼんやりとした色も消えている。
良いことだ。
「ピィ」
グリフォンは私を見上げて、小さく鳴いた。
「どうした」
私がしゃがむと、グリフォンはとてとてと近づいてくる。
それから、私の袖を嘴で軽く咥えた。
帰るな、と言っているように見える。
可愛いな。
「寂しいのか?」
「ピィ……」
「そうか。私も寂しいよ」
そう言って頭を撫でると、グリフォンは目を細めた。
非常に可愛い。
このまま抱えて帰りたいところだが、そう簡単にはいかない。
瑠璃羽のグリフォンは珍しい魔獣だ。
しかも、昨日の件で弱っていた。
しばらくは学園の魔獣管理の教師たちが様子を見ることになっている。
そうはわかってはいるが、可愛いものと離れるのは少し残念だ。
「リシェル様」
魔獣管理の教師が近づいてきた。
隣にはミーナもいる。
ミーナは記録帳を抱きしめながら、どこか嬉しそうに私とグリフォンを見ていた。
「その子は、ずいぶん君に懐いたようだね」
「そう見えるか?」
「見えるよ。君が離れようとすると、落ち着かなくなる」
教師は少し困ったように笑った。
「本来なら、しばらく学園で保護する予定だったんだけどね。この様子だと、君に会えない時間が長すぎるのもよくないかもしれない」
「ふむ」
グリフォンも私を見ている。
青い瞳が、じっと私を見上げていた。
「私を選んだのか?」
「ピィ」
小さく、だがはっきりと鳴いた。
胸の奥が、少し温かくなる。
前世では、こういうことはあまりなかった。
魔獣や魔物が近づいてくることはあったが、多くは恐れていた。
だから、こうして自分から近づいてきてくれるのは、やはり嬉しい。
「また増えたな」
隣でアルが言った。
「リシェルに懐く魔獣が」
「良いことだ」
「まあ、良いことだな。お前にとっては」
アルはそう言って、グリフォンを見る。
グリフォンもアルを見上げた。
昨日、アルが香炉を見つけてくれたことを覚えているのか、警戒はしていないようだった。
「ルンドホルム家で預かることもできる」
アルが言った。
私は顔を上げる。
「いいのか?」
「ああ。うちにはシルヴァもいる。魔獣を預かる環境は整っているし、学園より静かに休ませられる場所もある」
教師が少し驚いた顔をした。
「それは、ありがたい申し出ですね。ルンドホルム公爵家なら、魔獣の扱いにも問題はないでしょうし……」
ミーナもぱっと顔を明るくする。
「そ、それなら、グリフォンの子も安心できるかもしれません……!」
「もちろん、正式な手続きは必要だが」
アルは落ち着いた声で続けた。
「学園と家で話を通す。だが、その子がリシェルから離れたがらないなら、リシェルが会いに来られる場所にいた方がいいだろう」
「つまり、私はまたルンドホルム家に行けばいいのか」
「ああ」
「シルヴァにも会えるな」
「目的が増えているな」
「シルヴァは可愛い」
「否定はしないが」
「もちろん、アルにも会える」
アルが少し黙った。
「……そうか」
耳が赤い。
実に愛らしい。
「なら、行こう」
「まだ手続きも終わっていないし、日にちも決まっていない」
「では、決まったら行こう」
「まあ、そうだな」
アルはそう言って、少しだけ笑った。
その横で、グリフォンが私の袖をもう一度咥える。
「ピィ」
「大丈夫だ。お前を置いてどこかへ消えたりはしない」
私はグリフォンの頭を撫でる。
「また会いに来る」
「ピィ……」
グリフォンは少し安心したように、私の手に頭を押しつけた。
その様子を見ていたミーナが、小さく息を吐く。
「本当に、リシェル様がいてくださってよかったです」
「私が?」
「はい」
ミーナは強く頷いた。
「昨日、リシェル様がいなかったら、あの子はもっと怖い思いをしていたと思います。ほかの魔獣たちも、きっと混乱していました」
「私は可愛いものを助けただけだ」
「それでも、助けられた子がいます」
ミーナは真剣な顔で言った。
「リシェル様が手を伸ばしてくださったから、この子は助かったんです」
そう言われて、私は少し黙った。
前世では、私が手を伸ばすと、多くの者は身構えた。
従う者はいても、安心する者は少なかった。
強すぎる力は、時に守るためのものではなく、恐れられるためのものになってしまう。
それは仕方のないことだと思っていた。
だが、今は違うのかもしれない。
私はグリフォンを見る。
この子は、私の手を怖がらない。
むしろ、自分から頭を寄せてくる。
ミーナも、私を怖がってはいない。
少し緊張はしているが、それは怯えではない。
そしてアルは、私の隣に当然のように立っている。
不思議なものだ。
私は、ただ前世の記憶を持って目覚めただけだ。
居場所など、あまりないものだと思っていた。
だが、どうやら違うらしい。
「ミーナ」
「は、はい」
「お前もよく頑張ったな」
そう言うと、ミーナの目が揺れた。
「わ、私ですか……?」
「ああ。昨日も、今日もな」
「そんな、私は……!」
「偉いぞ」
ミーナは顔を真っ赤にした。
そして、なぜか泣きそうな顔になる。
「リシェル様……」
「ん、泣くのか?」
「な、泣きません……!」
「そうか」
泣きそうだが、本人が泣かないと言うならそうなのだろう。
私は空いている方の手で、ミーナの頭を軽く撫でた。
「はぅ……!」
ミーナが小さな声を漏らす。
アルが横でじっとこちらを見ていた。
「アル」
「なんだ」
「お前も撫でるか?」
「ここではいい」
「ここでは?」
「……いちいち聞くな」
そう言いながら、少しだけ不満そうだ。
やはりアルも可愛い。
そして、学園祭の終了を知らせる鐘が鳴った。
高く澄んだ音が、夕方の空に響く。
生徒たちが片づけを始め、来賓たちも少しずつ帰っていく。
魔獣展示の区画も、教師たちが閉める準備を始めていた。
グリフォンは最後まで私のそばを離れようとしなかったが、教師に抱えられると、小さく鳴きながら私を見た。
「ピィ……」
「また会いに来る」
「ピィ」
「いい子にしているんだぞ」
そう言うと、グリフォンは少しだけ胸を張った。
可愛い、実に可愛い。
名残惜しいが、今日はここまでだ。
私は猫のぬいぐるみを抱き直し、アルと一緒に会場を出た。
校舎の廊下は、昼間よりもずっと静かになっている。
飾り紐がまだ残っていて、窓から入る夕日に照らされていた。
昨日はこの学園祭で、エドガーとベッラが自らの不正を晒した。
今日、二人はここにいなかった。
婚約者もいなくなった。
家で私を見下していた姉も、今まで通りにはいかない。
だが、不思議と大きな感慨はない。
私にとって大事なのは、そこではないらしい。
「リシェル」
アルが隣で言った。
「屋敷まで送る」
「いいのか?」
「ああ、もちろん」
「そうか、では頼む」
アルは当然のように私の隣を歩く。
その距離は近い。
肩が触れそうなほどではないが、以前よりずっと近い。
決められた婚約者はいなくなった。
だが、自分の意思で隣に立つ者がいる。
それは、思っていたよりも心地よいものだった。
「アル」
「なんだ」
「今日の学園祭は楽しかったな」
「魔獣展示だけではなく?」
「ああ。菓子も、輪投げも、猫もよかった」
「そうか、それならよかった」
「それに、アルが一緒にいてくれたからな」
アルが一瞬黙った。
それから、少しだけ顔を逸らす。
「……そうか」
耳が赤い。
実に愛らしい。
私は手を伸ばし、アルの頭を撫でた。
「なぜ今撫でる」
「可愛かったからだ」
「理由が単純すぎる」
「大事な理由だ」
銀の髪は、やはり指通りが良い。
夕日を受けて淡く光っていて、とても綺麗だった。
アルは少しだけ肩を強張らせたが、逃げなかった。
むしろ、ほんの少しだけ歩みを遅くしている。
撫でやすいようにしてくれているのだろうか。
可愛い。
「アル」
「今度はなんだ」
「私はお前が好きだ」
アルの足が止まった。
見上げると、青い目が大きく揺れている。
先ほどまで赤かった耳が、さらに赤くなった。
「……お前は、そういうことを急に言うな」
「急だったか?」
「急だ」
「だが、思ったことを言っただけだ」
アルはしばらく黙っていた。
そして、少し苦しそうに息を吐く。
「……俺も、好きだ」
小さな声だった。
だが、確かに聞こえた。
「そうか」
「ああ」
「嬉しいな」
胸の奥が温かくなる。
魔獣に懐かれた時とも、猫を撫でている時とも少し違う。
だが、とても心地よい。
私はもう一度、アルの頭を撫でた。
「やはりアルは可愛いな」
「……ちなみに、それはどのくらいだ」
「どのくらい?」
「魔獣や猫と比べて、だ」
私は少し考えた。
「魔獣よりも可愛いとは思うぞ」
アルが固まった。
「……そうか」
「どうした」
「いや、喜ぶべきなのか、少し悩んだ」
「褒めているぞ」
「わかっている。お前にとっては、かなり上位の褒め言葉だろう」
「もちろんだ」
私が頷くと、アルは少しだけ落胆したような顔をした。
だが、すぐに小さく笑う。
「本当に、リシェルらしいな」
「そうか?」
「ああ」
その笑い方が、とても柔らかかった。
私はまた胸の奥が少し動くのを感じた。
魔獣を可愛いと思う気持ちとも、猫を撫でたいと思う気持ちとも違う。
アルが笑うと、なぜかもっと見ていたくなる。
もっと撫でたくなる。
もっと隣にいてほしいと思う。
この男は、特別に可愛い。
私の心を、魔獣以上に動かす。
この気持ちが何なのかは、まだよくわからない。
だが、悪くない。
前世の私は、強すぎて誰も近づけなかった。
だが、今世の私はどうやら違うらしい。
私を選ぶ魔獣がいる。
私を慕う者がいる。
私の言葉で安心してくれる者がいる。
そして、私の隣を当然のように歩き、私の言葉で赤くなる男がいる。
私は隣のアルを見る。
目が合うと、アルはまだ少し照れたように顔を逸らした。
実に愛らしい。
この人生は、思っていたよりずっと悪くない。
ここでひとまず完結です!
最後まで読んでいただきありがとうございます!
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