第21話 義姉と婚約者の足掻き
銀角黒豹の騒ぎ以来、エドガー・ナルティスの立場は悪くなっていた。
以前の彼は、子爵家の嫡男として、それなりに周囲から見られていた。
オーケソン伯爵家の令嬢であるリシェルの婚約者でもある。
だから、姉のベッラと多少親しくしていても、周囲は表立って何も言わなかった。
だが、今は違う。廊下を歩けば、視線を感じる。
近くで話していた生徒たちが、エドガーに気づくと声を潜める。
「あの銀角黒豹の時……」
「ベッラ様の隣にいた人でしょう?」
「リシェル様の婚約者なのに……」
「しかも、何もできなかったって……」
小さな声だった。だが、聞こえる。
エドガーは拳を握った。
あの場では、誰も動けなかったのだ。
リシェルと公爵令息のアルヴィン以外は。
そう言い返したいが、言い返したところで余計に惨めになるだけだった。
自分は、動けなかった。その事実だけが、学園中に広まっている。
さらに悪いことに、エドガーの家にもその話は伝わっていた。
数日前、エドガーはナルティス子爵家に呼び戻された。
父は執務室で待っていた。母も隣に座っている。
二人とも、以前よりずっと冷たい目をしていた。
「エドガー」
父が低い声で言った。
「銀角黒豹の件について、学園から連絡が来ている」
「……はい」
「お前はベッラ嬢の隣にいながら、何もできなかったそうだな」
「それは……状況が、急で」
「言い訳はいい」
父の声が鋭くなる。
エドガーは唇を噛んだ。
母がため息をつく。
「あなたはリシェル嬢の婚約者でしょう。それなのに、最近のあなたはベッラ嬢とばかりいると聞いています」
「それは、ただ親しくしていただけで……」
「その結果、評判を落としているのよ」
母の言葉は冷たかった。
以前なら、もう少し庇ってくれた。
少なくとも、自分を信じてくれていた。
だが今は違う。両親まで、自分を見る目を変えている。
父は机の上に一枚の書類を置いた。
「学園祭の魔獣契約競技に、お前の名で申請を出しておいた」
「契約競技……?」
「ああ。こちらで、瑠璃羽のグリフォンの幼獣を用意した」
瑠璃羽のグリフォン。
青い羽を持つ希少な魔獣だ。
幼獣とはいえ、気位が高く、簡単に人を選ばない。
だが、契約候補として心を通わせることができれば、注目される。
学園祭には、生徒だけでなく、保護者や来賓も来る。
そこで成功すれば、落ちた評価を取り戻せるかもしれない。
父はエドガーを見据えた。
「わかっているな?」
「……はい」
「今度また評判を下げるようなことがあれば、どうなるか」
エドガーは喉を鳴らした。
子爵家の嫡男。リシェルの婚約者。
それらは、当たり前にあるものだと思っていた。
だが、父の目はそうではなかった。
失敗すれば、すべて失うかもしれない。
「わかっています」
エドガーは頭を下げた。
その場では、そう言うしかなかった。
だが、自室に戻った瞬間、怒りが込み上げてきた。
机の上に置いてあった本を払い落とす。
「くそっ……!」
なぜ、自分がこんな目に遭わなければならないのか。
両親まで、自分を疑うようになった。
周囲も、自分を軽く見るようになった。
すべて、リシェルのせいだ。
以前のリシェルは、もっと暗く、俯いていた。
婚約者である自分に反抗することもなかった。
それなのに、今は違う。
堂々と歩き、魔獣を従え、アルヴィンの隣にいる。
しかも、学園の生徒たちはそんなリシェルを好意的に見ている。
「思い知らせてやる……」
エドガーは低く呟いた。
その頃、ベッラ・オーケソンもまた、学園で居場所を失っていた。
セリアたちは、すでに学園に戻ってきている。
だが、ベッラの側にはいない。
以前なら、ベッラが廊下を歩けば自然と隣に並んだ。
ベッラが笑えば笑い、リシェルを見下せば同じように見下した。
だが今は、目が合っただけで逸らされる。
「セリア」
ベッラが声をかけると、セリアは肩を揺らした。
「少し話があるのだけれど」
「も、申し訳ありません、ベッラ様。先生に呼ばれておりますので」
セリアは早口で言い、逃げるように去っていく。
ラウラとニナも同じだった。
「あなたたち、私を避けているの?」
ベッラが問い詰めると、二人は顔を青ざめさせた。
「そ、そういうわけでは……」
「ただ、私たちはもう、魔獣には関わりたくありませんの……」
その言葉に、ベッラの顔が歪む。
「私のせいだと言いたいの?」
「違います。ただ……」
ラウラが視線を落とす。
「リシェル様を怒らせるようなことは、もう……」
その言葉で、ベッラの胸に熱いものが走った。
リシェル様。あの女を、そう呼んだ。
自分の取り巻きだった令嬢が。
いつも自分の隣でリシェルを笑っていた令嬢が。
今はリシェルを恐れている。
いや、恐れているだけではない。どこかで認めている。
それが、ベッラには許せなかった。
「……もういいわ」
ベッラが冷たく言うと、二人はほっとしたように頭を下げて去っていった。
その後ろ姿を見ながら、ベッラは唇を噛む。
自分の周りにいたものが、少しずつ離れていく。
そしてそのぶん、リシェルの周りには人が集まっていく。
下級生のミーナ。助けられた女生徒たち。魔獣たち。
そして、公爵令息のアルヴィン。
「リシェルばかり……なぜ、あの子ばかり……!」
声が震えた。悔しさで、視界が歪む。
そんな時、エドガーがベッラに声をかけた。
二人が会ったのは、校舎の端にある人気の少ない廊下だった。
以前のように楽しげな空気はない。
互いに余裕がなく、苛立ちだけが残っている。
「学園祭で、僕は魔獣契約競技に出る」
エドガーが言った。
「あなたが?」
ベッラが思わず聞き返す。
エドガーの眉がぴくりと動いた。
「僕だって本来は評価されるべき人間だ。珍しい魔獣と心を通わせれば、皆も思い出す」
「何を?」
「僕が、リシェルより上にいるということをだ」
ベッラは少し黙った。
それから、薄く笑う。
「そうね。学園祭には来賓も保護者も来る。そこで目立てば、評価は戻るかもしれないわ」
「ああ」
「でも、それだけでは足りない」
ベッラの声が低くなる。
「リシェルの評判を落とさないと」
エドガーは顔をしかめた。
「また騒ぎを起こすつもりか?」
「騒ぎではないわ。真実を見せるだけよ」
「真実?」
「魔獣に好かれる令嬢だなんて、馬鹿げているもの」
ベッラは吐き捨てるように言った。
「あの子は、強すぎる魔力で魔獣を怖がらせているだけよ。皆が勝手に勘違いしているの」
エドガーは黙る。
そんなはずはない、と言い切れなかった。
リシェルが魔獣に懐かれている姿は、何度も見ている。
だが、それを認めるのは嫌だった。
認めれば、自分が劣っていることになる。
ベッラは小さな紙包みを取り出した。
ほんのわずかに、甘い香りが漂う。
「少し、魔獣の気を引くだけよ」
「それは……」
「危ないものではないわ。使い方さえ間違えなければ」
エドガーはその紙包みを見た。
ここで成功しなければ、自分は終わる。
エドガーは奥歯を噛んだ。
「……リシェルに恥をかかせられるなら、やる価値はある」
ベッラの目が光った。
「でしょう?」
二人は魔獣のことなど考えていなかった。
瑠璃羽グリフォンの幼獣が怖がるかどうか。
傷つくかどうか。何を感じるか。
そんなことは、二人にとって重要ではない。
重要なのは、自分たちの評価を取り戻すこと。
リシェルを引きずり下ろすこと。
ただ、それだけだった。
その日の放課後。
ベッラはもう一度、セリアたちの姿を見かけた。
楽しそうに話していた三人は、ベッラに気づくと一瞬で黙る。
そして、逃げるように道を変えた。
ベッラは立ち止まる。
以前なら、そんなことはなかった。
誰も自分から離れなかった。誰も自分に背を向けなかった。
なのに、今は違う。
皆、リシェルを恐れている。認めている。
そして自分を、以前ほど敬っていない。
それが何より屈辱だった。
ベッラは拳を握りしめる。
「……学園祭で、必ず思い知らせてやるわ」
リシェル・オーケソンは、魔獣に好かれる令嬢という評判は、そこで終わる。
エドガーもベッラも、そう信じていた。
その魔獣にも意思があることなど、少しも考えないまま。




