第20話 アルが実に愛らしい
ルンドホルム公爵家を訪ねてから、数日が経った。
あの日、シルヴァの術式を壊した。
白銀の聖獣は落ち着き、アルにも額を預けるようになった。
それは良いことだ。とても良いことだった。
だが、それとは別に、もう一つ変わったことがある。
アルだ。
「リシェル」
中庭の木陰で本を読んでいると、アルが当然のように隣へ来た。
以前も隣にいることは多かった。
だが、今は少し違う。
距離が近い。
前は、私が近づくと少し警戒していた。
撫でようとすると逃げることもあった。
でも文句を言わずに撫でられる、というくらい。
八割がツンで、二割がデレ。そんな感じだった。
しかし今は違う。
八割がデレで、二割が照れ隠し。
愛らしさが増している。
実に、実に危険だ。
「何を見ている」
「お前を見ている」
「なぜ」
「愛らしいからだ」
「……朝からそれか」
アルは眉を寄せた。
だが、隣から離れようとはしない。
むしろ、私のすぐ横に腰を下ろした。
以前なら、少し間を空けていただろう。
今は違う、肩と肩が当たるくらいの距離感だ。
近いが、実に良い変化だ。
「撫でるか?」
私は尋ねた。
アルは少し黙る。
「……今はいい」
「今は?」
「言葉の綾だ」
「そうか。では後でだな」
「……ああ、それでいい」
言った、言ったな。
以前なら、そこで否定していたはずだ。
「そんなことは言っていない」「勝手に決めるな」「俺を何だと思っている」などと。
そういうことを言っていた。
だが今は正直になった。
私は少し感動した。
「成長したな、アル」
「何の話だ」
「撫でられることを受け入れられるようになった」
「その成長は必要なのか?」
「必要だろう。可愛いものは撫でられるべきだ」
「俺は魔獣でも猫でもない」
「知っている。アルだ」
「わかっているならいい」
「アルも可愛い」
「結局そこに戻るのか」
アルはため息をついた。
だが、嫌そうではない。
私は心の中で頷く。
アルは愛らしい。
そして、その愛らしさを自覚し始めている。
素晴らしいことだ。
その時、中庭の向こうから数人の生徒が歩いてきた。
何か大きな板を持っている。
そこには、色とりどりの文字で何かが書かれていた。
「学、園、祭……」
私はその文字を読んだ。
「学園祭か」
「ああ。そろそろ準備が始まる」
アルが言った。
「お前は知っていたのか」
「毎年あるからな」
「そうなのか」
前世でも祭りはあった。
国を挙げての祭りも、戦勝を祝う宴も、魔族たちが勝手に盛り上がる酒宴もあった。
だが、学園祭というものは知らない。
人間の学園では、そういうものがあるらしい。
「何をするんだ?」
「生徒の研究発表や、展示、模擬店、演劇などだな。学年ごとに催しもある」
「そうか」
「興味がなさそうだな」
「まだ判断できないがな」
演劇や模擬店はよくわからない。
だが、展示なら少し面白いかもしれない。
そう思っていると、近くを通った生徒たちの会話が聞こえた。
「今年の魔獣展示、結構大きいらしいよ」
「魔獣競技もあるんでしょう?」
「契約競技には、珍しい魔獣も出るらしいわ」
私は顔を上げた。
魔獣。今、魔獣と言ったな。
「アル」
「急に目が変わったな」
「魔獣展示とは何だ」
アルは少し笑った。
「学園祭の催しの一つだ。小型魔獣や、人に慣れた魔獣を展示する。来客にも、魔獣管理について知ってもらうためのものだな」
「見世物にするのか」
私は少し眉を寄せた。
可愛いものを見世物にするのは、少し気に入らない。
人間は時々、可愛いものを自分たちの都合で飾りにする。
それはよくない。
猫も、魔獣も、聖獣も、生きている。
見せるための道具ではない。
アルは私の表情を見て、すぐに言った。
「無理をさせるものではない。魔獣管理の教師が管理している。展示されるのは人に慣れた魔獣だけだ。嫌がる個体は出さない」
「そうか」
「魔獣競技もあるが、負担をかけない範囲での障害物越えや、魔力合わせだ。魔獣が嫌がれば即中止になる」
「魔力合わせ?」
「契約者と魔獣が魔力を合わせて光を灯すようなものだ。信頼関係を見る」
「なるほど」
力で従わせるのではない。
それなら、少しはいい。
「魔獣契約競技というものもある」
「契約競技?」
「契約済みの魔獣ではなく、契約候補の魔獣と心を通わせる過程を見せるものだ」
「無理に契約するのではないのだな」
「ああ。無理な命令や拘束は禁止されている。魔獣に負担がかかった場合は即中止だ。治癒担当も待機する」
「なら、まあいい」
私は頷いた。
見世物にするという言葉だけなら嫌だった。
だが、きちんと管理されているなら、悪い催しではないのかもしれない。
魔獣について知る者が増えれば、傷つける者も減るかもしれない。
それに、いろいろな魔獣を見られる。
楽しみではある。
「楽しそうだな」
アルが言った。
「顔に出ていたか?」
「ああ」
「そうか。魔獣が多いなら、楽しみだ」
「一応、人間の学園祭だからな」
「魔獣がいるなら十分だ」
「リシェルらしいな」
アルは小さく笑った。
その笑い方も、以前より柔らかい。
やはり愛らしさが増している。
撫でたい。
だが、さっき後でと言ったばかりだ。
今は我慢しておこう。
私は偉い。
「リシェル様!」
聞き慣れた声がした。
振り返ると、ミーナが小走りでこちらへ来る。
手には何枚かの紙を持っていた。
「学園祭の魔獣展示の補助に入ることになりました……!」
「そうか。ミーナなら安心だな」
「は、はい……! 頑張ります!」
ミーナは嬉しそうに頷いた。
「リシェル様も見に来てくださいますか?」
「ああ。魔獣がいるなら行くさ」
「嬉しいです……!」
ミーナの顔がぱあっと明るくなった。
「小型魔獣たちも、きっと喜びます……! それに、今年は展示だけではなく、魔獣競技や契約競技もあって……あ、もちろん、無理をさせるものではありません。先生方もきちんと見てくださるので……!」
「わかっている」
私はミーナの頭を撫でた。
「お前が見ているなら、きっと大丈夫だ」
「はぅ……!」
ミーナは頬を赤くして、紙を胸に抱いた。
アルが横でこちらを見る。
私はすぐに理解する。
「安心しろ、アル。お前も後で撫でる」
「言わなくていい」
「顔に出ていた」
「出ていない」
だが、否定が弱い。
ミーナが目を輝かせる。
「アルヴィン様も、後で撫でられるんですね……!」
「ミーナ、変な納得をするな」
「す、すみません……!」
謝っているが、嬉しそうだ。
学園祭、か。
今までならあまり興味を持たなかっただろうが、ミーナも頑張っている。
そして、アルも隣にいる。
なら、悪くない。
「ところで、アル」
「なんだ」
「学園祭では猫もいるのか?」
「……魔獣展示の話だろう」
「羽のある猫型魔獣などはいないのか?」
「いるかもしれない」
「それは良いな」
「本当にわかりやすいな」
アルは呆れたように言った。
だが、やはり少し笑っていた。
その日の帰り道。
廊下の向こうで、エドガーとベッラを見かけた。
二人は少し離れた場所に立っていた。
以前のように堂々としているわけではない。
エドガーは周囲の視線を気にしている。
ベッラも、取り巻きのいないまま唇を噛んでいた。
こちらに気づいたエドガーの目が、わずかに歪む。
最近、彼の評判は落ちているらしい。
銀角黒豹の時、何もできなかったこと。
ベッラの隣にいながら、責任から逃げようとしたこと。
それらが、少しずつ噂になっている。
ベッラも同じだ。
かつては彼女の周りに、笑って頷く令嬢たちがいた。
今はいない。
それがよほど面白くないのだろう、いつもイラついている。
私としては、静かになったので助かっている。
「行くぞ」
「ああ」
アルが小さく言った。
私は頷いた。
エドガーとベッラのことは、正直どうでもいい。
だが、彼らは私たちを見ていた。
特にエドガーは、何かを堪えるような顔をしていた。
自分の評価を取り戻したい。そんな顔だ。
学園祭は人目が多い。
生徒だけでなく、保護者や来賓も来る。
そこで目立てば、失った評価を取り戻せる。
そう考える者もいるのだろう。
私にはよくわからない。
評価など、猫や魔獣の毛並みほど重要ではない。
だが、エドガーにとっては違うらしい。
すれ違う直前、エドガーが小さく呟いた。
「魔獣に好かれるなど、ただの偶然だ……」
私は足を止めなかった。
だが、その声は聞こえた。
「――学園祭で、証明してやる」
隣で、アルの空気が少し冷えた。
私はちらりと彼を見る。
「アル」
「なんだ」
「後で撫でるのだったな」
「今、その話か」
「ああ。少し機嫌が悪そうだからな」
アルは一瞬黙った。
それから、小さく息を吐く。
「……そうだな。後で頼む」
やはり、正直になった。
私は頷いた。
「任せろ」
エドガーとベッラが何を考えているのかは知らない。
だが、学園祭には魔獣がいる。
可愛いものを傷つけるようなことがあれば、見過ごすつもりはない。




