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第19話 アル、手懐けられる


 シルヴァの件が落ち着いた後、俺たちは屋敷の庭へ戻った。


 離れの外へ出たシルヴァは、しばらく周囲を見回していた。


 白銀の毛並みが風に揺れる。

 久しぶりに外の空気を吸うからか、青銀の瞳はいつもより穏やかに見えた。


 数年前から、シルヴァは離れにいることが増えた。

 無理な契約術の残滓が残り、魔力が荒れ、人を拒むようになったからだ。


 そのシルヴァが今、リシェルの隣を静かに歩いている。

 まるで、ずっと前からそうしていたかのように。


「シルヴァ、外は気持ちいいか?」


 リシェルが尋ねる。

 シルヴァは低く喉を鳴らした。


「そうか。よかったな」


 リシェルは当然のように、シルヴァの頭を撫でた。

 シルヴァは抵抗しない。


 むしろ、自分から少し頭を寄せている。

 信じがたい光景だった。


 シルヴァは誇り高い。

 人に頭を下げることなど、滅多にない。


 それなのに、リシェルにはこうも簡単に触れさせる。

 いや、簡単ではないのだろう。


 リシェルが、そうさせたのだ。


「こちらですわ、リシェル様!」


 エリサが嬉しそうに先導する。

 庭の一角に、猫たちがよく集まる場所があった。


 日当たりのいい温室に近い場所で、使用人たちもよく世話をしている。

 扉を開けると、数匹の猫が顔を上げた。


 その瞬間、リシェルの表情が変わった。

 普段は表情の変化が少ない女だ。


 銀角黒豹が暴れても、シルヴァが威嚇しても、ほとんど揺らがなかった。

 だが今は違う。


 猫を見た瞬間、明らかに頬が緩んだ。


「猫だ……!」


 小さな声、だが嬉しそうだった。


 猫たちは最初、少しこちらを警戒していた。

 だが、リシェルがしゃがんで手を差し出すと、一匹、また一匹と近づいてくる。


 茶色の猫が手の匂いを嗅ぎ、白い猫が膝に前脚をかけた。

 黒い猫は少し離れたところから様子を見ていたが、やがて尻尾を立てて歩いてくる。


「いい子だな」


 リシェルはそう言って、一匹ずつ丁寧に撫でた。

 猫に囲まれたリシェルは、とても幸せそうだった。


 膝の上に白い猫。

 足元に茶色の猫と黒い猫。


 すぐ隣には白銀の大狼。

 普通なら奇妙な光景のはずだ。


 だが、不思議と似合っている。


「すごいです、リシェル様!」


 エリサが目を輝かせる。


「その白い子、人見知りなのです。私でもたまに逃げられるのに……!」

「そうなのか」


 リシェルは白い猫の背を撫でた。


「お前は人見知りなのか。可愛いな」


 白い猫が気持ちよさそうに目を細める。

 エリサはその様子を見て、胸元で両手を握った。


「リシェル様、本当に素敵です……!」


 今日会ったばかりだというのに、すでに懐ききっている。

 エリサは明るく、よく笑う。


 人懐こく見える。

 だが、公爵家の令嬢だ。


 誰にでも心を許すほど、無防備ではない。

 むしろ人を見る目はある。


 幼い頃から、多くの貴族に囲まれてきた。

 笑顔の裏にある打算にも、悪意にも敏感だ。


 そのエリサが、初対面でここまで心を許している。

 リシェルには、それだけのものがあるのだろう。


 美しさだけではない。

 強さだけでもない。


 どこか人を従わせるような威厳がありながら、彼女自身には支配する気がない。

 ただ、可愛いものを可愛いと言い、傷ついているものを守ろうとする。


 だから、魔獣も、猫も、エリサも、シルヴァも。

 彼女に近づくのだろう。


 シルヴァも、リシェルの傍に伏せた。

 大きな身体を横たえ、猫たちを脅かさないようにしている。


 少し前まで、シルヴァは離れから出ることさえ難しかった。

 人を拒み、魔力を荒らし、俺ですら近づけない時があった。


 それが今、リシェルの隣で静かに目を細めている。


 リシェルが救ってくれた。

 彼女は、ただ術式を壊しただけだと言った。


 だが、俺にとってはそれだけではない。

 幼い頃から共にいたシルヴァを、取り戻してくれた。


 俺はリシェルを見る。

 彼女は猫に指を甘噛みされているところだった。


「む、ふふっ、食べ物ではないぞ」


 リシェルが真面目に言う。

 猫は何も気にせず、また指先に鼻を擦りつけた。


「そうか、撫でろということか」


 リシェルはまた猫を撫でた。


 その横顔を見ていると、最初に出会った日のことを思い出す。

 木の下で眠っていた時、俺は突然撫でられた。


 普通ならありえない、初対面の相手だ。

 しかも、俺はルンドホルム公爵家の嫡男で、学園でも人に距離を置かれている方だ。


 それを、あの女は当たり前のように撫でた。

 変な女だと思った。


 何を考えているのか、わからなかった。

 だが、不思議と嫌ではなかった。


 むしろ、その手が離れた時、少し惜しいと思った。


 それからも、リシェルは変わらない。

 俺を見て、可愛いと言う。


 撫でようとする。

 猫や魔獣と同じように扱う。


 腹が立つ。

 恥ずかしい。


 意味がわからない。

 そう思うはずなのに、俺は彼女から離れられなかった。


 気づけば、彼女の隣にいる。

 小型魔獣の時も。


 銀角黒豹の時も。

 シルヴァの時も。


 俺はずっと、リシェルの近くにいた。


 おそらく、俺の中にも聖獣の血がある。

 ルンドホルム家は、聖獣と深く関わってきた家だ。


 遠い祖先には、聖獣の加護だけでなく、その血を受けた者もいたと聞いている。

 動物や魔獣に好かれやすいのも、その影響だろう。


 そして、たぶん。

 本当に自分より強く、信じられる相手には、頭を預けたくなる。


 そんな性質も、俺の中にはあるのだと思う。


 だが、聖獣は誰にでも頭を下げない。

 自分より弱い者。器の小さい者。


 そういう相手には決して甘えない。

 だから俺も、今まで誰にも甘えられなかった。


 両親にも、周囲の誰にも。

 甘えたいなどと思うこと自体、考えないようにしてきた。


 完璧な公爵家の嫡男でいる方が簡単だった。

 冷静で、隙を見せず、誰にも頼らない。


 その方が、ずっと楽だった。


 だが、リシェルは違う。

 彼女は強い。


 銀角黒豹の攻撃を片手で止めるほどに。

 シルヴァの契約術の残滓を壊すほどに。


 そして、その強さで誰かを従わせようとはしない。

 ただ守る。


 撫でて、可愛いと言う。

 その態度が、どうしようもなく俺の中の何かを緩ませる。


 猫たちは何の迷いもなく、リシェルに甘えていた。

 シルヴァも、彼女の傍で穏やかにしている。


 リシェルはその中心で、幸せそうに猫を撫でていた。

 その光景を見て、胸の奥がざわつく。


 羨ましい、猫たちが。

 シルヴァが。


 何の迷いもなく、彼女の手を受け入れていることが。


 馬鹿げている。

 俺は公爵家の嫡男だ。


 猫や魔獣と同じように撫でられたいなど、何を考えている。

 そう思う。


 だが――もう誤魔化しきれない。

 俺は、あの中に入りたい。


 リシェルの近くへ行き、彼女の手に頭を預けたい。


「お兄様?」


 エリサがこちらを見る。

 俺は返事をせず、リシェルの方へ歩いた。


 リシェルは猫を撫でながら顔を上げる。


「どうした、アル」


 いつものように、少し首を傾げている。

 膝の上の猫が、のんびり尻尾を揺らした。


「私に撫でてもらいたくなったか?」


 いつもの調子だった。

 普段なら、すぐに否定する。


 違う、そんなわけがない。

 そう言えばいい。


 だが、今日は言えなかった。


 俺はリシェルの隣に座る。

 シルヴァが静かにこちらを見る。


 エリサも息を呑んでいるのがわかった。

 顔が熱い。


 情けない。

 それでも、逃げる気にはならなかった。


「――ああ、そうだ」


 リシェルの動きが止まった。

 猫を撫でていた手も止まる。


 青い瞳が、少し大きく見開かれた。

 俺は続ける。


「シルヴァや猫たちだけじゃなく、俺も撫でろ」


 言った。

 言ってしまった。


 恥ずかしさで、今すぐ立ち上がって逃げたい気もした。

 だが、それよりもリシェルの反応の方が気になった。


 リシェルは固まっていた。

 本当に、完全に。


 銀角黒豹にも怯まなかった女が。

 シルヴァの威嚇にも動じなかった女が。


 俺の言葉で、目を見開いて固まっている。

 初めて見た。


 リシェルが、こんな顔をするところを。

 少しだけ、面白い。


 彼女は膝の上にいた猫を、丁寧に横へ移す。

 そして、俺の肩に手を伸ばした。


 次の瞬間、ぐい、と引き寄せられる。

 抵抗はしなかった。


 リシェルの腕の中に入る。

 頭に、彼女の手が触れた。


「っ……お前は本当に可愛いな、アル」


 低く、少し嬉しそうな声だった。

 指が髪を撫でる。


「愛らしいぞ」


 胸の奥が、ひどく熱くなった。

 恥ずかしい。


 情けない。

 エリサも見ている。


 使用人も遠くにいるかもしれない。

 公爵家の嫡男として、見せるべき姿ではない。


 それでも、離れたいとは思わなかった。


 リシェルの手は、思っていた通り心地よかった。

 いや、思っていた以上だった。


 ずっと押し殺していたものが、ようやく息をしたような感覚があった。


「お兄様が……自分から……」


 エリサの声が震えている。


「エリサ、見るな」

「無理です。これは見ます」

「見るな」

「だって、こんなお兄様、初めてですもの」


 エリサの声は楽しそうだった。

 だが、それだけではない。


 どこか嬉しそうでもあった。

 シルヴァが隣で低く喉を鳴らす。


 まるで、よかったなと言っているようだった。

 リシェルがまた俺の髪を撫でる。


 丁寧に、確かめるように。


「アルは、撫でられるのが好きなのだな」

「……今さら言うな」

「言われたくないのか?」

「そういうわけではない」

「なら、好きなのだな」


 否定できなかった。

 リシェルは少し満足そうに頷いた。


「そうか。なら、これからはもっと撫でてやろう」

「……好きにしろ」


 自分でも驚くほど、素直な声だった。

 エリサが後ろで小さく息を呑む。


「お兄様が、好きにしろって……」

「エリサ」

「はい、黙ります。でも一生覚えておきます」

「忘れろ」

「無理です」


 リシェルが首を傾げる。


「良いことではないのか?」

「良いことです!」


 エリサが即答した。


「リシェル様、兄をよろしくお願いします」

「エリサ……」

「何をよろしくすればいいのだ?」


 リシェルが真面目に聞く。

 エリサがにこにこと笑う。


「そのまま、たくさん撫でてあげてください」

「わかった」


 俺は何も言えず、そしてリシェルの手は止まらない。

 シルヴァも猫たちも、傍で穏やかにしている。


 エリサは楽しそうに笑っている。

 俺はリシェルの腕の中で、静かに息を吐いた。


 不思議なほど、心が落ち着いていた。

 今まで、誰かに甘えたいなどと思わなかった。


 だが今は違う。

 この女になら、頭を預けられる。


 この女の手なら、受け入れられる。

 俺はこの女に会うために生まれてきたのかもしれない。


 馬鹿げていると思いながらも、リシェルの手から離れることはできなかった。


 それでも俺は今、確かに彼女に撫でられていた。


 胸の奥にあった冷たいものが、少しずつ溶けていく気がした。


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